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2007/10/21

脳と生命

Lecture Records

茂木健一郎
『脳と生命』

九州大学仏教青年会 百周年記念行事
九州大学医学部百年講堂
2007年10月20日

音声ファイル(MP3, 49.7MB, 54分)

10月 21, 2007 at 10:08 午前 |

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最近、喫茶店に入るとすぐに眠ってしまいます。今日も会社帰りにソファーの席に座ると、気づかないうちに眠ってしまい、3時間が経過したのでそのまま家に帰りました。まぁ、夜の睡眠時間の短さをこれで補っているんだな。 帰りの電車の中で茂木健一郎さんの『脳と生命』とい...... [続きを読む]

受信: 2007/11/08 0:44:46

コメント

親鸞はあらゆる修行をしたあとに、「自分が僧籍を失って、もしも女性と一緒になることがあったとしても、添い遂げた女性が死ぬ時に、その女性が極楽浄土にゆけるよう、側に付き添い死をみとろう。」と悟ったのだそうです。へえ、随分人間らしくていいなあと思いました。仏教は本来なら極楽浄土について語るものではないのでしょうが、先生の話に出てきた南さんのように、人の苦しみや不安をいかにときほぐすかについて、本来とは外れても、最良の手段を取れる経験と暖かさが、結局人と成りというものだよなあと思います。他力本願とは、死と見つめ合うホスピタリティーの役割を果たしているんだなあと思いました。でも宗教を絶対真理として見つめるには余計?な知識があるためか、確かに仏教の本来とはズレているような気がしました。それが社会の空白を埋める役割の愛情であればそれは素晴らしいと思います。無意識のままに崇高でというのも素晴らしいですが、醜さを隠しながらも愛がある姿も美しいなあと思うし、だからこそ他人の醜さや過ちを許せるのではないかなあと思いますし、常に変化するのが人間らしさだという生命の多様性だというのはとても納得できます。ところで先生の良さは無意識の究極でも、修行中の今でも変わらないと思いますよ。まとめすぎると浄土真宗のお坊さんに怒られそうですが、色々な思考があるものだと感心しました。その時々で信じるものも変わってもいいのだなあと思えました。ミーハーでもいいから、素敵だなあと心動かす瞬間が多ければなんだか幸せだなあ。

投稿: manbo | 2007/10/28 3:30:30

九州大学仏教青年会の「脳と生命」大変面白く、わくわくとしながら聞かせていただきました。私は約一年前から抗うつ薬を飲んでいます。最初は不安症、そのあとうつ病という事になりましたが、薬が良く聞いて先月から減量を始めました。ところで、この一年うつに関する記載を色々読みましたが、なんだか一寸違う??という感じでした。 そして 茂木さんのクオリアという言葉と接した時 これだと思ったのです。
発作が起こっている時 私が喪失して、そのために非常な恐怖感に襲われる原因となるものは クオリアの喪失 です。
他人にクオリアがなくなった状態を説明するのはとっても難しかったですが、茂木さんの言葉を使うと 説明しやすくなりそうです。
茂木さんは 一時的にクオリアがなくなった状態に関しての考察は いかがなのかと 考える次第です。 時間のクオリアがなくなったときは最悪です
クオリアに付いての研究が更にすすむことを ねがっています

投稿: 大津 真澄 | 2007/10/25 17:18:53

音声ファイル。今回はうちのPCちゃんは無事再生してくれたので、
全部聞くことができました。

それにしても、同じものを思考する(探求する?)思考は同じ分野の道を通るのだな~。って改めて思いました。

自称「生命研究家」だったころの私は今回、茂木さんがはなされた
分野は網羅していました。内容の深さは勿論全然違いますが(^0^)

なんか嬉しいですね。。^^。

普遍性と形と言う内容の箇所では、自分では、「形」にすると普遍性でなくなると言うことまで分かっていたのですが、自分以外の人から聞くことによって、
「自分に密着した知識」として新たな展開をすることをしました。
そして、そのことであることを納得することができました。
ファイルをアップしてくださってありがとうございました。


投稿: あすか | 2007/10/21 23:11:42

こんにちわ

ご講義ご苦労様です。

「無記」についてですが、もしも、あの世がある場合、人それぞれの世界があることになるのではないでしょうか。この世でも、地獄のような世界にいる人や、天国にいるような人がいる。天国でも、「光のパワーが落ちている、人間界に行って、パワーを集めてくるのじゃ~。」、といって、波乱万丈の場合もあるかもしれない。地獄に行っても、帝国を作って、平和を保つ人もいるかもしれない。つまり、あの世の事は「無限記述」出来るわけであり、釈迦は「無記」を貫いたのかもしれません。

「あの世」、「この世」があるのに、「その世」の事を言われないのはなぜだろう?(^^)

投稿: tain&片上泰助 | 2007/10/21 16:48:51

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