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2008/03/11

何も死ぬことはない

「考える人」に連載が始まった
「偶有性の自然誌」は分量が30枚で、
書いていると意識の流れが自然と
発酵してきて、どこか遠い世界に
旅をして還ってくる、
そんな気配になる。

 生の偶有性について考えを
巡らせることは、胸がときめく
ことであり、どこかに運ばれて
いくことである。

 シェークスピアに次いで
引用されることが多い文学者、
 イギリスの桂冠詩人アルフレッド・
テニソンの「何も死ぬことはない」
(Nothing will die) 
は映画『エレファント・マン』
でも印象的な使われ方をしている。
生の偶有性が私たちに運んでくる
甘美な不安のときめきを
余すことなく表現するのだ。

私の眼下の川は、やがて流れることに倦むのか?
空を吹く風は、いつ飽きてしまうのか?
雲はいつしか空を行くことから離れるのか?
心臓は打つことを止めるのか?
自然は死ぬのか?
とんでもない。何も、死ぬことはない。
川は流れる。
風は吹く。
雲は空を行く。
心臓は鼓動する。
何も死ぬことはない。

Alfred Tennyson "Nothing will die"

 映画では、難病プロテウス症候群にかかり、
「エレファント・マン」と呼ばれたジョセフ・
メリックが死を決意してベッドに横たわる
ラストシーンで、美しく優しかったジョセフの
母親がこの詩を朗読する様子が幻視されるのだ。

 日経サイエンス編集部で、
富山大学の都留泰作さんと対談。

 都留さんは環境人類学が専攻で、
アフリカのカメルーンのバカ・ピグミー
の調査研究を1年半行った。

 また、沖縄での調査研究の際の
体験を基に、現在月刊アフタヌーンにて
漫画『ナチュン』を連載している。
 
 都留さんがバカ族の村に入って
いって宗教儀礼の調査をする時の
話は、圧倒的に面白かった。

 考えさせられたのは、狩猟採集民族は
皆ある種の人の良さがあるという経験則である。
 カメルーンでも、農耕をする人たち
とは性格が全く異なるという。

 「所有」という観念がないことと関連している
らしい。

 「狩りをした獲物も、皆で分配しますからね」
と都留さん。

 調査中は、カメルーン政府に報告
するために3ヶ月に一度ほど
「街」に出てファックスや手紙を
送る以外は、ずっとバカ族と暮らして
いたという都留さん。

 一体大学の方はどうなっているのかと
言えば、一年くらい調査をして、
帰って学内セミナーで報告する
というのがその分野における
ごく普通のリズムらしい。

 一年ぶりくらいに会うのが
普通だというのは、数学の分野の先生に
も伺ったことがある。

 「大学院生で、一年くらい見ていない
やつなんてざらにいますよ。」

 数学の場合、どこかにフィールド調査
に行っているというよりは「内面の旅」
なのだろう。

 人類学と数学の思わぬ接点を発見する。

 ソニーコンピュータサイエンス研究所へ。
 
 田谷文彦や学生たちと研究の議論を
いろいろとする。
 「お前、ちゃんとやれよ!」と
箆伊智充を励ます。

 新潮社へ。
 『旅』副編集長の葛岡晃さんと
「旅行ガイドに載っていない
魅力的な小さな街」の話をする。

 小学校の頃、学校への通学路の
途中の店に、「ホッピーあります」
という張り紙があった。

 「ホッピー」というのは一体
何だろう?
 
 長年にわたる疑問をといて
くれたのが、わが「ホッピーマスター」
金寿煥さんである。

 金さんが連れていってくれたのは、
神楽坂から脇道を降りたところに
ある「加賀屋」。
 私のホッピー巡礼が始まった店。

 北本壮さんが新潮文庫の
改版『赤毛のアン』を持って現れる。

 足立真穂さんに養老孟司さんの
近況を聴く。

 「ホッピーって何だろう?」
と疑問に思っていた子どもの頃。

 時が流れて、加賀屋で
「なか一つ!」「そと一つ!」
と叫んでいる。
 
 その偶有性に思いが至ると
胸がざわざわする。


加賀屋にて。わがホッピーマスター、
金寿煥さん(左)と葛岡晃さん(右)

