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2007/09/30

Good morning! からすでに

このところ、
ドイツのアマゾンで買った
Monty Python's Flying Circus
を見ている。

ドイツ語版ということではない。
音声はオリジナルだし、
英語字幕もつけられる。

子どもの頃、タモリさんが
デビューするきっかけとなった
東京12ちゃんねるの吹き替え放送で
親しんでいたが、1st seriesを
見終えて、やはり「別格」だと思う。

以前、英国をドライヴした時、
『ラバー・ソウル』を買って聞いて
いた。

ビートルズはやはり
アルバムで聞かなければダメだと
感じた。
一つひとつの楽曲も素晴らしいが、
そのつなぎ方に非凡さがある。

モンティ・パイソンも同様で、
有名なスケッチは繰り返し見ているが、
それを放送時のコンティニュイティーで
見ると、なるほど、こうつなぐのかと、
その詩的な包絡線にゾクゾクとした。

ところで、ジョン・クリーズの役柄で、
訪問客を冷たくあしらい追い払うという
ものが時々ある。

そんな時、最後に
Good day! とか、Good morning!
とか、そんな挨拶をする。

こんな小さなところにも、すでに、
異なる言語の間には一対一対応が
生じないという問題が存在している。

Good mornig! を「おはよう」
と訳すのは、極言すれば「誤訳」
である。
日本語圏では、別れる時に「おはよう」とは
言わないからである。

そのような微妙なニュアンスの差異に
気づいていくということが、
異文化に触れることの喜びだろう。

「教科書」(textbook)という
言葉にかかわるイメージも、本当は
国によって違うのではないかと思う。

そもそも、国が「検定」という
ように関与したかたちで
教科書をつくっている国が、
世界にどれくらいあるのだろうか。

日本の教科書は薄く、
私は、新学期になって
学校から帰ってくると、夕飯前に
まず国語の教科書を全部読んで
しまって、他のやつも
一週間くらいで目を通して
しまうのが通例だった。

アメリカの高校で学会があった時のこと。
Scienceの教科書は辞書のように分厚く、
家になど持って帰れないから、
教室の後ろに起きっぱなしだった。

あの教科書だったら、さすがの
私でも、一ヶ月くらいは
楽しめるだろう。

そもそも日本の「教科書」
という文化がどれほど普遍的な
意味を持つのか、特に今日のような
情報があふれる時代においては
はなはだ疑問である。

諸外国の人は、日本人が
「教科書」という言葉に持つ
唯一絶対的なイメージに驚きを
感じるかもしれない。

イギリス留学中、ヨンという
仲のよい友人がいた。

いつもダベっていたが、
ある時、「韓国ではハングルしか
使わないようになってきている
ということだけれども、じゃあ、
カンジは本当に使わないのか?」
と聞くと、ヨンが怪訝な顔をしている。

「カンジ? カンジというのは
どういう意味だ?」

ヨンの表情を見て、ボクは、
しまったと思った。
「ゴメン、間違えた。
チャイニーズ・キャラクターは
使わないのか?」
と言い直した。

沖縄の居酒屋で楽しく飲んでいて、
座が盛り上がった頃、
「沖縄の人たちは
昔はどんな服装をしていたのですか?」
と聞いたら、相手が怒り出した
ことがある。

「何を言っているんだ。オレたちが、
そんなへんな格好をしていたと思って
いるのか?」

ボクは、何気なく聞いただけだったのだが、
隣りの人が「まあまあ」と取り直して
くれて、また楽しい飲み会になったが、
何かに触れた思いがあった。

異なる文化に触れる時、
なにかがざらつくことがあり、
その時にむしろ魂は大いに深く学ぶ。

政府が検定する唯一無二の
「公正な」教科書があるという
フィクション自体が、
最初から他者を排除するような
構造になっている気がしてならない。

もっとも、関係する人に悪意が
あるわけではないだろう。
ゴーゴリの名作『外套』の
主人公のように、
ただ誠心誠意職務を執行している
だけのことなのだろう。

だからこそ、問題の根は深い。
何しろ、Good morning!
からすでにすれ違うのだ。

雨の音を聴いていると、
不思議に心が安らいで、
自分が大海に一つながりになっている
ような、そんな思いがする。

雨が、海を運んできてくれた。

9月 30, 2007 at 09:09 午前 |

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受信: 2007/10/01 20:11:54

コメント

it's!

茂木先生、今日は、久方ぶりの芋虫小僧です。
「good morning」からして違う、モンティーパイソン。自分も好きです。早稲田生の影響でした(笑)。世間での出所はタモリさんですか。潮流がチラリ。字幕では「いい朝だ!」だったかな?

