表現者はいいわけをしてはいけない
しばらく前に、京都大学の
学園祭での私の講演を聞かれた方から、
「表現者はいいわけをしてはいけない」
という言葉の意味について
ご質問をいただいた。
これには二重の意味がある。
一つは表現者の側から見た場合、
もう一つは、鑑賞者の側から見た場合である。
表現者にとってみれば、
作品というものは一度自分の手を
離れれば勝手に流通していって
しまう。
自分のコントロール不可能な
領域に入っていってしまう。
その拡散の全ての局面に、
付き添っていっていちいち説明
することはできない。
「本当は、こういう意味だったんです」
「あなたのその意見は誤解です」
などと、補ったり、修正したり
することは、表現者としての本分に反する。
どんなにひどい曲解をされても、
真意をつかんでくれなくても、
我慢しなければならない。
自分の表現がまだ拙いから
わかってもらえなかったのだと、
修練による向上を志向しなければならない。
もっとも、どんなに卓越した技量で、
すばらしい表現をしても、
必ず曲解する人はいる。
天才でも、大家でも、
真意が伝わらないというリスクから
逃れることはできない。
だから、表現者という者は、
長く真摯な経験を積んだ者ほど、
じっと耐えている気配をにじませるように
なるものである。
そこには一つの諦念がある。
未熟な時には、誤解にいちいち傷ついたり
憤慨したりするものだが、
やがて古傷は癒え、魂の表面が年経た
樫の木のような風合いを見せ始めた
時に、その人は本物の表現者となる。
逆に、鑑賞者の側から見れば、
油断するなということである。
自分という「楽器」が鳴り損なう
ということだってある。
決めつけて安心してしまえば、
安泰だが、
それでは自分というものがどんどん
狭くなっていってしまう。
「私はこのような印象を受けたが、
本当のところはどうなのか、
わからない領域がある」
といった「留保」のような
ものがあるかどうか。
そのあたりの響きで、信用できる人かどうかが
わかる。
この世は、表面的にそう見えている
ような場所ではないかもしれない。
そう思うことが、いかに世界を
奥行きがあり深い場所にしてくれる
ことか。
決めつけて通り過ぎてしまう
人は、いつまでも浅い岸辺を
泳いでいるようなもので、
サンゴのある沖はもちろん、
そこから急に落ち込んで深淵に
至る大海を知らずに一生を過ごして
しまうのである。
11月 30, 2007 at 05:26 午前 | Permalink
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「表現者はいいわけをしてはならない」
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コメント
「表現者はいいわけをしてはならない」に対してコメントを寄せます。
どのよう文脈からでた言葉なのかわからないのですが。表現者は自己の表現においてのみ責任を持ちます。ですから、最大限の鍛練して、自己表現に臨みます。しかしいつも自分の思い通りにいかないのが表現の世界であり、自分の力不足を思い知り、残された時間と闘います。
若い頃は自分の力不足に恥ずかしいことばかりでしたが、残された時間との闘いみたいな思いはありませんでした。でも人生の半分をとうにすぎると、あつかましさが増したのでしょうか、恥ずかしい思いより、自分に残された時間との勝負みたいな思いが強くなりました。正直言うと、言い訳なぞする余裕さえないのです。
そもそも言い訳というのは、少なくても過去を振り返ることなしには、言い分けはできません。しかし、僕は今、そんことより、一歩踏み出します。常に、一歩踏み出します。方向が定まらなくても、前へ、横へ、あるいは後ろでもいいですが、とにかく一歩踏み出します。踏み出すことの勇気と活力を持ち続けることがが表現者の生き方だからです。どこへいくかわからへんけど、とにかく行くんです。
自分の表現行為や内容に対しての評価は当然気になります。力不足を指摘されれば、また自分を磨きましょう。不当であれば、あるいみ無視するか、場合によっては戦います。
私にとって、表現行為は生きることそのものであり、あるいみバトルみたいなものですから。そのことに気づいたのは、つい最近のことです。