 金寿煥さんから、昼に送った
「偶有性の自然誌」第二回の原稿に
ついての感想が届いていた。
 長文であるが、引用する。

茂木さま

 原稿拝受拝読、ありがとうございました。
 前回に続き、咳唾珠を成すような文章ですね。
 「偶有性」というテーマのもつ、広さ深さ温かさが、
 はっきりとした輪郭をもって浮かび上がってきたと感じました。
 
 前半部分、完全に仏教思想と通じますね。
 偶有性を思えば、「”私”である」ことの根拠なんてなくて、
 「私は何が何でも私である」に拘泥するとどうしても苦しくなるけど、
 しかし「仮」の根拠に固執すると、
 偏狭な「私」にしかならなくなる。
 「断念せよ」と松岡さんとの対談でもおっしゃっていましたが、
 (南直哉師「老師と少年」の決め台詞もこれでした)
 重要なのは、断念してからどうそれを受け入れ覚悟するか、なんですね。
 
 目の前に「私」以外の人間が、
 こうしてたくさん存在していること不思議に思いますが、
 そう思うことが閉鎖的な思想につながることはあるとして、
 偶有性を認め、茂木さんのように「私は、全く他の者でもあり得た」と
 少し角度を変えた考え方をすれば、
 そこには穏やかに拡がるものがありますね。
 「人と人とは結局分かり合えない」とシニカルな考えをもち、
 そうした態度で文学や芸術や政治や思想に臨む人間多々だと思いますが、
 「私は、全く他のものでもあり得た」という、
 偶有性をベースにした補助線を引くことで、
 かけがえのないものとされている「私」という存在が相対化され、
 見通しが格段によくなるのかもしれません。
 とはいっても、私は「○○○○」にはなりたくないですが。
 って、そういう偏狭な考えはいけません。
  
 前回もそうでしたが、茂木さんが自身の少年時代のことに触れると、
 そこにはふわっとした時間が漂い、緊張が一瞬ときほぐれ、
 それまでと別の柔らかな流れになりますね。
 そのあたりの文章全体における「押し引き」は、
 もう茂木さんの中では自家薬籠中のものなのでしょう。

 お疲れ様でした。
 とっても忙しいところ、原稿いただき感謝しております。
 次回以降の展開、まったく予測つきませんが、
 それがまた楽しみでなりません。引き続きよろしくお願いいたします。

 新潮社 金寿煥

3月 11, 2008 at 07:27 午前 |

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受信: 2008/03/13 14:13:36

コメント

紹介されていた英詩Nothing Will Dieを翻訳してみました。
お目汚しですがご参考まで。

http://d.hatena.ne.jp/deltam/20080319/1205892449

投稿: deltam | 2008/03/19 11:34:22

茂木さん,おこんばんは。
東京は,ちょっとたじろぐくらい,ざぁーっと雨が降っています。
雨に濡れた道路が好きです。キレイだから。

『思考の補助線』に少し触れ,地下鉄でどぶねずみを見て思い出した。ブルーハーツを聴いていた10代,20代とのとき考えていたことを。
遠い世界へ飛んでしまった。
まさにココロここに非ず。

帰宅する頃にはこちらの世界に戻ってきましたけれど。

結局あまり変わっていない事実に安心し,成長がないのかしら?と少し嘆きつつ,
どんな死を迎えたいかを逆算して今を生きてるのかも…つまりは後悔は少なめを望んでいるんだなと再認識した。安心して眠りにつけました。

投稿: 柴田愛 | 2008/03/14 18:32:34

最近、毎日拝見させていただいています。そこで質問です、茂木先生には、興味がない事はないのですか?