「笑い」は「怒り」を理解するよりもむつかしく、文化差を浮堀りにしますね。地域差・年齢差も影響大きく、これだけ情報を共有しながら差を産む。笑いには普遍が無いという普遍?普遍が変化するという普遍?怒りや悲劇は確実に普遍があるのに。

差の観点だけではなく、日本人は外国人のジョークには積極的に笑おうとしますね。日本人同士では外見・地位の優位が笑いへの積極性に繋がる機会が多いような気がします。その差が不思議で。茂木先生が以前言っていた共感回路の話は自分にはナイス観点で、「共感回路が先か、笑いが先か」。

しかしおかげで人前で好きな人の意見に賛同できなくなってしまいました。共感回路が開いていることがバレたら恥ずかしいですよ。人に知られたら気絶します。でもそれで嫌われたらどうしよう。

相手が自分をあまり知らなければ愛も自由に歌えるのですが、バレたらガッチガチでして、というか、もはやバレていた?当時を思うと恥ずかしさに悶絶します。オロカスギル。

この歳にして、中学生レベルの恋愛スキルに苦しんでおります。
(ああ、教科書問題へ辿りつけませんでした・・・(T_T)。

投稿: imomusikozou | 2007/10/04 5:12:09

教科書問題について、漠然と思っていたこと・・・
それを、茂木先生が言い尽くしてくれた感じがします。
↓のコメント・・・


ただ誠心誠意職務を執行している
だけのことなのだろう。

だからこそ、問題の根は深い。
何しろ、Good morning!
からすでにすれ違うのだ。

学校の先生の英語の授業の進め方に辟易していた。
あまりにも進度が遅く、全体の理解ができなくなっていた。
あの先生は、一生懸命、誠心誠意、年度当初たてた授業計画を
遵守して、授業を進めたのだろうな~

他人のせいにするのは、だめだと思うけど、
私の英語アレルギーは、中学・高校時代の英語の授業の
影響も大きいと思う。
もうちょっと、そこに書かれている英文の全体像→
何を言っている、何を訴えている文章なのか?
という視点をいれながら授業を進めてくれれば、
もうちょっと進んで勉強しようという気になったかもしれない。

今、話題になっている沖縄の集団自決の教科書認定の問題について、
その経緯や問題点を生徒に詳しく話してくれる先生が
どれだけいるのだろうか・・
教科書だけが正しいと思うことが、おかしいという視点・・・

投稿: ふわく | 2007/10/01 7:25:06

日本の国語の教科書・・私は茂木さんの2歳下ですが・・確かに、薄かったですね。
今でも思い出せる話は、月と芋虫が出てくる話だけです。

他者(自分と違った人)を排除するのって、幼稚ですよね。

投稿: | 2007/09/30 23:14:11

 茂木先生はじめまして。
 毎朝パソコンを立ち上げ、まず最初に先生のブログを読むことが日課になって半年。やっとコメントを書く時間ができました。きょうは終日雨が降り続き、久しぶりに家でゆっくりしています。濡れた路面を走り去る車の音とか、しとしとと軒を打つ雨音とかをBGMに何だかとっても静かに時間が流れています。こんな風に雨を全身で感じるクオリアもいいものですね。
 1つ1つの言葉が持つ語感というのもクオリアという概念で捉えられるのでしょうか?わたくしも先生と同じような経験をしたことがございます。以前韓国に留学したとき、NHK衛星放送の天気予報で使われていた「朝鮮半島」という言葉に敏感に反応された韓国人の方がおられて驚いたことがあります。韓国では「朝鮮半島」とは言わず、「韓半島」と呼ぶのですが、韓国人の年配の方の中には「朝鮮(チョーセン)」という言葉が持つニュアンスとか語感とかに拒否反応を示される方もおられるようで、大変戸惑いました。沖縄も然り。いろいろとデリケートな部分ですね。
 

投稿: K.M | 2007/09/30 18:15:42

投稿二度目で、失礼します。

異なる世界の文化と接し、その世界の何か「根っこ」のようなものに触れた時の、一見居心地の悪いような思いをして初めて、その世界を許容出来るのかもしれない。

そして、そこにこそ、大きな深い魂の喜悦があるのだろう。

自分達、この東海の端の小島に住まう民は、異文化に触れる時に感じるという、そんな深い歓びをまだ、味わい足りないのに違いない。

日本政府による教科書検定のような「他者排除」のフィクションには、如何考えても、異文化=わけのわからないものとみなして、ひたすら怖れる「恐怖心」が含まれているような気がする。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/09/30 16:55:18

