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2007/10/09

それでもぼくは

そうすることは
楽だから、人間はついつい他者を
決めつけてしまうものである。

 しかし、
 何かがその人から
出てきたからといって、
決してイコールではない。

 歩いていてたまたま
ひろった果物が、それを生み出した
背後の生態系と等置されるものではない
ように、
 ひとりの人間という大密林を、
そこから飛び出した産物で
判断することなどできない。
 
 夜、森の前に立つと、暗闇から
様々なものの気配が聞こえてくる。
 人に向き合うということは
つまりはそのような深い傾聴を
伴うことであろう。

 やってもやっても目の前の
仕事が終わらず、何だか切なく
なってしまう。
 
 だがしかし、生きものという
ものはそもそもずっと忙しく
立ち働いているものではないか。

 水面のアメンボたちは、
自分たちのテリトリーを守り、
エサが落ちたらそこに駆けつけ、
 異性を探し、
危険から逃れ、
 いつもスイスイぴょんぴょん
やっている。

 鳥は何時までもエサを探しているし、
メダカも身を翻してキラキラ
きゅるりと忙しい。

 実にぼくも、全く一緒であるなあ。

  秋が深まり、生きものたちの
影が徐々に薄くなってきた。

 ただ、ほんの少しの時間だけでも、
ゆったりと道を歩ける。
 それだけでかけがえのない幸せだと
思える。

 道ばたにセミの死骸が一つ落ちている
ということは、本当は世界を揺るがす
大事件であるはずだ。

 日本の街並みは確かに醜悪だが、
自分を包む世界の分子構造を量子力学的
隠喩まで降りて眺めて見れば、
 美醜はきっと一時の勘違いなのだと
思う。

 自分とセミが分離しているというのも、
この世に美しいものと醜いものがある
というのも、どちらも究極的には勘違いだが、
 その勘違いこそがアメンボを
スイスイぴょんぴょんさせ、
人を走らせる。

 仕事をしなければならぬというのも
きっと神様の視点から見たら
勘違いであるが、
 それでもぼくはスイスイぴょんぴょん
しなければならないのだよ。

 全ては無意味だという通奏低音に
支えられてさえいれば、
 懸命に意味を追いかける行為は
生きることを硬直化させる
ことなく、私たちの芯を輝かせて
くれるのだと思う。

10月 9, 2007 at 06:04 午前 |

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コメント

夏に蝉の死骸を見た、まさにその場所に
どんぐりがひとつだけ、ころがっているのを見ました。

小林秀雄の「おっかさんが蛍になる」話ではないけれど
蝉がどんぐりになったように思えて仕方がありません。

しばらくしたら、そのどんぐりも
何か別のものに姿を変えて同じ場所に
現れるんじゃないか?
いつまでこの物語は続いていくんだろう?と
妙な考えまで浮かんできます。

「意味」のお化けは神出鬼没ですね。
考えるつもりの無いときでも、
ひょっこり現れて
「あれは、何?」
「これは、何?」
と、問いかけてきます。
はなから私に答えは期待していない
のだろうけれども(笑)。

蝉もどんぐりもアスファルトの上では
ゴミとして片付けられるのだろうけれど、
ぽつりぽつりと
まるで地中から湧き出てきたもののように
姿を見せていくから、
心にひっかかってしまいました。。。

投稿: | 2007/10/15 22:26:50

最後の六行、これはまさにカミュのシーシュポスですね。

投稿: | 2007/10/13 2:05:27

どうせ勘違いなら死ぬまで幸せで美しい勘違いをし続ける
生き物ができるだけ、たくさんいてほしい!

中島 敦の「独言悟浄」の師父に対する言葉を
思い出しました。

それから、その永遠と対比された地上のなべてのものの
運命をもはっきりと見ておられる。いつかは来る滅亡の前に、
それでも可憐に花開こうとする叡智や愛情や、そうした
数々の善きものの上に、師父は絶えず凝乎とあわれみの
眼差しを注いでおられるのではなかろうか。

茂木さんの「スイスイぴょんぴょん」は
まるで師父の眼差しをもって格闘する人のようです。

自分にも「スカ」はあるくせにスカを
疎んじてみたりするのは近親憎悪でしょうか。。。
自分が弱い人間だと人も傷つけてしまいます。
着ぶくれしていない裸の魂のまま身軽にどこへでも
行けるようになってみたい。
灼熱の砂漠の真ん中であっても、
まるで月の美しいススキの野原を
歩いているのと同じようにふるまえたら!
外界にいたずらに惑わされることなく
内面の輝きをずっと見つづけることのできる人だったら!
目に見える鎧と違って、
心の奥深くの強さ、美しさは容易なことでは
人から奪われることのない宝物ですね。

私の道のりは、まだまだ遠くて
三蔵法師もびっくり!!!です。
はぁぁぁ。。。。

仕事が終わらない切なさも、
美しい勘違いに転化されますように!

