脳と人間
下関市市民文化セミナーアブニール学級
茂木健一郎
「脳と人間」
2007年10月21日(日)14時〜
アブニール(菊川ふれあい会館)
山口県下関市菊川町大字下岡枝
入場無料。定員700人(中学生以上先着順)
http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/shihou/20071015/text.html
10月 21, 2007 at 10:13 午前 | Permalink
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下関市市民文化セミナーアブニール学級
茂木健一郎
「脳と人間」
2007年10月21日(日)14時〜
アブニール(菊川ふれあい会館)
山口県下関市菊川町大字下岡枝
入場無料。定員700人(中学生以上先着順)
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10月 21, 2007 at 10:13 午前 | Permalink
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コメント
今回で二回目のコメントとなります。
脳と人間聴きました。
僕は未だ22歳の若造ですが、茂木さんも確信を得られたんだと思います。
僕は荒川修作の行為に凄い意識的になった者ですが、彼の行為の意図、真意を探ろうと書物をかき集め、自分なりに研究していました。
そこで僕がであったものそれこそが、Autopoiesis、自己制作という行為論でした。
これはHumbert R. Maturana と Francisco J. Varela によって想起された生命システムの行為論です。
僕は東洋大学の河本英夫氏が執筆されたオートポイエーシス2001を読みその行為論の確信を掴むことができました。
茂木さんが講演の中でおっしゃっていた孔子のように、何か同じことをずっとし続ける必要性はないんです。
で、僕が確信に至ったキータームは観察者でした。
僕がイギリスに来てすぐ、僕は辞書に載っている言葉の一つ一つの意味を片っ端から調べ上げ、「言葉のもつ意味は全て幻想である」という結論に至りました。
この観察者ということ自体も結局は言葉が在るゆえで、自分自身の行動を正当化したり傍観することによって成立していたのだと。
例えば、辞書で、「辞書はA+Bである。」という定義を発見するとしましょう。でも、その根本であるAとBについては全く考慮されていないのです。また、Aを辞書で引くと、「Aは77+HU」みたいな感じです。
で、77とHUは論理の中で一切無視されているし、触れられません。そんなこと絶対変でしょう。
で、結論からどうなったかと言うと、茂木さんご存知、「ゲシュタルトの崩壊」が起こったのです。論理ではなく、経験的に僕の身体を稲妻が駆け抜けました。
言葉があるから考えてしまうし、この表しきれない世界を部分部分に切りまくって袋小路に追いやられていたんだと。
茂木さんは、荒川氏の行為を訝しげに感じていらっしゃいましたが、彼は僕が感じたそれと同じ経験を毎日されているからこそ、茂木さんに「脳の研究はほどほどに。」と言われたのだと察します。
脳は脳だけで働いていたら事足ります。
これだけで茂木さんは理解されるはずです。
僕らが掴みかけた生命とは行為の連続によって環境を変えながら自己を制作(発見)していくことかもしれません。
しかし、ここに記載したように、本当に生命を分かろうとするならもう「勉強」は必要ないのかもしれません。
そういった時代がもうそこまで来ているのかもしれません。
カテゴリーや普遍性について議論する必要性もないのかもしれません。
ヴィトゲンシュタインはその経験からこの計り知れない世界の存在を体得していたかもしれません。しかし、哲学をすることによって、彼はその生命そのものに到達できなかったんではないかと思えてなりません。
茂木さんは優しい方だと思います。
僕も小さな時は昆虫が大好きで昆虫博士と呼ばれていたときもありました。
しかし、イギリスに来て、現代アートを目の当たりにして失笑するしかありませんでした。言葉で自分達の行為をオブラートに包んでマスターベーションとも呼べるような滑稽さでした。村上隆だって、あんな腐った理論さえなかったら、いい作家です。ほしょうします。彼にしか出来ない行為をし続けてるんだから。そんな時、僕は「言葉」について研究しだしたのです。
それから一年、僕は半分現代アートに侵食されかかってました。
で、大学を変えロンドンにやってきました。
そこで僕の親友の一人に出会い、彼から荒川修作を教えてもらったのです。
彼は意味のメカニズムという本まで出版しており、僕は何をしているのか不思議で溜まりませんでした。で、良く観察してみると、それは僕が論文で書いた内容と全く同じでした。
「アップル」と目の前にある木から落ちた赤い果実は全く別のものです。
今の現代科学ではその掴めない、命名できない空間を強度と呼ぶことも知りました。すごいです。
僕は茂木さんから見ればまだまだ若いでしょう。
しかし、この世界にどうしようもなく存在しています。この体がこの世界から消えてなくならないのは当然でしょう。
プラトンを筆頭に、イデアはこれだけの環境を破壊してきました。
彼の言うイデアからでは何も生成されません。
この身を無視し続け、この身と一つながりの環境を無視し続けました。
否、考えることによって、環境と一つに成ることを止めていたのかもしれません。
茂木さんにとってこのコメントがどういった意味をもつかは分かりません。しかし、僕は毎日日記を読ませていただいていて、「生を肯定するようになった」と言う部分を拝見してどうしてもいられなくてこうしてコメントさせて頂きました。
自分を受け入れ、日々、空という偶有性に身を任せ、自己を更新することの素晴らしさ。
ニーチェだってここに至っていたら、と思うと残念です。
どこかでお逢いできたら素晴らしいですね。
ありがとうございました。
東條吉峰
投稿: Yoshimine Tojo | 2007/10/22 9:12:16