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2008/02/17

ソクラテス

朝日カルチャーセンターにて、
植島啓司さんと「聖地」について
お話しする。

神様が「立ち入り禁止」
の立て札を置いている。
そう簡単に、「あちら側」には
行けない。

その向こうにある星辰の広がりを
こそ、私たちは想像し、震撼する。

植島さんが偶有性の話をした。
ジャングルを歩いている。
雨が降ってくる。
近くにあるバナナの葉で
避ける。

そのような一連の流れと、
傘をあらかじめ用意して
おくことは違う。

植島さんは、傘を用意して
おくのは嫌なのだと言われる。

レヴィ・ストロースの言う
「ブリコラージュ」には、
私たちの生命を育む
断片とそのつながりが
たくさん含まれている。

入不二基義さんと永井均
さんも講演をされていて
榊原淑子さんのアレンジで合流する。

永井さんと師弟関係にある
川上未映子さんもいらした。

「おしら様哲学者」塩谷賢と、
久しぶりにゆっくり話す。

「君の言う、一回性というのは
どのようなことだい」
と塩谷が聞く。

塩谷に手垢のついたことを言っても
始まらない。

トラジェクトリーを一つひとつ
扱う、それを統計的アンサンブルにして
傾向を見るんじゃ消える、という
のでは当たり前で、その前提と
なる時間や空間の成り立ち自体に
ついての懐疑にまで至らなければ
ならないのだ。

「つまりさ、生命というものを
考えていくと、時間の問題に
当たらざるを得ないんだよ。」

「うん、わかった。それじゃあ、
その時に空間というものは
どう考えているんだい?」

塩谷はソクラテスかもしれないと
思うことが時々ある。

それならば、ボクはプラトンに
なろうと志願して
塩谷の粘着質どろどろ未解明の
思考を分析しようとするが、
なかなか歯が立たない。

日本の哲学界では、誰もが
塩谷のことは知っていて、
しかしその思考をいかんとも
し難いので、投げ出している。

かくして、塩谷は奉り上げられて
「おしら様」となる。
それが、塩谷にとって幸福な
ことなのか、不幸なことなのか。

バーで飲んだ後、塩谷と二人で
牛丼屋に入った。

ボクは生卵をつけるのが好きだが、
塩谷は苦手だという。

「じゃあ、並盛りだけでいいんだな」
と確認すると、それでいいんだ
という。

ボクがとって勧めたお新香も、
塩谷は「いいよいいよ」と
二度ほど言ってから手をつけた。

流通しているもんなんて、大した
ものじゃないと思う。

その一方で、塩谷と18歳の
時に出会って、
駒場を猛然と歩きながら
シュトゥルム・ウント・ドランク
して、隅田川のほとりで
ビールを飲みながらくだを巻いて、
カップルが僕たちの周囲を半径10
メートルくらいに避けて歩いていって、
とにかく向き合おうとした
問題の動かしがたさと、
やっかいさと、何も変わって
いない感じと、塩谷が
哲学界で奉られてしまっている
感じと、さまざまを思い合わせると、
どす黒い絶望のようなものが
込み上げてくる。

「お前が、いったんは社会的身体を
まとったら、いったいどんな姿に
なるんだろう?」

オレは塩谷に問うた。

「どうなるかわからないから、
オレはおそろしいんだよ。」
と塩谷は言った。

一度対談本を作らねばなるまい。

流通しているものなんて、
くだらないと思う。

しかし、万人の胸にどうしても
流通できない鬱屈した思いは
必ずあるはずだと信じるならば。

植島さんの
バナナの葉の話ではないが、
不意打ちされる時に
もっとも大きな恵みを受けられる
ことは確かだ。

ボクは、塩谷と深夜の牛丼屋に
たどり着いて、本当にうれしかった。

塩谷には、57歳まで、
社会的身体をまとうことを
猶予してもいいよ。

「どうしてだい」と塩谷が
聞くから、
「カントが純粋理性批判を出版したのは
57歳」
と呪文のように答えた。

2月 17, 2008 at 08:22 午前 |

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コメント

う~ん、登場人物がまるで熱帯ジャングルのように多様な日記ですね。植島さん、レヴィ-ストロース、牛丼、生卵、永井さん・・・。

中で、川上未映子さんが目にとまった。
私は彼女が芥川賞受賞インタビューで「めっちゃうれしい」と語るのをTVで見て、よしもと新喜劇さながらにズルッと滑りそうになり、時代の推移を感じた(受賞作はそのうち読みます)。

昔の遊びに連歌があったけど、クセのあるメンバーで連対談(一定方向のサイクル対談)でもすれば、個人の想像力を超えたことが不意打ちで全員に現れるかも。

投稿: fructose | 2008/02/23 3:53:24

時折登場するおしら様。この方の学生時代の出来事を読んでみたいです。

投稿: 蒼い月 | 2008/02/17 20:20:02

こんばんは☆

「無知の知」について思い出しました。人間学で哲学のほんのさわりを勉強しているのですが、ギリシア哲学のあらましを読んでいたとき、「あたし賢くないって自分で解ってるって、あたし賢いんじゃん!」と、家族へ発言しました。きっと大きく胸を張って。笑。 
わかっていないのに、わかっていると思うことが「無知」、わかっていないことを、わかっていないと認識している状態が「無知の知」なのですよね。

「社会的身体」とは、世間一般のいう「大人」になり、つくづく「社会」に縛られるということでしょうか? わたしはそう感じます。
自分勝手なお願いではありますが、このままの茂木さんでいらっしゃったらいいなぁと思います.**。♪

