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2007/11/22

欲望する脳

集英社新書

茂木健一郎『欲望する脳』

集英社「青春と読書」に24回にわたって
連載されたessay「欲望する脳」
が本になりました。

孔子は、「七十従心」(七十になったら、
自分の欲望のおもむくままに行動しても、
倫理規範に抵触しないようになった)
と「論語」の中で書いています。

ある時、地下鉄のホームにいて、
突然この言葉が胸にひびき、
とてつもなく大切な、そして難しい
ことを言っていると直覚された。

この瞬間の気付きから、この本は
始まっています。

自己と他者との関係、現代における
欲望のあり方、脳科学の知見。
人間らしい生き方とは何か。

欲望について、渾身の思考を
展開いたしました。

編集を担当してくださったのは、
鯉沼広行さんです。

鯉沼さん、ありがとうございました。

amazon 

11月 22, 2007 at 08:40 午前 |

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この記事へのトラックバック一覧です: 欲望する脳:

» 生き物としてはそれが自然 トラックバック 旅籠「風のモバイラー」
ruji s1 さん、み・み さん、コメントありがとう。ウレシカッタア。 ruj [続きを読む]

受信: 2007/11/22 23:19:58

» 欲望とエゴ トラックバック 銀鏡反応 パンドラの函
@フランスの文豪、ロマン・ロランの言葉。 「生命を高揚させるものは、全てよいものだ。…敵は一つしかない、それは享楽的な利己主義、生命の息を涸らしたり汚したりするエゴイズムだ。…利己的な幸福が人生の唯一目的になるとき、人生はやがて目的のないものとなる」(山口三夫訳) @ITの進展により、世の中で欲望を解放させることがだいたい「是」とされる時代に入って久しい。「ガマン(と節約)は美徳」という価値観はすっかり影を潜め、うってかわってあらゆる欲望をおっぴろげさせることが現代人にとって一応「いいこと」とされて... [続きを読む]

受信: 2007/11/23 20:19:16

コメント

「七十従心」という言葉には本当に考えされられますね。
私には生まれて1ヶ月の子供がいますが、この子はいつ、欲望のおもむくままに行動すると倫理規範に抵触するようになるんだろうと考えてしまいました。
 そしてまた、私達が欲望のおもむくままに行動すると倫理規範に抵触するようになるのは、成長するにしたがって、揺るぎない安全基地を失っていくからではないだろうか、とふと考えてしまいました。子供の時には揺るぎなかった親の愛という安全基地が、子供にとってもはや揺るぎない安全基地でなくなったとき、そこに孔子のような揺るぎない安全基地をみつけることができならば、きっと子供のように、安心の中にあって真実に人生が楽しめるような気がします。人は皆、本当はその倫理規範に抵触するような欲望の根源に揺るぐことのない安全基地を求めているのではないでしょうか。人間の欲望の多様性(良い欲望であっても、悪いとされる欲望であっても)の中にある普遍性はあらゆる人間は安全基地を求めているという切ない純粋な思いなのではないかと考えてしまいました。

投稿: | 2007/11/22 21:36:04

いつものように人形町の駅で降りたのだが、「違う、人形町ではない」あわてて電車に戻った。しかし、次の駅は茅場町。仕方なくここで降りて反対側から乗りなおした。どのように考えても分からない。人形町の駅ではないと脳が考えた?それとも単なる勘違い?そうとは思えないのである。
どこでもない異次元のどこかの駅に降りた感覚だったのである。クオリア!
その時を境にして2,3日は普通でない感覚の中で過ごした。嬉しいわけでもなく、悲しいわけでもないが、コンフォタブルなのである。心配事がなにも浮かんでこない。悪夢を見ようとしても見れないのである。自分でも納得のいく説明が出来ない。
いつの間にかなくなってしまった喫茶店みたいに、もう一度、あの感覚を味わってみたいと思った。
クオリア日記の孔子は、「七十従心」・・・を見て、また思い出してしまった62歳のおじさん。
クオリア日記はおもしろい。やさしいことばにすいすいと体に入ってくるが、時々「おおっ」と思ってしまうことろがある。こんな大事なことをサラっと描いている。脳が喜ぶ、時には苦悩する。でも楽しい。60を越したことろから、本能的に動くようになったと感じていたが、倫理規範には抵触していないと思う。NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』は娘とよく見ている。茂木さんは不思議な人と娘は言う、「うん」とうなずく。

投稿: | 2007/11/22 17:52:49

己の欲する所に従っても矩を踰えない境地というのは、
心が自由な境地に至ったということでしょうか。
己の欲せざる所を人に施さないとする行動格率に拠って
自らを律することが、自らに由ることが自由というならば、
前者の境地の自由は自は小我を越えた、無我に近い自のような気がします。
(オーバーでしょうか?)

投稿: | 2007/11/22 11:04:57

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