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2007/07/30

やがてうっそうとした

以前から、私は、
「クリエーターは言い訳をしては
いけない」と言い続けてきた。

 芸大の授業でも、学生たちに
そう言ってきた。

 作品として顕れるものが
全てで、
 「本当はこうだったんだ」
とか、
 「こういう意味なんです」
などと説明してはいけない。

 日曜日。
 雷とともに激しい雨が降り、
それが上がったのをサインに
近くの公園の森を走った。
 さすがに斜面はぬかるみで、
行くと自分がイノシシになった
ような気がした。

 走り終えて歩いている時に、
「あっ、そうか」
と思った。

 野生動物は、言いわけができない。
 出くわした時に、
 「オレはこういうやつだから」
 「実はこういうわけなんだ」
などと説明することはできない。

 お互いの気配、見えるもの、
聞こえるもの、
 触るものが全てである。

 言い訳をしないで生きるという
ことは、つまり野生動物に
なることである。

 千葉市の海外職業訓練協会(OVTA)
に開かれているソニー教育財団の
「リーダー養成セミナー」
でお話させていただく。

ソニー科学教育研究会
の各支部から推薦された地域のリーダーと
なる40代前半の先生方が中心と
なった会。

 日本人の中で、科学的思考
というものが何か、わかっている
人の割合はせいぜい1%くらいなの
ではないか。

 だから、先生方は「宣教師」
のようなものなのです。
 そのように申し上げた。

 夜、六本木ミッドタウンの
「玄治店濱田屋」にて、岩宮恵子さん、
新潮社の鈴木力さん、寺島哲也さん、
古浦郁さんと懇談。

 岩宮さんの『思春期をめぐる冒険ーー
心理療法と村上春樹の世界』(新潮文庫)
に解説を書かせていただいたのを
機会にお誘いいただいた。

 北本壮さんが待ちかまえていて、
その場でゲラの体裁の確認をした。

 鈴木さん、寺島さんは村上春樹
さんの担当編集者である。

 岩宮さんは、先に亡くなられた
河合隼雄さんのお弟子さんであり、
 さまざまな大切な想い出をうかがった。

 私の中での河合さんの想い出は
年経た大木のように息づいている。
 お話をうかがううちに、
その大木の周囲に潜んでいた
木々が暗がりから姿を現し、
やがてうっそうとした森の
気配に包まれる。

 そんな思いがした。

7月 30, 2007 at 06:02 午前 |

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コメント

昨日は、反論めいたコメントを書いてしまいました。
改めて、再コメントさせて下さい。

野生動物になる、という感覚、その言葉づかい、
すっごく素敵です。

思うに、私が、1人で遠出をするのが好きなのは、
きっと、野生動物に戻れるからです。
知らない土地なら、あまり話しかけられる心配もないですから
「私はコミュニケーションが上手くいかないときがあります、
 理解して下さい」
と、心のどこかで言い訳を用意している状態から
開放されるのです。

職場で、
「あなたは言い訳が多い」
と言われた翌朝のクオリア日記でした。
重ならなかった無数の偶然の中の、たまたま重なった偶然。
でも、そのおかげでいろいろなことを考えられたのは、
必然の結果ですね。
他にも、
いろんな思いが湧き起こって凝縮されました。

余談として申し上げますと、
出会った人の想い出が大木のように息づいている
というイメージは、私の中には見つけられなくて
私の人間関係の乏しさを 再認識した思いです。

投稿: u-cat | 2007/08/01 2:33:25

>饒舌なクリエーターってやはり格好悪いですよね。

その人は物書きになったほうがよかったと思う(w

投稿: JA | 2007/07/31 8:44:00

でも、人間には、言い訳をする(というよりも、
真実を伝える)という精神活動が必要になる場面が
二つある。

一つは、
自分の立ち位置を、相手に明らかにすることで、
情状酌量を求めたり、
相手を立てたり、
他からいじめられないよう自分を守る、という場面。
それは、社会生活上、大切なことだと思う。
そういうことを一切してはいけない、ということになると、
あちこちでいろんな人が、精神上の切腹を選ぶことになる。

もう一つは、
それによって相互理解がなされる場合。
ある事象を、他人が、「失敗・過失」と見ても、
自分にとって、「失敗・過失」ではなかった場合
(客観的事実がはっきりしていない場合)、
他人が自分のことを誤解している、という視点で、
事情を説明する。

作品の場合は、それでも黙っているべきかも知れないが、
日常生活では、どうなのだろう。
相互理解が生まれることなんて、ほとんどない・・・。
自分が事情を説明しても、人は、言い訳としか受け取ってくれない。

当たり前のことばかり書いてきたが、要するに、
私は、野生動物にはなれないよ!
動物園の動物だよ!ということ。

投稿: u-cat | 2007/07/31 4:23:04

きょうの名文!(にほんごであそぼ風にどうぞ)

茂木健一郎ウォッチャー(オッチャンではないのでね・・念のため)のおれが見つけた

ちょといい話のコーナー♪

・・本日のブログ「クオリア日記」より http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/


やがてうっそうとした
>>
以前から、私は、
「クリエーターは言い訳をしては
いけない」と言い続けてきた。

 芸大の授業でも、学生たちに
そう言ってきた。

 作品として顕れるものが
全てで、
 「本当はこうだったんだ」
とか、
 「こういう意味なんです」
などと説明してはいけない。

 日曜日。
 雷とともに激しい雨が降り、
それが上がったのをサインに
近くの公園の森を走った。
 さすがに斜面はぬかるみで、
行くと自分がイノシシになった
ような気がした。

