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2008/01/14

ぴんと張り詰めたもの

 やっぱり、本を読むのが好きだ。

 小学校5年生の休日、図書館から
厚手の本を5冊借りてきて、
 夕方にかけて一気に読んだ。

 最後は鼻の奥がつんとした
けれども、
 活字に目を走らせている
時間の流れの中で、
 自我がしっかりとした芯を
持ちながらしかし白く甘く
とろけていく、
 あの最高に覚醒していながら
この世界から消えている
 時間の流れに変わるものは
ない。

はしるはしる、わづかに見つつ、
心もえず心もとなく思ふ源氏を、
一の巻よりして、人もまじらず、
きちやうの内にうちふして、
ひきいでつつ見る心地、きさきの
くらゐもなににかはせむ。 

菅原孝標女 『更級日記』(1059年頃)

 本を読んでいたら、
いつの間にか眠っていた。

 霞ヶ浦のほとりを
走っていると、次から次へと蓮
の田んぼが姿を現す。

 極楽の象徴として蓮の花が扱われる
のは泥から咲き出でるからかと
思うが、
 眠りもまた、泥の中にまみれて
夢という花を咲かせる一つの
境地のようにも思われるのだ。

 先日、五反田の「あさり」に
新潮社の人たちが来て
話した時、
 いろいろ芸談じみたことに
なった。

 編集者というものは
活字の世界のプロであって、
プロ同士の話というのは
本当のところを突きつめて
いけばぴんと張り詰めた
ものがある。

 「売れる」ことがすなわち
正義であるという商業主義の
世の中でも、プロたちの
考えていることは変わらない。
 そこにあるのは本気であり、
批評眼であり、
 冷静なものの味方。
 ただ、それが市場の熱狂に
必ずしも直結しないだけの
ことである。

 そのような現場で交わされる
きびしい言葉の群れは、
 手当たりが一見峻厳であるように
見えて、 
 実は泥のように眠る夢の
マテリアルに近いのは
何故なのだろう。

 他者を意識しない没我と、
刀と刀が当たる音のする
修羅場が同じ様相を呈する。
 
 かえって、市場での人気
といった社会性の本義に思われる
領域の方が、自我の奥では中途半端な
場所しか占めていないように
思えるのだ。

「人気」に堕すと自我の
まとまりを失うように感じられるのは
そのためだろう。

 昨日は空気が凛と冷たくて、
歩いていても実質的な気持ちが
した。

 春が来る前に、もう少し
寒流の中に身を浸す時間が
あっても良い。

1月 14, 2008 at 08:22 午前 |

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コメント

私の場合、興味のあることや本当に好きなものに対しては
マニアックなまでに追求・没入してしまう傾向があります。
特定の対象に向けて意識を強く集中してしまう癖
が引き起こすアンバランスとしてか、
それ以外のことに対しては意識が向きにくく、
例えば世間的に常識とされているような事や流行については、
つい疎くなってしまいます。
それがコンプレックスでもありますが・・・。
だから、人から「えっ、○○って有名だよ。知らないの?」
などとよく言われます(汗)。
もちろん言われる度に傷付くし、
知らないことがどれだけ多いかを思うとぞっとします。

若い頃、周囲についていけないとまずいと思って、
その時々の流行を知る努力をしてみたこともありますが、
結局、それだけだと中身の伴わない空虚感を味わうだけでした。
文字通り、「流れて行く」だけで、心にとどまらないのだなあ、と。
ただ、自ら取捨選択し、
必要な部分をきちんと取り込んでいる人は羨ましいです。

様々なものが流通し、私たちを取り巻いている中、
市場の熱狂に直結しなくても
素晴らしいものは知らずと満ち溢れているはずです。
もちろんポピュリズムの波の中にも
優れたものは確かに存在するだろうし。
だからこそ、時には疑いや問いをたててみたりしながら
真価を見極める眼を養っていかなければ、ですね。

投稿: s.kazumi | 2008/01/14 23:01:51

こんにちわ

批評されていると、批評を批評するようになる。良い批評、悪い批評が、わかるようになる。良い批評は、良い方向性を内示したり、創造性を内示したりするのが多い。


みんな、良い批評をしよう。(^^)

投稿: 批評のクオリアby片上泰助 | 2008/01/14 19:33:57

私も本を読むのが好きです。

正月休みの間は、橋本治さんの『小林秀雄の恵み』をゆっくりと読んだ。
最初に出てくる、この本を生むきっかけを仕組んだ編集者の後押しについての記載が面白かった。そして、このエピソードがこの本の内容をうまく要約している。構成が上手い!

いかんせん、本家の本居宣長の原文などまるで知らないの私なので、傍観者の印象に過ぎないが、宣長と小林秀雄の引用から浮かび上がらせる世界に引き込まれた。

カリスマ(小林)に対する、日本の知識層の何年か前までの信仰に近いような支持について、冷静に分析している橋本さんの力量に感心した。行きつ戻りつを思わせる橋本さんの執拗な文章は、小林のアフォリズム的ご託宣に対するアンチであろう。

再度『本居宣長』にアタックする気が湧いてきた。

投稿: fructose | 2008/01/14 13:43:25

子供時代、風邪を引いては、部屋で静かにしていないと
いけなかった。長くなると、新しい本を買ってもらえた。
光沢のある表紙のカバーのつるんとした手触り。
それは、とても幸せなことだった。

子供時代を過ぎると、これを作っている人たちのことを
思うようになった。「仕事は、お互いの内蔵と内臓が
擦り合うような作業だ」とだれかが言っていた。
次第に、その言葉の意味が分かりはじめた。

一冊の本から、ひかりのようなものが、伸びていく。

投稿: F | 2008/01/14 12:36:38

本を読むと、活字を通して自分の知らない世界を体験できる。

恰も昔の乙女が人目に隠れて、わくわくしながら源氏の世界に夢中になったように、その知らない世界に魅せられ、没頭できる。

古典物語を読めば、実在の、歴史の彼方に消え去った人々の心の絢に触れられ、またSFを読めば、まだ見ぬ未来の科学的世界に何時しか自分が入っていける。

そして読み終わった後は、夢が覚めやらぬ思いのうちに、心の底に何かを残す。それは自己の魂にとって掛け替えのないものに何時しか、変わっていく。


本当にいい本というのは、「人気」や「流行」に関わらず、人々に読み継がれていくものだとは、よく言われることだ。そういうものを、我が感性の命ずるままに選び、読むのがいい。

流行りのケータイ小説や「人気」のベストセラー本の中にも、本当にいいものがあれば流行の如何に関わらず、後世にまで読み継がれるのだろう。

茂木博士は時代の流れや市場の人気に関わらず、いいものを作り、遺されようとしておられる。

そんな博士の書かれる本は、おそらく、否、きっと!…時代の移り変わりを超えて、後世の人にも読まれ継がれるに違いない。

投稿: 銀鏡反応 | 2008/01/14 12:05:44

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