たぶん、全ての表現者は私と同じでしょう。ただ生きるスタイルがそれぞれ違うだけです。
ちょっと、リキの入った文章になりましたね。(笑います)
話題は変わりますが、私には「晴れやかな気分になるための二つの方法」というのがあります。
1・「クオリア」の持つ言葉のイメージを思い浮かべること。
2・ペットのネコ「オルゴー」を愛で、さわりまくこと。
かなりの効果があります。
投稿: 欅屋 長衛門 | 2007/12/03 22:29:43
内容が深いですね・・・そこら辺に転がってる私とはやっぱり頭の作りが違うわ、こりゃ。 たっはー
相手に伝えたい思い、そして相手が受け取った答えは何時も必ずしも同じじゃない。
そこにどぎまぎしたり、やきもきしたり。どっちも気持ちを合わせたくてしょうがないのが人の本分。
その人に合わせたいから、伝えたいから。色んな事を伝えるために知るために学び。
受け取る側も同じように取りたいから、学ぶ。
でも時間は限られていて、学んだことも全く違ってたりして、そこでぶつかって・・・
ほんと。難しいですね。でも、ここでぶつかっていい時といけない時と理解しなきゃいけない。って事ですよね。
はあ。私もその機会が解ってれば・・・まあ、いまとなってはしょうがないか。就職活動してくるかー
投稿: エト | 2007/12/03 4:55:39
崇高で孤高の精神ですね。
でも私は自らの未熟を知るからこそは
表現者としての意気込みはなく
かといって書くことも描くこともやめられず
言い訳と傷心とに翻弄されて
ピエロの様にクルクル回る。
作品も言語も
私にとってはコミュニケーションのツールです。
私が先生の日記から拾うのは
「自分の表現がまだ拙いから
わかってもらえなかったのだと、
修練による向上を志向しなければならない。」
「私はこのような印象を受けたが、
本当のところはどうなのか、
わからない領域がある」
だから純粋に表現したいことを伝えてみる
だから純粋に何を表現したいのか聞いてみる
言われても腹をたてない
怒らない呆れない。
繋がるまで続けてみる。
その為の言語として。
人様の言葉から
小さなズレに驚いて
へええと、次ぎに繋げてみたい。
崇高で孤高なスタンスではありませんが
気持ちの上で手に入れたいものは同じなんです。
心に醜いものを産まず
楽しいやりとりにて
得られたならば
これ幸い。
できないから
悩むのですけどねw
頑張ってみます。
先ずは心の魔物の
征伐ですわ。
投稿: akifukasi | 2007/12/03 0:52:59
この日記の内容を読み、深く思った。
ここに書いてあることは、ほとんど自分のような「何かあると言い訳をしたがるもの」、
「油断し、あるいは決めつけて通り過ぎてしまう者」に向かっての厳しい警告である、と。
私の場合、よく、何かヘマすると、無意識にいかんせん自分をよく見せようという思いが働くのか、「私がこうなったのはこれこれこうだから!」という言い訳をやりそうになる(というより、やっている)。
この態度こそ、珊瑚礁や大会や深海の存在を知らず、浅瀬で泳ぎ回って「ああ、これがすべてだ」と言って満足している魚や、広い世界を知ろうとしないで、狭い世界で満足して一生を終えるだけの人に例えられる「物事をこんなもんだと決めつけて通り過ぎるだけの者」の態度に違いない。これでは本当にいけない。
自分が見ている、あるいは、感じている世の中は、こんなふうに見えているけれども、本当は違うのではないか、何でも自分の見た目だけで「世界なんてこんなもんだ」と決めつける態度を改め、自分にはこの世界はこう見えているが、本当はどうなのか、という留保の見方、態度を身につけることが、今の私にはきっと必要なのに違いない。
ほかにも思い当たることがある(むしろ多すぎるくらいだ)。本当は「表現者」としては実に未熟もいいところで、自分の描いたものを外に向けて発表する、おのれの作り上げた作品を外へと手放すことがほとんどない。我が作品を、心のどこかでこっぴどく評価されることを恐れているからだ。
まことの表現者となりたいならば、どんなに手厳しい批評をされても、博士の言われるように、それは自分の技量がまだまだおぼつかないものであることを覚悟することから始めなくてはならない、と思った。キツい批評、誤解や曲解を恐れずに、心の底から勇気を奮い起こして、ものをつくり、外へと手放していくことをまずは始めてゆきたい。
