多文化に通じること
英語が自由に読めてよかった
と思うことの一つは、
ある問題について日本語とは
違う感性、考え方
に接することができる
ことである。
google newsの
UKやUSの項を読んでいて、
ときどきそう思う。
多言語主義の本義は、
他文化主義にある。
高校の時はゲーテやワグナー、
ニーチェなどドイツ圏の人たち
のものが好きだった。
一時はドイツに留学しようかと
思ったくらいだったが、
これら「ドイツ的」と呼ばれる
人たちは、実はひとり残らず
ヨーロッパの中の多文化によって
鍛えられている。
当時の限定の中で、
コズモポリタンだった。
必ずしもその土地の母国語ではなく、
翻訳や吹き替えを通してでもいい。
多言語に通じる以上に、
多文化に通じることが、
とりわけ文化の創造にかかわろうと
する者の必須の教養ではないかと
考える。
日本語圏だけの感性、考え方の
中に埋没していると危うい。
一日中デスクワーク。
そんな時、ついついうっかりしていた
仕事の締め切りが飛び込んでくると
衝撃が走る。
しかも複数。
目をつり上げて一生懸命にがんばる。
何しろ、ふり返っても仕方がない。
自由になるのは、「今、ここ」から
先だけなのだ。
チョコレートを一つ口に入れ、
コーヒーを飲み、
仕事と自分の間の距離を
なくしてしまう。
生きるって、一体何なのだろう。
地上に生を受け、
己というもののやりきれなさを
一番実感できるのは、
特定の目的に束縛される
ことなく無限定に投げ出されている
時間帯だ。
たとえば、為すすべもなく
夕陽を見ている時。
仕事と自分の距離がなくなって
一体化してしまっている時には、
自我のアイドリングが無くなって
しまい何か大切なものが
失われてしまっているが、
しかし代わりに
無意識のうちに様々なものが
鍛えられる、その衝動に充ちるのだ。
コンビニに歩きながら
筑摩書房の増田健史(たけちゃんマン)
と電話で喋ったとき、
背後から聞こえていた山の手線の
駅のアナウンスがまるで
異世界からの響きのようで、
多文化は日常の
ごく当たり前のことの中に
潜んでいるものだと思う。
言語はそれを擬似的に包む。
たとえば、カラスやハトや
スズメといった、
身近な生きものの
振る舞いの中に。
あるいは街で会った
見知らぬ人のしぐさの中に。
1月 8, 2008 at 05:42 午前 | Permalink
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コメント
海外の文化に限らず、多文化への扉は、
案外、私たちの傍らに潜んでいるのかもしれませんね。
出身の異なる者、世代の異なる者、考えの対立する者など
お互いの立場が違うからこそ、
理解するための対話を重ねることが必要なのに、
果たして異なるものの声に対してどれくらい耳を傾けているだろうか。
安定、安泰の中で自己正当化にすがりついていないか・・・。
異世界を理解せずして
凝り固まった理論を一方的に他者に突きつける行為は
極めて危険だと思います。
あらゆる立場の異なるものに心を開くことで、
異文化に触れ多様性を自らの中に取り込んでいくこと。
それは個性の育成にもつながると思います。
>仕事と自分の距離がなくなって
一体化してしまっている時には、・・・
無意識のうちに様々なものが
鍛えられる、その衝動に充ちるのだ。
「忙しい」とか「もう無理だ」なんて愚痴をこぼしつつも
自分を意識しているうちはまだまだなんですね・・・。
自分を見失うほどの境地に立たされたときにこそ
無意識の中に変化が起きているのですね・・・。
今日、日経サイエンスの「科学のクオリア」の頁、
「意識は脳の中のイリュージョンか」(前野隆司さんとの対談)を
書店で読みました。
お互いの、クオリアや自発性に対する見解の違いを理解していく中で、
茂木先生の次々と巧妙に発せられる質問が、
突き詰められた論理の展開を繰り広げていたように感じました。
いつもと比べての質問の多さや勢いから、
途中で口論になりはしないのだろうかと、紙面を通じてとはいえ、
素人ながらドキドキ&ちょっとスリリングでした(笑)。
そして最後には異なる立場の理論をしっかりと評価されていましたね。
両者の間で、99%の共通の理論と1%の違いがあるとき、
大抵は1%の違い、小さな差異の方にどうしてもとらわれてしまうが、
重要なのは99%の土台の部分が共通していることを大切にし
これを前提とした上で1%の差異を議論すること。
そういう意味で我々はもっと討論すべきだし、
その喜びをかみしめたい。
1%の異なる考えがあるからこそ、
科学の多様さや世界の広がりにつながっているのだ。
といったように(間違っていたらすみません)総括されている点に、
新たな視点を教えていただきました。
投稿: s.kazumi | 2008/01/08 23:44:46
茂木先生の文章を読んでいると
とても心地良くなれます。
今日1日の色々な事が払われるかのように
包まれて
昔感じていた安心感や
忘れかけていた存在を思い出せるような・・・
投稿: かなえ | 2008/01/08 20:41:57
いま、英文の訳文に挑戦しているけれど、とても難しい。
今日の日記には、ある意味「コスモポリタンとしての生き方」の為の、
一つの大きなポイントが隠されていると思った。
世界中のあらゆる言語に通じる以上に、あらゆる世界の文化を知り、そこに住んでいる人々の姿を少しでも知り、世界の多様な文化の姿に通じるようになる…。
それはやはり、地球人の一員として生きるためには、本当に必須な、大切なことだと思う。
どんなかたちにせよ、世界の様々な言語圏の藝術、文藝、哲学などに、仮令少しずつでも好いから触れていく…そのようなことの繰り返しの中で、本当の意味での多面的・多元的な感性は育まれていくものなのだ…。きっとそれが「コスモポリタン」になるということなのに違いない。
投稿: 銀鏡反応 | 2008/01/08 19:24:53
こんにちわ
アイディアは、アイディアを出尽くしてからが勝負のような気がします。自分の前人未到の領域、場合によっては、人類未踏の領域に達している事になっていますからね。
私の場合、英文を数行読んで、ブラウザーに付けられるグーグルバーの翻訳のボタンを押してしまいます。(^^)
投稿: アイディアのクオリアって何by片上泰助 | 2008/01/08 18:02:17
もしも・・・
もう少し早く英語を学ぶ意味について知っていたならば
モチベーションは違っていたでしょう。
茂木博士の↓コメントに感動しました。
英語が自由に読めてよかった
と思うことの一つは、
ある問題について日本語とは
違う感性、考え方
に接することができる
ことである。
日本で英語を教える立場の人がこういう考えで
教えているでしょうか?
ただただ、単語を無味乾燥に覚えても面白くないですよね。
受験英語は必要だけど、英語を学ぶ意味と面白さを
もう少し早く知りたかった・・・
そういう意味では、赤毛のアンの英語番組は面白いですね。
やっぱり、学ぶからには「読みたい」「知りたい」ものが
ないと・・・・苦行だけでは続きません。
楽しく英語に取り組んでいきたいと思います。
やっぱり量が必要だな~
でも、ネットで読もうと思えばいくらでもタダでゴロゴロ
英語の素材が転がっていますよね。
自由に読めて、自由に語れる力量を身に着けたいなと
思う今日この頃です。
投稿: ふわく | 2008/01/08 6:07:16
うん。うん!
投稿: りり | 2008/01/08 5:53:56