全部7825になる
人生における課題の一つは、
いかにより「ピュア」
になっていくかということでは
ないか。
様々に交わりながら、影響を受け、
しかし、芯にある「真水」
の部分を純化していく。
交わり、そして純化する。
吸って、そして、吐く。
「往還運動」の中でこそ、
春はずっとずっと濃くなり続ける。
「私」という樹木は成長し続ける。
ソニーコンピュータサイエンス研究所にて
ゼミ(The Brain Club)。
箆伊智充が「同時性」知覚における
恒常性についての論文をレビューする。
物理的な空間距離に関する知識が、
いかに同時性知覚に影響を与えるか。
触覚には距離という観念はない。
ヴァーチャル・リアリティに
おいても、higher knowldgeとしての
距離は成立しない。
A、Bという二つの刺激に
対するReaction Timeの定量的
関係と、両者のtemporal order judgementの
間にconsistencyがないことの意味。
続いて、関根宗泰が、video ergo sum、
ビデオを用いたヴァーチャル・リアリティを
通して擬似的なout of body experienceを
引き起こしたとするScienceの論文を
レビューする。
rubber hand illusionにおいては、
「自己」の位置は変わらないままに
handのownershipが変化するわけであるが、
そのことと、OBEの差異は何か?
もそもと、「かものはし」こと関根は、
ボディ・イメージについて何らの仮定も
せずにゼロからbootstrappingによって
構築しようという強い志向をもっているが、
rubber hand illusionとOBEの差こそが
よき練習問題であろう。
関根くん、がんばりたまえ!
田森佳秀がゼミに来た!
理化学研究所時代からの私の
親友、及び畏友。
今は金沢工業大学にいる。
ある時、
数学の問題を夕方から解きだし、
「夜の8時になったらあのカレー屋に
行こう」と楽しみにしていた田森。
「そろそろ行こうか」とドアを開けると、
何か変だ。
さわやかな空気が流れ、雀がちゅんちゅん
鳴いている。
夜の8時ではなかった。いつの間にか、
朝の8時になってしまっていたのだ。
あれれ?
そんなぶっとんだエピソードに事欠かない
数学の天才、「恐怖のアルゴリズム的頭脳」
の田森佳秀。
最近の「趣味の数学活動」の話をはじめた。
25×25の「魔法陣」。
「縦横、足すと全部7825になるんだよ。」
と自慢する田森。
「それだけじゃない。どの超対角線をとっても、
全部7825になる。つまりは、結晶と
同じで、並進対称性があるんだね。」
「さらに! どの5×5の正方形をとって
きても、全部7825になる。へへん。
すごいだろう。」
こういう話をしている時の田森は
本当にうれしそうである。
「でもね、これ、世界で初めてだと
思っていたら、何と、ベンジャミン・フランクリン
が見つけていたんだよ。残念!」
「そんなことをして何の役に立つのか?」
などと聞いてはいけない。
田森にとっては、数学を考えることが
何よりの喜びなのだ。
大好物のカレーを12時間も忘れてしまうように。
ゼミメンバーの中には、「田森初体験」
の学生もいて、普段は眼にすることの
ない「変わった人」を喜んで見つめていた。
銀座のエルメス・ギャラリーにて、
j-waveでon airされるラジオ番組の
収録。
朝日新聞社の下の「アラスカ」にて、
読売新聞の「オンとオフ」の取材。
「アエラ」の山本モナさんとの対談。
尾道出身のモナさんと、かの街の
素晴らしさを楽しく語った。
photo by Tomio Takizawa
赤ちゃんは純心だと思いがちだが、
価値があるのは大人の純真では
ないか。
魂が濁っているか、それとも澄んでいるか。
そのことにこそ、最大の価値を見いだす。
泥の中にまみれて、もまれて、
埋もれてこそ、輝きを増すものは
確かにあるのだ。
田森は、年間で26コマも授業を
担当しているらしい。
2月 22, 2008 at 08:31 午前 | Permalink
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ここ2,3日は、穏やかで、
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思い出(18歳) (第二回)
谷島瑶一郎
うす暗い木立ちの中は、湖の底にいるようにしずまって、
きつつきの幹をたたく音、低い... [続きを読む]
受信: 2008/02/23 6:39:14
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コメント
茂木さん、こんばんは!