投稿: | 2007/10/10 0:49:08

私のご尊敬申し上げる茂木先生へ

 茂木先生、随分とお仕事を貯め込んでおられるようですね。先生は誠実でお優しいから、人から頼まれると断れない質なのでしょう。あまりにもいろいろなことを背負い過ぎるのでお身体を壊されないかと心配です。
 仕事をしていて「何だか切ないなあ」と思うことは私にもあります。仕事の関係で真夜中の3時に出発しなければいけないときなど、目覚まし時計を2つぐらいセットしてベッドの上に服を着たまま仮眠します。布団はかけません。安眠したら起きられなくなるからです。
 ベッドに横になることさえできず車内で寝たこともあります。地震の被災地だったので水も出ず、ペットボトルの水で顔や手を洗っていました。何だかそんなとき切ないというか惨めな感じがしました。仕事が立て込むと食事をしている暇もなくやっと夕方になってその日初めての食事に有り付きおにぎり1個なんてこともあります。
 茂木先生、「独り」と感じるから切なくなるのです。こうやって茂木先生を応援している人たちがバックにたくさんいるのですから、皆さんの声援を糧にがんばってください。 

投稿: | 2007/10/10 0:20:21

自然界の生き物も、複雑な文明・社会を作り上げて、そこに住まう私達人間もそれぞれの立場で、スイスイぴょんぴょん、パタパタ、きゅるりと毎日必忙しなく生きている。

きょうの日記の、このエントリーに書かれていることは、
自分がほぼ毎日考えていることと近いな、という感想を持った。

たしかに、人間も一種の大森林。一人の中に沢山のものの気配が秘められている。

善きにつけ悪しきにつけ、その人から出た特定の行為だけで、その人の全てを決めつけることは、所詮は誤りか、勘違いでしかない。

それなのに、人はその人から出た特定の「産物」を見ただけで「この人はこういう人なんだ」と決め付けようとする。

そしてその「決め付け」の通りに“パブリックなイメージが固定”されてしまうことがママある。

私も、ともすれば相手の一つの特定行為を見ただけで、「こいつはこういう奴なんだ」と決め付け行為をしてしまいがちだ。

しかし、それだからといって、それが“その人の全て”と思ってはいけないわけで、むしろ逆にその人が秘めている、様々な気配の蠢きを感じていけるようにならなくては、と心がけていこうと思う。

世界の全ては無意味(無根拠?)だからといって、働くこと、動くことも無意味だと思ってしまうのは一種のニヒリズムであり、そう思ってしまうと、ひとは人生の全てが無意味に感じてしまい、生への意欲を亡くす。

だから、働くこと・生きることに懸命に意味を見出すべく追いかけることは、究極から見れば、私達から生の意欲を引き出し、輝かせることになるのだと思う。

さて、きょうも雨模様になってしまいました。
夕方までに雨はあがりましたが、空は今にも泣きそうな銀鼠色でした。
秋がひと雨ごとに深まって参ります。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/10/10 0:08:11

人間は成長しますからね、人間は予想できない。でも、ある程度決め付けないと、やっていけませんね。

私は、カブトムシの幼虫のように「ゴソゴソもぐもぐ」しています。
病人は病気を治すのが仕事だ!!(^^)

投稿: | 2007/10/09 22:31:27

「ロトン・デジャ(もう秋か)……」と(片方の足の運動機能が損なわれている人)が呟いた。

「流れる雲はベートーヴェンの三連音符の形をして暁の空に浮かんでゐたつけ。あう、歴史とは、畢竟思い出にすぎないのだもの。おれはきっと近代の野蛮人なのだ。近代絵画(くわいぐわ)が好きだ、おれは。利口なやつはたんと反省するがよい、おれは馬鹿だから……馬鹿だから……馬鹿だから……」

(片方の運動機能の足が損なわれた人)がこの(突発性小林秀雄地獄)に見舞われるようになったのは刑務所の精神病棟に収容中のときかららしい。弁護士側の精神科医は(突発性小林秀雄地獄)の原因を「取調べ中の拷問と人道を無視した長期拘留」と断定し、刑務所の精神科医は「幼児期の異常な性体験によって生じた抑圧」が原因だと主張した。

だが結局、真の原因はわからなかった。

「まったく、こんな仕打ちがあるかい? おれは(片方の足の運動機能が損なわれている人)になってもへこたれなかった。文句一つたれずに(片方の足の運動機能が損なわれている人)としての人生を切り開いてきたのに、こんな(わけのわからんもの)までおしつけられちゃって……」

(突発性小林秀雄地獄)の余波でセンチメンタルになった(片方の足の運動機能が損なわれている人)は大粒の涙を流しはじめた。

「ねえ、もう一杯ココアを飲んでみたら?」

投稿: | 2007/10/09 16:15:11

綺麗なものの上に勘違いが重なって今の世界が出来てる。
きっとそーだと思っています。
そー思えば忙しい自分もなかなか可愛いものです。

投稿: | 2007/10/09 12:48:10

生き物たちは、僕らから見ると
いつも働いて見えるというのは
どうなんでしょう?

人生の大半はいつもスイスイぴょんぴょん
しているから、私たちにはそう見えるのであって
彼らの主観的な時間からすれば
本当は一瞬だけ休んだり、空を見上げたり
物思いにふけったりしているのではないでしょうか?

でもだとしたら
セミなんかは何してるのでしょう。
いっぱい寝て、ちょっと起きて
ギャーギャーいって疲れて死ぬ。
人間で言うと生きることの意味とか
自分の存在を表現しているかのような。

昔は、物を細かく見ると
原子とかナントカカントカでできているなんて
わかりませんでしたが、
彼らの人生も細かく見ていくと
大体はスイスイぴょんぴょんだけど
一瞬でもそんなふうに
人間と同じことしてんじゃないかな

投稿: | 2007/10/09 10:37:11

いま、NHK-FMでチャイコフスキーを聴きながら拝読しています。
茂木さんの、このつぶやきが私は大好きです。
とても共感します。
私も、謙虚に、深く傾聴できるように努めます。
いつもありがとうございます。

投稿: JUN | 2007/10/09 10:21:10

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