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2007/07/16

モーツァルトを生きる

先日東京ブックフェアーの
際にお目にかかった
グーグルのブックサーチ
担当のアダム・スミス氏は、
「グーグルは、そこにユーザーを
長い時間とどめておこうとするのでは
なく、むしろどんどん
いろいろな他の所にいって欲しい、
通過点のような場所になりたいと
思っているし、実際そうなっている」
という意味のことを言われていた。

サーチ結果をクリックして、
「他の場所」に向かう。
そのようなスイッチボードの
役割をグーグルは果たしていると。

インターネット自体の、現実に
対する役割も、そのようなもので
良いのかと思う。
インターネット自体にとどまる
ことが目的なのではなくて、
現実に存在する人間だとか、
本だとか、場所だとか、音楽だとか、
そのようなものへとリンクする。

そして、運動をうながす。

子どもの頃、プロ野球を見に行き、
試合終了とともに選手たちが
さっさと引き上げるのが
不思議だった。
特に、負けた時は早かった。

もう少し球場にいて、
「名残を惜しむ」ような
ことがあっても良いではないかと
思っていたが、
今では、あれがプロの倫理、感覚
というものだということがわかる。

ベストを尽くすべき時間は試合中であって、
終わってしまえばそこに彼らがやるべき
仕事はない。

現代人とインターネットの関係を
考えていて、あの光景が思い出された。

Bunkamuraのバックステージに
入るのは初めてだった。
十分に大きいが、本格的な演出つきの
オペラをやるには狭い。

「だから、演目によっては、
トラックを横付けして、幕が
終わる度に全部搬出したりして
いたのです。」
と聞き、なるほどと思う。

東京フィルハーモニー交響楽団
のモーツァルト『イドメネオ』
の公演で、プレトークをする。

演奏会形式。
チョン・ミュンフンさんが
チェンバロを弾きながら指揮を
する。
モーツァルト当時のやり方。

『イドメネオ』には、国家や、
神といった大文字の概念が
出てくる。
それらのものが、登場人物
一人ひとりの生に直接かかわって
くるところは近代以降とは
違う。

モーツァルトの素晴らしいところは、
小文字も大文字も含む視座を
持っているところ。
大文字だからと言って、厚かったり、
不可視だったり、粗暴だったりは
しない。
スケール不変な透明感の中に、
美しい旋律を描く。

モーツァルトを
感じるだけでなく、モーツァルトを生きる
ためにはどうすれば良いかという
ことを考える。

チョン・ミュンフンさんを始め、
ステージ上の人たちは、
今、この瞬間、モーツァルトを生きている。

演奏会が終わり、街の雑踏を歩いていると、
モーツァルトは次第に遠くなっていった。

感覚するだけではダメで、
運動して初めて世界観のバランスは
とれる。
とにかくもう、
ボクは手足を動かしたいんだなあ。

脳髄を目一杯動かして、思考運動の
中に身を投じるのがウレシイんだよ。

夜明けに鳴くカラスの声を
数えてみたら、
カアカアカアと
3回鳴く時と、
カアカアカアカア(4回)、
カアカアカアカアカア(5回)、
カアカアカアカアカアカア(6回)
とバリエーションあり。

はて、彼らは数えながらやっているのかしらん。

私も一つ、数えながらやって
みようかな。

7月 16, 2007 at 05:53 午前 |

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コメント

知る
感じる
する
出来るようになる

そして再び知る。

私的には嬉しい超回帰ですw
先生はネットでも至りつつ
自力経験上というのが
凄いなあ。

先生を人がどういった点で
評価するのかは知りませんが、
私には琴線に触れまくりなんです。

言ってることが、
よりも
物事を見つめてゆく姿勢が、
なのですが。
(私が理解できているかどうかは
謎ですが)

私は先生とウオーーと競うのは
とっくにやめて白旗ですが
先生の日々前進を
いつも楽しんでいます。

人は変わりますが、
でもそれを素直に認めて、
普遍性を求めて変化してゆくという
不思議な矛盾こそが
俯瞰的な普遍の有り様なのかしらん。

だから俯瞰の距離毎に
真実があって
それはどれでも間違いでは
無いのだろうなと思いました。

先日住職の説教で
こういう話がありました。

「お釈迦様が信者の持ってきた
毒キノコで病になった時に
「私が死ぬのは毒キノコを
食べたからではありません。
生きているから死ぬのです。」」

究極の俯瞰ではありますが
そこまで至らない途中に
毒キノコが真実であっても
良いのだと思いました。

「命あるものは変化する。
変わってゆき、いずれ死ぬ。
だからこそ、今この時を生きよ。」

7歳のときから、
まだ3回しか会ったことのない
住職ですが、
30を越えてようやくに
言わんとすることが
身にしみてきました。

相変わらず先生に引き上げて
いただいているみたいです。

それでも最後の「できるようになる」
生き方は相変わらずの難題です。

もうザルツブルクにつきましたか?