 走り終えて歩いている時に、
「あっ、そうか」
と思った。

 野生動物は、言いわけができない。
 出くわした時に、
 「オレはこういうやつだから」
 「実はこういうわけなんだ」
などと説明することはできない。

 お互いの気配、見えるもの、
聞こえるもの、
 触るものが全てである。

 言い訳をしないで生きるという
ことは、つまり野生動物に
なることである。


(後略)

ご自分をイノシシに見立てたところが茂木先生・・私は「先生」と敬愛を込めて呼んでいるのです これも念のため・・ 茂木の旦那らしい。でも「虎」のほうがカッコイイだろ(笑)

でも自分で「虎」と見立てる自惚れ屋はおれぐらいで、近頃の旦那の「フィールドワーク」ぶりはまさしく 虎 ・・あるいは「鬼」と呼ぶのにふさわしい。

だから、おいらだってさ かみさんに詫びてないんだ・・ それも辛いぞ∂。-

えっ!?・・いっしょにするやつがあるかって?

・・。  ・・お後がよろしいようで。おいら 一から勉強しなおしてまいります。。

投稿: 風のモバイラー&野村和生 from nomgroove.com | 2007/07/31 2:41:46

ニホンザルの「遺伝子汚染回避」のための、野生種ではないタイワンザルの「駆除」の話題のことでいやな気分になっていて、クオリア日記を見ていたら、この言葉に出くわした。日記とは直接関係ないが、少し書かせてください。

今ヒトが行なうことはすべて「自然な」ことではないか。
「自然」の中のヒトが考え出した反応をヒトが作った反応器の中で実現して「自然界にない」物質を合成することも自然の営み。「自然界にない物質」が、現に自然界にあるとは?
などと、大昔に高校生同士でエキサイトしていたような議論を思い出してしまった。

タイワンザルを「駆除」することに賛成した科学者達よ、少なくともタイワンザルの、命をかけた抵抗と同じ程度の真剣さと判断で、この問題を扱ってくれ。それができないなら「自然」にまかせよう。

投稿: fructose | 2007/07/30 22:22:55

「クリエイターは、言い訳をしない」…これは、クリエイターのみならず、どんなジャンルの人間にも言え得ることだ、と思う。

たとえば、仕事や付き合いで、些細な詰まらないことで失敗をしたり、相手とケンカしたりした時など、人は、自分がなるべく傷つかないように、とか、あるいは、相手に良いように見られようとして、

「すいませ~ん!…実はこれこれこういうわけなんで…」
「誤解しないでください、私は本当はこうなんです」
…とあれこれ言い訳がましいことを言ってしまいがちである。
かくいう私も、そうなりがちである。

そのときは言い訳しないで、潔く「ごめんなさい」と謝るしかない…。
(もっとも、それが通用しない場合もあるが…)
けれど、野生動物はへまをした時に謝ることすら出来ない。

へましたら謝る、というのは如何やら人にしか出来ない行為のようである。

さて、クリエイターの場合、自分の作品について「こういう意味なんです」なんて「解説」することは、余計な意味付けのようで、やはり一種の言い訳なのだろう。

作品として顕れているものが全てなら、それを一切の言い訳なしでそのまま見せるしかない。

作者自身によるつまらない解説=言い訳は、その作品の質を作者をして、自ら貶めることになりかねないだろう。

どんなときでも言い訳無しで、生きる。
それは“野生動物のようになれ”という事なのか…。

そんな野の生き物のように、人間も、互いの気配、見えるもの、聞こえるもの、触れるものを生きる基準として生き抜くなら、一面キツイ、シンドイかもしれないが、案外すっきりと生きられるのではないか。

茂木さんの心の奥底に茂りつつある、精神の森の気配、その森の真ん中に、河合隼雄先生の思い出が、年を経た大きな老樹となって息づいている。

きっと、この老樹は、河合先生が茂木さんの心の大地に植えて下さったものなのに違いない…。

その周りに芽生え始めた小さな緑の木々がやがて成長し、若き脳科学者の心の中に大きなうっそうたる森ができあがっていく…。

河合先生が茂木さんの心に植えて下さった大樹の周りから、まさに深い豊穣が生まれていく…。

ひるがえって、我が心の真ん中に、そのような大樹はあるか。
そしてその周りに、豊穣なる緑の森の気配は芽生えているか…。

言い訳ばかりしていたら、そんな心の豊穣は生まれないかもしれないなあ。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/07/30 19:30:10

うちの飼っている犬は、よくほかの犬と喧嘩をする。
そのため、散歩は、ほかの人が散歩していない夜にする。

よく、コンビニや、タバコを買いに行くのだけど、家からでて、左に曲がると、タバコを買いに、左に曲がるとコンビニに行く、コンビニから帰ってくると、コーヒー牛乳を分けてあげる。犬も学習して、タバコを買いに行くと、犬小屋に入っていて、コンビニに行くと、出迎えてくれる。時々、タバコを買いに行って、帰ると、出迎えている場合があるが、持っているものがタバコだと、顔を落とし、ガッカリした顔をする。


もしかしたら、古代から言葉は、誰かわからない人と出会ったときの緩衝材しての役割を持っているのではないだろうか。


もし、今まだ、人類が言葉を持っていなかったら、挨拶がお尻のにおい嗅ぎ合い微笑み合う、風習があったかも(笑)。

投稿: tain&片上泰助 | 2007/07/30 10:09:14

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