今日の日記を読ませて頂き、
茂木さんの文章から、
音楽のように流れる美しさの源が、
なんとなく見えたような気がしました。
お釈迦様の愛した、蓮の花のようですね。
泥沼の中で、たくましく成長して、やがてとても美しい花を咲かせる、蓮の花のようだと思いました。
以前、ご自身のことを、どちらかというと小乗のように思う、と言われてましたが、なるほど~。と思いました。
あれれ、途中から訳わからなくなってきたようです、変でしたらごめんなさい。
茂木さんから聴こえる、美しい音楽に浸っては癒される今日この頃です。
毎日ありがとうございます(*^_^*)
投稿: ももすけ | 2008/02/23 3:36:49
ひっそりと流れる小川から、山の頂上にある源泉を目指し、
急流に逆らいながらもボートを懸命に漕ぐとき、
その積荷を軽くすることが生きるということではない。
上手に分別がつく人になることが、
大人になるということではけっしてない。
母校の卒業式で、僕は校長先生からそう教わりました。
茂木先生の考え方と似ているな、と思いました。
泥に埋もれてもなるべくピュアでいることを心がけ、
どんな激流でもなるべく積荷を軽くしないようにすれば、
同じ人生いう枠組みの中で、徐々に見えてくるものが違ってくる。
そう信じて、いま流行の効率主義なんかに逆らいながら、
私という名のボートを漕ぎ続けようと思いました。
投稿: ひろぽん | 2008/02/23 0:57:24
こんにちわ
茂木さんの、「真水」への言及で、思ったのですが、古代ギリシャ哲学の元素への言及で、土、空気、火、水の四元素がありますが、彼らは、物質への言及ですが、物質を映す心の世界の元素への言及ではなかったか?と、思うのです。土、空気、火(光、太陽)、水は、人類が魚だった頃より前からあるものであり、脳が進化する上で、土、空気、火、水が、物質を映す心の世界、内面の元素として、進化してきたと考えられるのではないか?と、思ったしだいです。
一回しか経験がした事がないですが、ある問題を考えていて、1時間ぐらいたったかな、と、時計を見ると5分ぐらいしか経っていなかった、と、言う事がありました。(^^)
投稿: 四元素のクオリアby片上泰助(^^) | 2008/02/22 21:49:10
こんばんは。
山本モナさんとのツーショット、本当に素敵ですね!
モナさんが尾道出身とは、初めて知りました。
最近、TV番組で尾道の特集を見る事があるのですが、猫達がとても穏やかな表情で、街中の路地などでまどろんだりしている映像を良く映し出しています。
25×25の魔方陣。縦横斜め全て足すと7825になるとは…!おぉ、何と奥深くて面白いのだろう!
この面白さが小学生の時分でつかめていたら、数式や数字を見ただけでアレルギーのようになる“数学嫌い”にならなくて済んだのに…。
でも、最近はそんな数学嫌いも、切っ掛けさえあれば抜け出せることが出来るかな?と思えるようになりました。
さて早春の梅や寒桜の便りが漸くきかれるようになりました…。
職場近くの公園に植えられている、染井吉野の花芽はまだまだ固くつぼんでいるが、今年は大いに寒波地獄の試練を受けているので、時期が来たら何時もよりも華やかにわぁっ、と咲くだろう。
人もまた、年を重ねる度に遭遇する、その寒波地獄のような人生の試練の真っ只中で、逃げずに闘っていった時、魂がどんどん澄んでいくのかもしれない。
私の場合、本当にまだまだ、試練との出会いが足りないな、と思っています。
投稿: 銀鏡反応 | 2008/02/22 21:27:57
こんばんは。
久しぶりにPCにゆっくり座れ翻訳機能を使って、
読むことができたのですが、下記のようになってしまいました。
>rubber hand illusion(ゴム手幻想)においては、
「自己」の位置は変わらないままに
handのownership(所有)が変化するわけであるが、
そのことと、OBEの差異は何か?
ゴム手幻想ってなんなんだろう?と考えてしまいました。
私が「存在が存在している!!」と感じた時の手は「素手」でした。
もう一つの体験もやはり、素手でした。
って関係のない体験談だったかしら?
