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2007/07/17

文脈をはるかに超えて

ザルツブルク大学には、友人
グスタフ・バーンロイダーが
いて、
何回か訪れた。

3週間ほど滞在したことも
ある。

ザルザッハ川から旧市街に歩いて
いくと、もうそれだけで心が
満たされる。

飛行機の中で一つ仕事を
終え、ホテルに入ってもう一つ
仕事を完成させてから歩き始めた。

午後8時を過ぎても、まだ
明るい。
ミラベル庭園の手前の道で
川沿いに出た。

ホーヘンザルツブルク城を見ると、
ああ、来たなと思う。

いかに文脈の限定を超えるか。
そんなことばかり考えている。
いかに、広い文脈で仕事をするか。
あるいは、もともとは限定された
文脈での仕事であっても、
それを超えて行くか。

ホテルのロビーにあったDie Weltには、
リヒャルト・ワグナーのひ孫、
ウォルフガング・ワグナーの
娘のカタリーナ・ワグナーの記事が載っていた。

カタリーナは27歳。
ヴィーラント・ワグナーとともに
戦後のバイロイト様式をつくった
ヴォルフガング・ワグナーは
今年の8月の誕生日が来ると88歳。

ヴォルフガングの後継者として、
カタリーナは有力候補視されており、
今年のバイロイトで
『ニュルンベルクのマイスタージンガー』
を演出することでデビューするのだという。

一面に「偉大な名前、大きな演出」
という見出しが出て、写真付きの
一頁のインタビューが出るのは、
ドイツ語文化圏という文脈ならではの文脈。
バイロイト王朝の後継者争いは、
大ニュースである。

日本ならば、さしずめ、歌舞伎役者の
襲名のようなもの。

それぞれの文脈の中で育まれたものが、
どれくらい人類文化にインパクトを
与えるかということは、
文脈の限定をどう超えるかという
ことにつながる。

新潮社からこのほど発売される
講演の中で、小林秀雄さんが
言及している、
ゴッホが自分という個性を
乗り越えるための凄まじい格闘。

日本の文化が日本の文化である
限り、人類の普遍への貢献は
限られたものになる。

脳科学もまた同じこと。
リヒャルト・ワグナーその人は、
文脈をはるかに超えていった。

モーツァルトの生家のすぐ近くにある
Zipfer Bierhaus
が私のザルツブルクでのお気に入り。

片隅のテーブルに座って、Zipferを
飲み、Wiener Schnitzelを注文する。

まだまだ生まれたばかりのような気がする。
文脈に浸り、しかし文脈から自由になり。
そのような精神運動のやっかいさと
喜びについて考えた。

ビールの味が日本よりも濃い。ほろ苦く
そしてやがて甘い。

7月 17, 2007 at 11:34 午前 |

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コメント

日本からビールの乾杯に参加します。
朝っぱらからになっちゃうけれどw

新たなる境地に立つ度に
ドキドキします。

今まで見てきたものが
変わって見えて来て、
次に見えてくるものが
ものすごく意味があるようで

生まれたての様な
喜びと始まり。

先生にとって精神運動は
もはやプロのリフティングなんですね。

投稿: | 2007/07/18 4:10:08

茂木さんもザルツブルクお好きなんですね。

私も好きで何度となく訪れています。
一ヶ月前に私が座っていたところに、今茂木さんがおいでるというのもなんだか不思議です。

投稿: Kaori | 2007/07/18 0:26:14

ゴッホは「赤い靴」を履かされてしまった人なのでしょう?
茂木さんも履いていらっしゃるんですね。
神様は、私にはなかなか赤い靴を履かせてくださらない。。。
なぜ私は、とり憑かれたようにずっと踊り続ける人生に
憧れてしまうんでしょう?

今の私は、毎日、毎日獲物が1匹も獲れずに
お腹をすかせて家に帰る餓えたハンターのよう~。
(でも、まだまだまだまだ餓え方が足りないから靴は履けない。)
踊りは踊れないけれど、とりあえずぱたぱたし続けてみます。
  *
***   光速ではないけれど、ぱたぱたぱた
 *
去年の夏、プロフェッショナルにご出演なさっていた花火師の方に
寄せた茂木さんの言葉もチラチラ思い出します。
プログにピピタンされた音声ファイルがありましたね♪

考えてみると「生まれたばかり」のような気持ちになったことは
なかったかもしれません。
2千年くらい生きていたような気持ちになってしまったことは
何回かあったというのに(笑)!