生きることすべてが己の表現となりうるなら、人生の道程で起こりうる誤解や曲解を恐れ、文字通り小さなスペースで満足してしまう「井の中の蛙」になるよりも、また何かあるたびに言い訳をして生きているよりも、何があっても言い訳をしない、世界は自分が知覚しているより奥深いかもしれない、私の生きている世界にはまだまだ知らない謎が多い、と常に我が心に銘じて生きていくほうが、よりよく人生を歩んでいけると思った。茂木博士、厳しくも示唆深いお話を読ませていただきました。ありがとうございます。
投稿: 銀鏡反応 | 2007/12/01 14:14:21
私はFの芸術家ですが、よく人に、自分の作った曲や、書いた小説などを見てもらいます。見せて、相手が思ったとおりの反応を見せてくれないからということで、憤慨するのは言語道断であると、思っています。
表現者はいいわけをしてはならないということがわかります。優れた芸術作品というモノはディティールを細かく描きます。
私は短歌や俳句に詳しくありませんが、隠喩や比喩などを関連づけて、玄人では一言でわかる、そんな世界があるのは素晴らしいことだと思います。
しかし、小手先の細工よりも、私は内側から溢れるクオリア、何か言い知れないときめきと興奮なくして、真の芸術は奏でられないと思いました。
宇野功芳先生の芸術に、痛い程それを感じます。
メンゲルベルク氏のバッハのマタイ受難曲を最近、再度耳にしておりますが、老いの美しさ、老巧から滲み出るような枯葉のような優しさと、凶器の若さ、そんなモノが私を虜にしております。
およそ、古傷が癒え魂の表面が年経た樫の木になるのには、まだ、まだ人生の修羅場をくぐりたいという思いがあります。
人生の修羅場は、私を深くさせてくれます。挫折や失敗を大切にし、それらから学ぼうと思っております。
投稿: カナリア | 2007/12/01 10:23:50
生きると言う行為を成す上で、およそすべての生きものが表現者である事から逃れ得ず、また、自己を投射する事によってしか対象を理解する術を持たないならば、この、いいわけをしてはいけない、しないという事を、他の生きものと同じ様に、人が自覚して生きて行ければ、もう少し過ごしやすい世界に、なるような気がするなあ。
投稿: 大栗 勝 | 2007/12/01 4:51:02
いくら客観的に書いても言っても、何も伝わらないし、しかも、曲げて伝わっていることにいらだったり、失望することは普通にある。
これは技術よりも、発信者の本気度に関係する。
自然に伝説が出来るほどのユニークさは、一部の人には確実に理解され、鑑賞者の生きる糧となる。
ここまでのレベルに到ると、表現は自他の壁を越える。
今頭に浮かぶのは、ミケランジェリ、塚本邦雄、ヴィットゲンシュタイン、などである。
投稿: fructose | 2007/12/01 0:47:13
こんにちわ
「差異」「差違」と考えると、どうしても意識的無意識的に違いを比べてしまい、違いを差にしてしまう事に、気づいて、ほかに言葉が無いのか探していた。電子辞書と、頭の中で色々やり取りしていたら、「相異」「相違」と言う言葉を見つけた。
ん?「それが、どうした?」って? いちょう、自分の中では大きな発見なのですよ、ふふふふふ・・・。(^^)
投稿: tain&片上泰助 | 2007/11/30 15:26:29
>決めつけて安心してしまえば、
>安泰だが、
>それでは自分というものがどんどん
>狭くなっていってしまう。
私がまさにそうでした。私は、世界を鑑賞して、世界はこういうものだと決めつけて、安心していました。
>本当のところはどうなのか、
>わからない領域がある
わたしは逆に、わからない領域というものを、あまりにも拡大しすぎて、世界を鑑賞するのをやめていたのです。
本当に狭い人間であったと気付かされました。
美や世界は、きっと鑑賞者にもその意味を問うのでしょう。
そして、それでもなお「わからない領域」というものは、
きっと自分という「楽器」を美しく響かせている人にのみに現れてくるのではないでしょうか。
そのような思いから、私は世界を再び鑑賞し始めました。