投稿: 寿美 | 2008/03/12 2:56:24

「私はまったく他の者でもあり得た」、というのは、他人の心に共感している瞬間が、他の者でもあり得た瞬間なのかな、と思いました。

土地柄によって我(われ)を強く持つ人が育ちやすいところと、そうでないところがあるかと思いますが、

共感能力が高い人々の中には、不思議な能力を持つ人が多いですよね。

この世離れした、いわゆるイタコとかユタとか霊媒能力や人の心を読む力がある人が多いというか。

知人の認知療法専門家は、共感能力が高い人は、暗示にかかりやすいと言ってました。

理想は、我(われ)と共感能力のバランスが取れていることでしょうね。
茂木さんのように★

投稿: ももすけ | 2008/03/12 2:49:59

それから、狩猟民族の人の良さですが、
私がもし狩猟民族だったら、

今ここに懸命に生きている動物の命を頂くのだから、

私欲でもって、天の恵みを独り占めはできないだろうし、
おのずと感謝の念が出ると思うので、ある意味、農耕民族より宗教的な心が芽生えやすいのかな、と思いました。

農耕であっても、天の恵みにかわりないはずですが、苦労して作物を育てるところに、所有という気持ちが芽生えるのかもしれませんね。

食事を頂くときは「頂きます」、頂いたあとは「ごちそうさまでした」と素直に自然に感謝出来る自分でありたいなと気持ちが引き締まりました。
つづく

投稿: ももすけ | 2008/03/12 2:25:55

ー『何も死ぬことはない』の詩と、甘美な不安のときめきを余すところなく表現するのだ。ー

上記の文ですがここ最近の思いに当てはまる部分があるな、と思います。それは過去にしてしまった事(対する人への負の言動)やそれに対しての色々な思い。時々、自己嫌悪等で潰されそうになる時があります。
でも、だからこそ今度からは絶対にしないでおこうと。私自身が変わりたいからと。そう思っています。

また一歩一歩進んだ先を見てみたいと思います。

投稿: 奏。 | 2008/03/12 2:07:17

茂木さん、こんばんは!
今日は携帯からの書き込みなので、いくつかに分けて送信すること、お許しください。

何も死ぬことはない、で思い出したのですが、

先日とても不思議な夢を見ました。
地球の寿命が来て、人類は他の惑星に移住するんですが、

地球に対して、長年連れ添った相方が死んで遠くに行ってしまった哀しみのような感情が生まれました。

新しい惑星は、地球にそっくりで、死に別れたと思っていた相方の匂いがあるというか。

死んでも死んでいないというか。不思議な夢でした。
何故こんな夢を見たのかよくわからないのですが… つづく

投稿: ももすけ | 2008/03/12 2:06:05

こんばんは。


この時間は、もう
きのうですね。

昨日の帰り道、
身体にここちよく風がなじむ。
飽きる事なく、
ずっとふきつづけている時のなか。


歩道ぞいの桜。
そろそろ変化しそうなようす。


春。
ですね。

きのうの夜は、いつまでも歩いていたい気分になりました。

そして、
おはようございます。
今日も楽しい一日を、おすごし下さいませ。

投稿: 美容師 | 2008/03/12 0:52:37

まず、あわてて(笑)、「咳唾珠を成す」の意味を調べました。
圧倒されるような、重力感のある、深いところからこみ上げてくるグルーヴ感のようなものを感じる金さんの文面。
偶有性の自然誌第一回の拝読にあたって、自分自身で理解するには力不足でしたが、前回の金さんの文面が大いに理解を助けてくれました。第二回も同様に、茂木先生が文章を通じて述べられていることの本質は何なのか、どういったことが背景にあるのか、金さんの文面を貴重なヒントにさせていただきながら、読ませていただこうと思っています。

「一度きりの人生だから楽しもう」という言葉には表面的には安っぽい側面も感じられます。しかし、そもそも「全く他のものでもあり得た」“私”という存在が「たまたま自分にある」という事実を受け止め、一旦は断念するものの、その偶有的な生を根本から受け入れた上で人生の一回性を噛みしめる覚悟ができたとき、生きる時間の中で違った景色が映るのだろうと思います。

「自分が自分であること」の苦しみ。誰もが思い煩う、人間らしいことだと思います。様々な立場の人がいて、それぞれの深い苦しみや悩みを抱えていることを考えると、安直に割り切ることは危険かもしれませんが、ただ、「私は、全く他のものでもあり得た」という偶有性を深く認識することで視野を広げていれさえすれば、「自分が自分であること」の苦しみからもよい意味で少しは開放され、例えば、もう自分は生きる価値がないなどと早合点する前に、生き抜くことに価値があるのだと改められるような気がしました。


連載第二回目、今から楽しみです。「咳唾珠を成す」ような表現も。

投稿: s.kazumi | 2008/03/12 0:11:13

いまから十数年前、『エレファント・マン』のTV放送を見たことがある。

難病を抱えながら、詩と藝術をこよなく愛する主人公ジョセフ・メリックがある寝かたをすると、自分が死ぬのを知っていながら、その寝かたで眠った最期のシーンでの、ラストの部分。

星が瞬き、中心あたりが眩しくなっていくあたりが、本当に印象的だった。

難病を抱えていても、最期で美しい母の姿を見た彼の心は、これまで病ゆえに味わってきた数々の悲しみ、苦しみの中で練り上げられた故に美しいものになっていたのに違いない。