東欧とはまた、
バリエーションに富んでいますねw
良いオーストリア滞在に
なりますように。

投稿: mogumogu | 2007/07/17 3:48:45

良い旅をされることをお祈りしていま~す!

投稿: tachimoto | 2007/07/17 0:14:59

カアカアカアは おなかすいた
カアカアカアカアは 帰りましょ
カアカアカアカアカアは 会えてよかった
カアカアカアカアカアカアは 夕日がきれい

投稿: エコツミ | 2007/07/16 22:17:58

ああ、そうですね。カラスは、広場などで早朝集会をしますね。
お互いに連絡事項とかあって、会議をしているみたいです。

投稿: F | 2007/07/16 22:02:27

モーツアルトのお話、また、聞かせてください。
会社に出掛ける前、毎朝のように、他界した父が
モーツアルト聴いてました(ご近所メイワクでしたね)
どんな魔法にかかるんだろう?と思ってました。

投稿: F | 2007/07/16 21:55:06

新潟、長野で大きな地震があり、心痛みます。
明日の雨という天気予報が外れますように、
一日も早い復興を、と祈ります。

投稿: F | 2007/07/16 21:32:18

昔、小学校の頃、オスのシャム猫を飼っていて、近所の猫の鳴き声に違いを見つけた、「ニャー↑」、「ニャーオ↑」と、語尾を上げると、オスの声、「ニャー↓」「ミャー↓」と語尾を下げると鳴くとメスの声で、オスの声だと、メスが集まる、メスの声だとオスが集まるわけである。

高知県にある時、行ったときは、語尾のニュアンスがオスと、メスが逆だった。

個別の猫には、個別に反応する語尾のニュアンスがあるので、お試しあれ。


私の場合、曲を自分なりにイメージを加えて、理解するのが好きなのですが、
茂木さんは、イメージを得るため、「そこまで行く」というエネルギーが、さすがと思う。


昔、ネットする事を、「ネット・サーフィン」と、言われていた事を思い出す(笑)。


投稿: tain | 2007/07/16 19:16:25

最近、僕の中にイキイキとしてあるもの、それは・・・

茂木さんが、著書の中で、『記憶していないこと』こそが大切なのであるというようなことをお書きになっていること。

そして、疑問に思うこと・・・

DNAには長い人類の意識の集積が刻まれているのだろうか?もしそうだとすれば、今を生きる自分という個我の意識も例外なくその一つとなりうるのだろうか?そしてそれは何かに触発されたクオリアが生み出す記憶ということなのだろうか?それとも際立って記憶となり得ない変哲もないことなのだろうか?

投稿: 岩佐英一 | 2007/07/16 18:20:09

夜明けにカラス(嘴太鴉)の鳴く声、私も朝4時台に早く起きて出勤するせいか、よく耳にすることが多い。

仰るように、たしかにいくつかのヴァリエーションがあり、カアカアカア…と澄んだ声調で、3~4回、多いときは6回~8回も鳴くパターンがある。

その他、アッ、アッ…とか、アー、ハー、アーアー…とか、沢山の鳴きかたのヴァリエーションがある。俗にいう「アホー」の鳴き声は、実はアー、ハーという鳴きかたを、人間が聞き為して「アホー」と表記するようになったのではないかと思われる。

新橋の駅前で朝、カラスが上のようなヴァリエーションを駆使して鳴き合っているのをよく聞く。

アレはカラス同士による、彼等にしか意味が理解出来ない、一種の「言語」による情報交換ではないかと思うことが多い。つまり、彼等にとっては「鳴く」という行為は、私達にとっての「話す」行為そのものなのではないかと思う。

そしてそれはカラスの、猿類並みに高度に発達した脳髄を目いっぱい駆使して為される業なのだと思う。

さて、現実社会では、ネットというものは、スミス氏や茂木博士の言われるように、それ自体にとどまるのが目的ではなく、むしろどんどん、いろいろな他の場所…現実に存在する人や、本、場所、音楽などへリンクし、さらにそれらに実際に出会う運動をうながす為の「通過点」という役割に徹するのが一番いい。

事実、グーグルはそのような役割に徹しているのだし。

TVでも、情報番組を流してグルメ情報や、おすすめの本やDVDの情報を出せば、それらを手に入れようという行動を起こす人が出て来るわけだし。

所詮、ネットもTVも、現実に存在する、いろいろなほかの場所やもの、人との出会いを促す為の「通過点」というのが本来の役割、という気がする。

今の時代、中毒のようにケータイやPCに、日がな1日ずっと貼りついている人を見ていると、彼等は、ネット本来の役割がわからないままに、そうしているのではないか、と思う。…彼等は、ただ、「感覚する」だけで「運動する」には至っていないのかもしれない…。

このコメントを打ち終わったら、私も大いに手足を動かし、脳髄を目いっぱい働かせるべく、外にパッと打って出よう…!

投稿: 銀鏡反応 | 2007/07/16 10:07:31

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