新・森の生活 自由について
中央公論 2008年2月号
連載
新・森の生活(14) 自由について
一部抜粋
自由について考察する者は、自らが置かれた制約を憎んではならない。そもそも私たちが自由に闊歩できるのは地球という大きな塊と、その及ぼす重力があるからである。制約の中に投げ込まれることは、常に不条理である。しかし、その制約を受け入れ、抱擁し、愛することによって自由への逸脱が生じる。
ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で、喉の奥を蛇に噛まれている男は、私たち一人ひとりが置かれている制約を象徴している。縛り付ける「重力の魔」から逃れようと思っても、私たちは串刺しにされて身動きがとれない。
男がその蛇を噛み切って立ち上がり、目を輝かせて笑う時に、生の逸脱が起こる。その時、私たちは生きることの偶有性を抱きしめる。制約から逃げようとするのではなく、むしろ受容し、もって安全基地として跳躍使用と覚悟を決める時に、私たちはこの不条理な地上の生のありさまを、心の底から愛することができるようになる。
1月 11, 2008 at 08:55 午前 | Permalink
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受信: 2008/01/13 0:31:59
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コメント
肘が外に曲がらないという不自由なことが、実は真の自由なのであり、自然なことであると感得し、矛盾が矛盾ではなくなる時、喉の奥の蛇を噛み切ったことになる。でもなんと難しく勇気のいることか。
投稿: 山岸浩 | 2008/01/13 22:23:45
「蝮の咬み傷」(岩波文庫)でしょうか? あらためてこの章を読み返えしてみると、「均衡における新しい道徳」であるような、私には成せないことばかりのような(読みが浅く申し訳ありません)。
明日は休日、久しぶりに続きを受容的観取しようと思いました。
投稿: Nezuko S | 2008/01/12 22:46:27
「制約を安全基地とする」
その発想はまったくありませんでした。
そして、すごく感動しました。
投稿: K.K. | 2008/01/12 0:31:04
ちとち 知と恥
知 とは 恥 である
恥 なき 知 そのものこそが
恥 なのである
知よ恥を知るがいい
知とともに
恥とともに
未来はある
投稿: 新潟のOK | 2008/01/11 21:03:54