投稿: | 2007/07/17 23:26:14

テレビで、「ハリーポッターと不死鳥の騎士団」の予告編をやっていて、「ハリーポッターと○○」で、○○の部分何でも入るなと思った。

「ハリーポッターと大統領」
「ハリーポッターとサザエさん」
「ハリーポッターと茂木健一郎」

と、考えたとき、妄想モードに入ってしまった。

以前、趣味で小説を書いていた事があり、ストーリーが走馬灯のように走る事がある。
ハリーの前に東洋系の先生がやってくる、ストーリーなんだけど・・・。


将来、文脈をはるかに超えて文脈がある場合、言葉に出来ると、仮定した場合、言葉の超越性を利用して、先取り出来るのでないかと思う。

「脳とワイン」
「脳と花火」
「脳とスポーツカー」
 ・・
 ・・
「脳と○○」

低次元な組み合わせだけど、偶然と言うものが可能性として考えられる。


近くのショッピングモールで、世界のビール展とか、やってくれないかな(笑)。

投稿: | 2007/07/17 23:12:00

文脈を超える、というと、
とてつもなく大きなことのように聞こえます。

実際、とてつもないことなのかもしれません。

しかし、日常のふとした所にも、
文脈はゴロゴロ転がっているように思います。

それを超えようとする気持ちと、
その中で生きている人達の感覚も無視したくない気持ちとの間で、
自分の中での摩擦をどうしようかと
右往左往することが多いのですが、
最近、自分としては、文脈を越えたものを発信する努力をしつつ、
対話の窓口は広く開く努力をする方向で、
しばらくやってみようかと思っています。

投稿: aki | 2007/07/17 21:36:36

ある文脈の中で育まれたものが、その文脈を超えるということは、私の拙い頭脳で考えてみても、如何に厄介で大変なことか…かすかながらも感じられる。

しかし、いったんそれが、その文脈の限定という名の「鎖」を断ち切り、普遍的なものと化して、人類全体の文化にインパクトを及ぼせば、その文化に新しい生命と息吹きを吹きこみ、ひいては人類全体の普遍に大きく貢献することになるのは、茂木博士の仰る通りだ。

ワグナーの音楽藝術は、自らが依拠する文脈の鎖を断ち切り、そこからはるかに大きく飛躍して、文化全体に瑞々しい新風を吹きこみ、人類の普遍に大貢献したことは間違いない。

その国の藝術といい、文化というも、如何に各国に輸出されようと、その文脈に縛られ続けている限り、永久に「人類の普遍への貢献は限られたものにな」らざるを得ないだろう。

日本発のいろんな文化も、「日本」という大文字(!)の文脈にとらわれていないで、そこを大きくはるかに超えて、世界の普遍に融け込んでいく時期に、ひょっとしたら、今、来ているのかもしれない。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/07/17 21:36:11

風景の写真も付いて、うれしい。
拝読しているうち、なんでだか、
手のひらを、「ぐうっ」と握って、
その後、「ぱー」にしていました。
それを繰り返す運動をしてみた。
茂木博士の今日の文章には、
そのような作用がありました。

投稿: | 2007/07/17 19:13:05

文脈を超えるとは、ハチャメチャに見えるほどの試みに情熱を燃やすことから始まるような気がします。ハチャメチャになること自体、普通の人には難しいことです。しかしそれができる人は、きっと茂木さんがおっしゃっているように"引き受ける"心の括ができている。いかなる外圧にも、いかなる厄介さにもめげず、一本筋の通ったハチャメチャ、そんな気がする。しかし、そのように一本筋の通ったということは自分が感じることではなく、あくまで客観的なものであって、その渦中にいる本人は、ただ解放された心の領域の中に浮かびあがる想念に無我夢中になっていることでしょう。ゴッホやヴァクナーが超えたと見るのは私達であって、彼らにとっては超えたという意識はないのではないでしょうか?
僕からみれば、茂木さんという方は、すでに文脈を超えていて、この先どんな新しい文脈が育まれるのか?とっても興味津々です。

投稿: | 2007/07/17 15:02:03

>いかに文脈の限定を超えるか。
>そんなことばかり考えている。
>いかに、広い文脈で仕事をするか。
>あるいは、もともとは限定された
>文脈での仕事であっても、
>それを超えて行くか。

40代の茂木さんから、
上のような輝かしい考え方を聞くと、
20代の自分はもっと日々の生活を怠けず、
感じることに敏感になり、努力しなければ!
と思う次第です。。

投稿: Hashidume | 2007/07/17 12:06:52

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