投稿: 才寺リリィ | 2008/02/17 19:21:54

自分は、アインシュタインのエピソードの中で、「風呂に入る際に、頭と身体で別のもの(石鹸とシャンプーらしい?)を使うのは苦痛だ。」(真偽は定かではありませんけど)というエピソードが好きです、世の中の全ての現象を一つの公式にした人らしい、と、勝手に思っています‥世の中には、物事を「複雑にする人」と「シンプルにする人」がいますけど、複雑にする人達が‘頭のいい人’として尊敬される傾向があります‥でも、現実は違います、初期のNASAのトップ、フォンブラウン、宇宙飛行士の毛利さん、にしても同様です‥茂木氏のメディア露出にも、そういったものを感じます‥R30.に出演された際に特に感じました‥対象のこと(レベル)を考えない講義、、多いです。

投稿: 森 久和 | 2008/02/17 17:57:01

そんな関係性が許されるのか、と。
塩谷さんとの関係、とても羨ましいです。
「社会性」は個々人に主体性を求め、
「やらない」を「できない」にすり替えてしまいます。
それが、いやで、あまり多くを他者に望まなくなってしまいました。
「可能性」を大切にする社会になってほしいと望んでいます。
それでは

投稿: 匿名 | 2008/02/17 15:15:16

こんにちわ

夏目漱石の「坊ちゃん」、紫式部の「源氏物語」、アインシュタインの方程式、ダビンチの「モナリザ」、ベートーベンの「運命」、彼らの作品は風化しない、まるで、金やプラチナのように幾年も輝きを放っている。
また、彼らの作品は、幾年も生まれてくるものたちに、一回性と偶有性を与え続けている。

「一生モノ」より、「永久モノ」を、創ったり、見つけるのは、相当な偶有性が必用ですね。(^^)

投稿: 流通とクオリアby片上泰助(^^) | 2008/02/17 13:25:53

おはよう御座います。この間まで氷のように冷たい寒気が、今日になって、ようやく緩み始めたようです…。

時間という“主人”の掌の中で、私達はひねもす何か仕事をし、すはすは呼吸をし、食べ物を食べ、いろいろな物を拵え、善と悪、生と死、星々の運行と生命の実在、そして数多のファンタスティックな物語を頭の中から産み出しながら、三次元世界に存在している。

古代から、世界中の人々はこの世に遍在する、様々な命をもったものたち、あるいは生命そのものを生み出した、大いなる何かに対し、深いおそれと敬いを込め、その何かをたたえる為に「聖地」を作り、祈りを捧げてきた…。

それは今までも変わらないし、これからもそうに違いない。


ところで、私は聖地というものについて、私達ひとりひとりの胸のうちの、その奥底に光を放つ、いわば私達が前向きに生きようとするための底力を秘めた“根源的な希望”こそが、本当の「聖地」なのにちがいない、という考えを持っている。

それへの、無意識のうちでの深い思いが、世界中の様々な人々に、各々の場所で数々多様な姿をした「聖地」を作らせたのでは、と思っている。


世俗は本当に雑多で、付き合い過ぎると、確かに疲れる。そういう時は人は必ず「聖地」に向かい、雑多で時に鬱屈しがちな思いの丈を、力の限りに語り、明日への思いを、幸せの実現を、祈りとして捧げる。

それが、実は自分の「内なる聖地」と真正面から向き合うことになるのだと思う。

p.s.昨年5月28日の美術解剖学ではじめて塩谷さんをお見かけして以来、そのたたずまいが、私の中で今も強烈な印象として残っています。

投稿: 銀鏡反応 | 2008/02/17 10:37:26

私の存在に対する考えは、「不確か」が根底にあります。中学生の頃、全ての事、物、精神活動、他、自分をとりまく現実に「在るのか?、今、自分はどの空間にいるのか?」との疑問を持ってしまいました。見えている物さえ本当に存在しているのだろうか?と。
それまでは、普通の文学を読んで楽しめていたのに、それが薄っぺらな読後感となり、抽象概念の本へと移行していきました。学校生活は極普通に送り、大学ではデザインを学ぶという、実利的な生活に何も支障はありませんでした。しかし、現実が自分の脳で感じさせられていることに、とても、曖昧さを感じ、また、現実に対する「確かさ」を未だに得られないことから、既存の価値観に対する真摯な思いもあまりなく、どこか投げ遣りな自分を許容してきました。多くの思想他、書物を読んできましたが、「時間」だけが、無いものでも、在るものでも動かす大きな力であると感じ、それが皮膚感覚的に身体にも触れていることから、「時間論」を進めてみようと思いました。
おしら様は、どんなことをお考えなのでしょう?

投稿: Nezuko S | 2008/02/17 10:10:55

思わず一緒になって考えてしまいました。

私が三重県に住んでいた時に見た不思議体験の中に
ヒントがあるような気がしてますが・・・。

時間と時間の間に空間があったんです。
でも、正確に表現すると、未来と過去でした。
それを体験した後になぜ、空間があったのか不思議でしたが、
今思うとですが、それぞれが移動(スライド?)していたので、
移動するには空間が必要だな~と今思ったのですが・・・。

ただ、「うわ~!!存在が存在している!!」と言う体験で感じた空間には、
○○があるようだがない。
○○がないようだがある。と言うものだったので、矛盾しているような・・・してない様な・・・。

でも、茂木先生のコメントにある
「トラジェクトリーを」から「時間や空間の成り立ち自体に
ついての懐疑にまで至らなければならないのだ。
」の意味がわからないので、私、変なこと書いているかも。

私は本当に知識がないので、自分の「体験談」の話をしているだけだな~って、今、気がつきました。
「体験談界」と「知識界」繋がるのは難しいでしょうか?

投稿: あすか | 2008/02/17 9:57:26

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