世界を鑑賞することは、何て楽しいんだろう。素晴らしいんだろうと感じます。そんな感動を伝えられる「表現者」に私はなりたい。しかしその為にはどこまでも「修練による向上を志向すること」が大切なんですね。一歩一歩着実に歩んでいこう。
投稿: K.K. | 2007/11/30 15:11:29
茂木さんに激しく同意します。森村泰昌さんとニューヨークてに濃密な5日間を過ごす上で、表現者であることに関して考えることが多々ありました。茂木さんの最近の文章の中で、一番核心に迫った書き込みだったと思います。ありがとうございました。
投稿: 渡辺真也 | 2007/11/30 15:06:01
重複のコメントで恐縮です。ここで言われていた諦念ということが最近の私にとっての秘め事の一つだったので、色々と考のジャングルを駆け巡りこれを書かせていただいています。
諦念ということ、負けるということ、mind of compassionということ、boundless mindということ、not to be dualisticということ、これら全ては決めないということ、そこに在るということを言葉で感じてしまわないことから成る、起こることではないかと思うのです。このコメントについて何か一言いただけましたら嬉しいです。
引き続きブログのほう、拝見させていただきます。
敬具
投稿: kai | 2007/11/30 14:50:03
ここで言われている表現者はふだん言葉を使って生きている人々皆に当てはまることだということを、文章を拝見して痛感いたしました。ありがとうございました。
投稿: kai | 2007/11/30 13:36:29
感動しました。
>・・「留保」のようなものがあるかどうか。
そのあたりの響きで、信用できる人かどうかがわかる。
間違ったことを目にして、
自分は決してそんな人間ではない というよりも、
違っていればそうなっていたかもしれない と考る人のほうを信頼してしまいます。
一方、ことばでは決めつけても、そうでないんだと雰囲気から汲み取れることもあります。
これ以外にはない、というように決めつける人を、
どうしても受け入れられないと感じるときがあります。
また、そう思う自分を見つめたときに、
この感覚をこのままにしておいてよいものなのか.. 苦い気持が出てきます。
気付いていればいいのでしょうか。
自覚するだけでも、大海に漕ぎ出せるでしょうか。。
先生のおっしゃる、差異を「引き受ける」ということにはなっていない気もして、考えてしまいます。
茂木さんはすごいですね。。
心のなかにあぶりだしの紙のような形で存在しているものを、
蝋燭の炎でくっきりと浮かび上がらせてくださるような、
先生の言葉からそんな感じを覚えて、こころがふるえることが多多あります。
ほかの方の書いたものからはあまり感じることのない、茂木先生特有の感覚で、
こころから信頼できる所以です。
ひさしぶりに、みかんの汁であぶりだしをしたくなりました。
あれはたのしかったです。。
きょうの日記は全文書きうつします。
投稿: M | 2007/11/30 13:33:46
こんにちわ
掲示板(2chではない。)で、学んだ事ですが、最初から非難される事を想定している、また、非難する人が、非難を続けていると、それぞれがくっ付いて、意味がわかってくる、と言う文章を作るのです。
このような、鑑賞者(批判者?)が、理解する過程をシミュレーションすると言うものですが、表面的なテクニックとして、否定的表現を肯定的表現に切り替える、なるべく最小限度の文章にする。なるべく自己完結的な文章を書く、等などがあります。
意外と、高いページビューを持つ、アイドルのブログで、このような文章が、書かれている事が多いのは面白い。(^^)
投稿: tain&片上泰助 | 2007/11/30 12:36:35
ありがとうございました。
投稿: mori(森 合音) | 2007/11/30 11:38:42
BBCオーケストラの「Seeing Debussy, Hearing Monet」というコンセプトの演奏に行って来ました。
ドビュッシーの演奏にモネの作品がスクリーンに映しだされていて
鑑賞者はその音楽を観て、スクリーンのモネの絵画を聴くことになりました。
ドビュッシーは北斎の版画を海の曲の楽譜の表紙に使っていたそうです。