メリックのことで思い出したのですが、先日、これもTVで、普通の人の10倍の速さで老化が進んでいくという難病「プロジェリア症候群」と共に生きるカナダの少女“アシュリー”のドキュメンタリーを見た。

この症候群は、たしか8000人に一人の割合で発症し、平均寿命は13歳といわれていると聞いた。
アシュリーは今16歳で、プロジェリアの平均寿命を3年越えている。彼女は、今、身体中の節々の痛みに堪えているのだという。

それでも彼女は、地元のペットショップで生きものの世話をしながら働くことに、この上ない生き甲斐と歓びを見出しているのだそうだ。

たしか彼女は自分の病について「この身体に生まれついたことを、神様に感謝しているわ」と語っていた、と記憶している。

私達は、手足がそろって、何の障害もなく生まれてきたけれど、よく考えたら、メリックやアシュリーのように、完治が不可能に近い難病を抱えて生まれてきた、そういう可能性もあったかもしれない。

もし、そういう状態で生まれてきた場合、果たして私なら、その障害を抱えてきたことに“感謝”出来る人生を歩めて来れただろうか…。

どんな姿で生まれてきても、その「運命」を従容と受け入れ、かつ、それにめげない生きかたを、メリックやアシュリーに学んだ、そんな気がしてやまない。

投稿: 銀鏡反応 | 2008/03/11 22:05:58

『私の眼下の川は、やがて流れることに倦むのか?空を吹く風は、いつ飽きてしまうのか?雲はいつしか空を行くことから離れるのか?心臓は打つことを止めるのか?自然は死ぬのか?とんでもない。何も、死ぬことはない。川は流れる。風は吹く。雲は空を行く。心臓は鼓動する。何も死ぬことはない。』 "Nothing will die"
目で文字を追いながら,心臓がドキリ,としました。素敵。(言葉に捕まってしまったわ)バナナスプリットを食べながらそう思いました。

投稿: 柴田愛 | 2008/03/11 18:25:18

Nothing will dieを読むついでに、サイトの探索をしてきました。George Orwellの"Animal Farm"を見つけ、アララと驚きです!
このサイト、お気に入りに追加してしまいました。。

投稿: Nezuko S | 2008/03/11 17:56:10

花粉予防のマスクをしていても
沈丁花の濃い香りが鼻先をかすめる春の一日。

「偶有性の自然誌」第2回を楽しみにしています。
ブログでご紹介くださった
Alfred Tennysonの詩をプリントアウトして読んでみました。
韻を踏んでリズミカル

春、新たに来るもの
春は豊かで不可思議で・・・

Nothing will die. All things will change.
何も死ぬことはない。すべてのものは変化するだろう。

めったに読むことの無い英詩
味わい深い一篇を教えてくださりありがとうございます!(^^)!

投稿: 高橋純子 | 2008/03/11 17:19:23

こんにちわ

茂木さんは、一つの事を突き詰めると、十わからない所が出てくると、言っていましたが、私の場合、一つか二つぐらいです。でも新しい課題が見つかると、うれしい感じがします。新しい課題と言う宝のありかと言うか、偶有性の空間がに泡のように頭に「ポワ!!」と出来ると言う感覚です。

二人が美味しそうにホッピーを持っている写真を見ると、ホッピー飲みたくなりました。「ホッピーマスター」って、人にホッピーを飲みたくさせる能力の持ち主ですか?(^^)

投稿: ホッピーのクオリアby片上泰助(^^) | 2008/03/11 14:08:26

ホッピーにつられてやってきましたw
関東来るまでホッピーという物の存在をしらなったです。
ビールが高い時代、労働者がよく飲んでいたそうですね。
中と外があって黒と白がある。
私は白が好き☆ 黒ビール苦手で。
こういう所関東に来てよかったって思ってます(笑)
その写真の居酒屋さん気になります・・
青葉台かな~・・高田の馬場の焼き鳥屋かな~・・

エレファントマン子供の頃衝撃できでした。
内容少ししか覚えてないけど最後に
「僕は人間なんだ」
っていうセリフが印象的かも。
子供の頃って結構意地悪だったりする。
大人の方が純粋のような気がするのは私だけかな・・

投稿: kazu | 2008/03/11 12:24:37

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