こんにちわ。

DVDで、音声を日本語にすると、日本語音声、日本語字幕になり、かなり、日本語音声と日本語字幕が違うな、と思った事があります。
映画翻訳家の戸田さんがTVで、小学校のころから外国映画が好きで映画館でよく見ていたらしく、中学校に入ると、英語の授業で、「この言葉はあの映画の場面の言葉である」、と、思い浮かべる事が自然に出来た、らしいです。私の場合は、英語ではないですが、小学生ぐらいの時、日本語で、言葉で、あの時、誰が言った言葉だ、と、その場面を覚えていた感じがします。

私も、戸田さんのように、自然に英語の言葉の場面を覚えれば・・・と、思うのですが、そう簡単にいかないようです・・・(T_T)。

投稿: tain&片上泰助 | 2007/09/30 16:42:43

僕も読んでましたよ。教科書。好きな教科の好きな箇所だけでしたが。

三浦哲郎だか黒岩重吾だかの小説に「とんかつ」というのがあって、床を作りに仲居さんが部屋に入ったら、母子が食事をしているのだけど、食事のとんかつをまだ息子が食べている。
母親の皿にはとんかつはない。
息子は明日雲水になる、と母親は言う。
授業で作者の意図を聞くまで、僕は母親が食べるのが早いのだと思っていましたが…。
先日の「美の教室」といい、昔からやる事は変わらないですな。

投稿: 斉藤 | 2007/09/30 12:49:09

おはようございます。
日本人の教科書に対するイメージは、
江戸時代に植えつけられたのかな、と思いました。

福沢諭吉の『文明論の概略』のなかに、
江戸時代は学問も商工業も宗教も、
すべて幕府の許可がなければできなかったとあります。

そのため、日本人の頭に、
「幕府のお墨付きがあれば、どんなものでも公共物になる」
という思考回路ができたのだと思います。

教科書も政府公認ですから、
その流れを汲んでいるのではないでしょうか。

--------------

雨降ってますね。
茂木さんの本は『脳と創造性』を読ませていただきました。
芸術を考える上で、大変参考になりました。
ぼくのブログでも扱わせていただく予定なので、
よかったらご覧ください。

そのうち、
茂木さんの芸大の講義を聴きにいければと思います。

投稿: 青木達也 | 2007/09/30 11:00:36

金曜日の朝カルで、その「空飛ぶモンティ・パイソン」のヴィデオを見せていただいた時、英語字幕だけでも出演者のシグサだけで結構笑えた。笑いつつも、英国コメディはやはり笑いの表現が、日本のお笑いよりも手が込んでいて、しかも「大人」的なのだ、と感じていた。

ところで、互いにかわされる言葉…その一つ一つの言葉でも文化風土が違ってしまえばその国によって、意味合いからして変わってくるという問題…ということなのだが、例えば、英和辞典を引くと、英語でいう“die”は単に「死ぬ」と言う意味以外にも、「枯れる」「薄らぐ」「絶える」(機械などが)「突然止まる」など沢山の意味が含まれる。逆からみてもまたしかり。
(勿論、[die]という言葉の様々な意味合いの奥底には「なくなる」という通奏低音的なニュアンスが共通してあるようだ)

しかし一般的には“die”なる言葉はたいてい「死ぬ」というひとつの意味だけに収斂されてしまう。

[die]が日本では[死ぬ]と言う意味だけに使われるのは、一種の「誤訳」なのかもしれない。

教科書の存在意義も、日本と他の国とは意味合いがちがっているのが当然なのかもしれない。

日本の教科書は、茂木さんの言うように薄くて、すぐに1日で読み終えてしまうものだった。

そのうえ今思えば、まさに「テキスト」という感じで表面的なことしか書いていなかったように思える。

それに最近、特に歴史の教科書でありがちな「歴史修正主義」のように、一種の“修正主義”的な傾向すらみられる。

毎年のように文部科学省が「検定」ばかりやっているから、単なる「テキスト」みたいになり、修正主義みたいな様相を呈してくるのだろう。

教科書の本来の意義は、ただその「教科」(数式とか文法とか)だけを教えるものではなく、それにまつわるいろいろな意味合いやエピソードなど、沢山のことを教えることにあるのではないか。

このさい、日本の教科書は、文部科学省の管轄から完全に解放したほうがいいのではないか。

茂木さんも何時も、というか時折仰っているように、学問は自由でおおらかなものの筈だ。

そのおおらかなはずの学問に「縛り」を入れるような、余計な「検定」など最早ナンセンスだ。


それはさておいて、人と人との間で、お互いに交わされる言葉の中にはたった一つの意味だけではなく、もっと微妙なニュアンスや複数の意味合いが含まれるものなのだ…ということを常に頭の片隅において、意志のやりとりをしていくことが、とても大事なことのように思える。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/09/30 10:51:33

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