OBEの意味がわからないので、差異もわからないです。
(知りたい・・ボソ)
田森さんは、本当に数学がお好きなんですね。
私の人生の最大のショックは、数学がファジーだったと知ったときでした。
信じるものがなくなったかのようにすっごくショックを受けました。
でも、数字と絵が関係していると知った時と、数字の「0」がインドで発明?されたと知った時は不思議な世界を垣間見ました。
今読んでいる本の中に「情熱的に愛せよ」と言う言葉があって、とても
気に入っていたのですが、田森さんには、かなわないな~と思いました。
「情熱的に愛せよ」・・これなら私もできそうなので、そんな生き方を
目指します。
投稿: あすか | 2008/02/22 21:20:09
いかにピュアになっていくか・・。なげきも雨も風も磨くためにあるのでしょうか・・・。
投稿: 井上良子 | 2008/02/22 13:17:21
本当にどれだけピュアになれるんだろうって日々葛藤です。
忙しい時、目的地に早く行きたいのに駅の改札口でもたもたされたらイライラってする。
でも自分も同じ事あるかもしれないからゆっくり待ってあげようと思えるか、早くしてよ。このノロマって思うのか。
きっとめちゃ忙しい時だったら後者だろうな。
人にやさしくなれる時、自分にユトリがないとなれない気がする。
そしていつも反省して落ち込む・・
その繰り返しなのかも。
きっとこれで満足って思える生き方なかなかないのかも。
常に探究ですね。
理研といったらわかめちゃんって思ってしまいますが。
工業大で活躍されているみたいですね。
家にも帰れず・・睡眠時間も短く・・
ファイト~♪働きマン!
朝はモーツアルト。何故モーツアルトってこんなに明るいんだろうって思うぐらい明るい曲です。
本人はめちゃくちゃ陽気な人なんだろうなって思ってしまう。
起きて茂木先生のブログを見るのが日課になりそうです(笑)
投稿: kazu | 2008/02/22 13:09:49
こんにちは
興味のある記事に出会うといつも考察させてもらっています。
>触覚には距離という観念はない。
コーヒーが入ったカップを手のひらに置いてみる。
ほんのり暖かさが伝わってきて、カップ独特の質感が伝わってくる。
しかしよく考えると、ずっしりと重さを感じる。
重力もまた、私にとっては触覚によって感じられる。
少なくとも私が感じているこの重力には
距離という観念はないのではないかと疑ってみる。
カップを手にもったまま、窓の外を眺めてみる。
あの向こうの「雲」と、「カップ」と、「私」、距離は確かにあるように感じるけれども
みんなこれは『私』の表象だ。【表象する『私』】と【表象される「雲」「カップ」「私」】。
この関係にも、そもそも距離の有無が成立しない。
触覚に距離という観念がないことと関係しそうだ。
物体の色彩の光が、それとは離れたとこに位置する私に入ってくる様を、表象する『私』がみることはない。光はどんなものであっても、距離の有無が成立しない状態で、表象する『私』に現象する。表象される「私」が表象された距離をどんな速さで動こうとも。
光速度不変の原理と関係しそうだ。
私達にとって、距離とは少なくとも距離のクオリアとして現れている。
クオリアのないところに距離はないといってしまうと偏った見方になってしまうが、
おそらくクオリアではない所には、(私達がそうであろうと思い込んでいる意味での)距離の有無は問うことはできない。
距離という観念を疑ってみる。・・・
投稿: 金田恭俊 | 2008/02/22 12:42:09
こんにちわ
以前、茂木さんの本で読んだ、猿が、棒を持つと、体の一部のように脳が反応する、ような事を読んだ事があります。
ヴァーチャルリアリティーの自分のキャラクターが、自分の一部と感じる事と関係しているのではないでしょうか?
また、スポーツ等で、体で考える時、幻肢を追って体を動かすのでは、と、考えたりします。
「ベンジャミン・フランクリン」の「ベンジャミン」と聞いて、「カナダ出身の辛口のジャーナリストか?」と、一瞬思ってしまいました。(^^)
投稿: ヴァーチャルクオリアby片上泰助(^^) | 2008/02/22 9:56:44
田森さん、ステキな方ですね☆
夕方から数学に取り組み始めたということは
3時間程で切り上げてカレーを食べに行く、という
タイムスケジュールが脳の中で作られていたということ。
それを12時間もオーバーするほど夢中になってしまった!と。
すごい。。。それほど数学を愛してらっしゃるんでしょうね♪
わくわく楽しんでできる、これこそ茂木さん流勉強法ですね!
わたしも昨日また「脳を活かす勉強法」読みました。
3回目になりますが何度読んでもおもしろいです。
そして前回とは違った部分が頭の中に残り、
違った意味でも楽しめます。
茂木さん流勉強法を実践しながら読んで楽しむ。
このパターンがわたしにはいいようです。
投稿: Loly | 2008/02/22 9:23:44