Seeing Debussy, Hearing Hokusaiの演奏も体験しました。
美術と音楽のつながりにある「何か」でした。目と耳のつながりでもあります。
科学的なものも含めた斬新なものがこれから先に定義されていくような予感がなんとなくしました。
表現者は将来作品を社会の誤解もしくは将来の真意の生贄に捧げられることになるかもしれなくて
それは本物の作品の証拠でもあるのかもと思いました。
投稿: Gordy | 2007/11/30 11:33:05
本を始めとしていろいろなものを見る鑑賞者としては、表現者の意図や考えに共感すると同時に共感できないような場面にぶち当たる。その時に自分の未熟さを感じる時もあれば、いや私の考えがまだましかもしれないと思うことがある。
そのような意味でエッセイは作者の気持ちが素直に伝わってくる。作者の意識が解放されているのかも知れないとは思いながらも、エッセイから学ぶことが多いのも事実である。
茂木さんの書いたもので、ナメクジかかたつむりの話で、いつのまにか移動してしまっている小動物に驚きの目を向けていたものがあった。しばらく目を放した間に、思いもつかない道筋(Path)で移動していることに自分自身の経験に中にそのようなことがあったのを思いだいした。小学生のころである。
「表現者はいいわけをしてはいけない」のことばには妙に納得してしまった。
本を読むことを止めてしまったわけではないが、それ以上に考えることにしている。結果的に読む本は少なくなる。だから本を選ぶことになるが、考えが詰まってくると結局はいつの間にか本を買ってしまっている。先日は、まんが本に手にしてキャッサーのところまでは行ったものの思い直してまんがを戻してしまった。ほんとうのことでは後悔している。「プロフェッショナル 仕事の流儀 クリエイターたちの言葉」でまんがのことが気になっていたからである。
投稿: westhill | 2007/11/30 11:08:04
おはようございます。
明日からは師走ですね。
さっそく、すこしずつ大掃除にとりかかっています。
昨日は、のびきった枝の剪定をしました。
小さな庭でも「高枝切りバサミ」を持ち上げての作業は、
けっこう疲れます。母が手伝いに出てきて枝を集め、
近所の猫も、(なにしてるにゃ?)と、
そばに座って、こちらを
一生懸命見ていて、
なんだか心地よく疲れた夕方でした。
*茂木先生と小俣様のお写真拝見、
とってもかっこいいです。
ご活躍を祈念致します。
来春から、私も、すこし生活が変わります。
先輩の方々に、お声をかけて頂いて、
他界した父のあとを継ぐ形で、
これから地道に活動することにしました。
投稿: F | 2007/11/30 10:32:49
そうですね。茂木さんの言うように、脳の凄いところは「まだなんだかわからないもの」が自分の前に現れたときにそれを「まだなんだかわからないもの」という場所にしまっておいてしかし決して忘れることはなく、それがその中で動き出す文脈に出会った時にああこういうことだったのかと「わかったこと」のほうに移すことを何でもなくやってしまえることですね。コンピューターだとこのデータは開けませんとはねのけて終わりですけど(笑)。
それと発言者が応答する義務についてもまったくその通りです。ネットはいったん発信されると無限大のキャラクターに接触可能ですからいろいろな反応が返ってくる。そのどれに応答するかは発信者の固有の権利的選択です。ネット時代の公共性とは全ての人への応答義務を含むものではありません。応えるべき内容か、応答すべき相手と認めるか、その理由を述べるか、という応答義務の拡縮の範囲は一に発信者の権利と選択に属するというのも新しいネット倫理の一つではないでしょうか。
投稿: 五十嵐茂 | 2007/11/30 9:28:49
ここで言われる「表現者」に様々な職人さんが思い浮かびました。
燻し銀の輝きは容易に身に付くものではありません。
鑑賞者の謙虚な態度も本当に大切。
繰り返し鑑賞することで、最初はなにもわかっていなかったと感じることは、楽しい発見。
今日のブログのみならず、茂木さんが書いたりお話しなさることには二重、三重の意味が含まれていそうで鑑賞のしがいがあります。
なあんて生意気言ってみました。
投稿: 高橋純子 | 2007/11/30 9:17:36