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2007/06/21

無根拠なるがゆえに

京都、相国寺の有馬頼底管長に
お目にかかる。

相国寺は京都五山の一つであり、
金閣寺、銀閣寺を境外塔頭として
持つ。

先日、三十幅と釈迦三尊像が
120年ぶりに一堂に会した
伊藤若冲の『動植綵絵』は、
もともとは相国寺所蔵で、明治維新の
時に皇室に献上されたものである。

有馬管長の来歴は日本経済新聞に
連載され、その後単行本化された
「私の履歴書」に詳しい。

8歳で寺に修業に入り、母親の
死に目にも会えなかった。
有馬家はもともとは九州の久留米藩
で、競馬の「有馬記念」は
日本中央競馬会理事長であった有馬頼寧さん
に因む。

銀閣の中で有馬さんと座禅をした。
前の池に映る木々が美しい。

時々鯉がはねる。

「たくさん子が泳いでいますよ。
ほら、池の中央にかたまっているでしょう。
端にいるとあぶない、とわかっているんで
しょうか」と有馬老師。

銀閣の周囲の庭は、いつも掃除が
行き届いている。

「禅宗では、一掃除二信心と言います。
一日掃除をしないと、取り戻すのに二日
かかる。二日しなければ、四日かかる。
毎日休まずに励むことが大切なのです。」

席を移して、お話を続ける。

禅宗の思想の神髄は「無」にあるが、
しかしその「無」は「有」に通じるのだと
有馬老師。

「無」であることは「全てを持つ」ことと
同じであると。

人間の脳の神経細胞は常に自発的に
活動していて、
もし活動に空隙があると、それを
埋めようとする。

つまり、脳の生理的機構において、
「無」は確かに「有」に通じる。

創造性とは、「無」から「有」への
跳躍である。

日本のインテリが外国に出かけていくと、
必ずと言ってよいほど、
「君の思想と、禅の哲学との関係は何か」
と聞かれる。
そのように見られることを、
オリエンタリズムだ、特別扱いだと
反発する心性がある。

しかし、冷静客観的に考えて見れば、
日本の文化風土の中で、禅的思考が
もっとも高度で商品価値があるものの
一つであることは疑いない。

いかに禅的なるものを「抹香臭く」ない、
普遍的な価値へと結びつけるか。
これは一つの大きな課題である。

禅は、「本来無一物」であるとし、
全ては「無」であるとしながら、
一方で現世のあり方、生命のあり方を
肯定し続ける。
いわゆる西洋的なニヒリズムとは異なる。

無根拠なるがゆえに生きることを
信じ切る。
その生命哲学の中に、禅の可能性があるの
ではないか。

有馬老師の下を辞す。

俗世間に還っていく。

芯がどっしりとすれば、風が吹いても
大丈夫である。

6月 21, 2007 at 06:33 午前 |

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コメント

擢倒浄瓶

ある弟子が和尚の下で炊事責任者をしていた。和尚は他の寺に僧を派遣しようとして弟子達を試し、床に水差しを置いて言った。「これを水差しと呼んではいけない。では何と呼ぶか」

一番弟子が「切り株とは言えない」と言った。炊事責任者の番になると彼は水差しを蹴倒して出ていった。和尚は笑って、「一番弟子はあの弟子に負けた」と言ってその弟子を別の寺の和尚とした。

無門和尚の解説:出ていった弟子は勇気のある優れた僧であったが、やはりこの和尚の輪の中から飛び出すことは出来なかった。よく考えればこの弟子は楽な仕事から出て重い責任ある仕事を選んでしまったのだ。なんということか。この弟子は軽い鉢巻きを外して、重い鉄の枷をはめたようなものだ。



投稿: naritoku | 2007/06/25 10:22:21

 万華鏡のキラキラになれなくても
ピーチクパーチク鳴くヒヨドリくらいは
許されることでしょう。

 シニシズム的「無」の次は、
アオタ君やオシラサマの語る「無」について

 と思っていましたが、
先生が丁度この日の日記で
「生肯定の無」について語られたので、
おおっ、なんと言い得て妙なw

 それでも、「有に通じる無」は
行程の「道」こそ大切で、
経験から染みわたる、「ああ、これのことか」の
到達感の共有こそが、
色即是空 空即是色の言葉の意味なのでは
ないかしらんと受け止めています。

 結論としては普遍的だけれど、
道なくしては真実ではなく、
結論からスタートすることは、
色々なズレを生じさせてしまうような。
贋作とかの作為性のにおいはコレのような。

 でも生まれる負を心配するよりは
生まれる正を見つめた方が
オモシロですね。

 禅僧が何年も修行して得る境地もあれば、
日常が生む境地もあり、
 道があっても、足る足りないも
それ毎の創造性も楽しく
自由解釈が新たなる可能性を生むもまたオモシロそうで

 でもまた先生は戦う羽目に
なるんだろーなーとか思いつつも、

 トーマスクーンのパラダイムという言葉が
大反論を受けながらも、
意味が変化しながら一人歩きしたように、
それこそオモシロで
(トーマスクーンにとってはとんでもない
ことだったでしょうけれども)

 発見とは、受け入れることによって
自己の宇宙を広げることだと、
それも同時に普遍的になればいいのに。
いやこれは本来は普遍的なはずなのに。

 受け入れたら、みんなアボガド寿司を
ウマーと味わえるというわけで。

 この味をみんな知って欲しいなあという
共感の喜びは、先生の原動力ですよね。

投稿: ポン太 | 2007/06/23 20:22:51

たびたびお邪魔しています。「無碍」と名乗ることに、特に意味はないのですが、名乗らねばならない場面でなかば指の赴くままに名乗ったら無碍となった次第ですが。

存在の無根拠性(偶有性)を愉しむ、という、ニヒリズムに関する臨床哲学の何気ない呟きにであったことが、多分、今私を生かしめているようにも思われてきます。アンパンマンは、何のために生まれて何をして生きるのか、について、トートロジーで回答しています。

目的よ、夙く消えよ!

投稿: 無碍 | 2007/06/22 23:53:19

先に偶然見つけた物学研究会で茂木さんの講演を聞き、遇有性を感じ関連本を読み漁り、フューチャリスト宣言を読んでブログを始めてみました。
正のエネルギーがWEBでどのような動きになるかを見極めたくなりました。
>無根拠なるがゆえに生きることを信じ切る。
魂というものは「無」(存在)なるがゆえに「有」(意識)。
無から有を生むには自己分析の徹底により生まれ始める?
子供が魂をもつまでの過程には、何がどう作用するのでしょうか?
知りたいです。

投稿: ながとみこうじ | 2007/06/22 19:03:28

私は、強迫神経症で長年苦しみましたが、森田療法という精神療法に出会い、薬の助けも借りましたが、社会復帰できました。
森田療法は森田正馬という人が生み出した、日本が世界に誇るべき精神療法で、禅の考えを取り入れています。
私がもし、西洋人に禅の哲学をどう思うか聞かれたら、森田療法を話そうと思います。

投稿: かまくら | 2007/06/22 6:19:06

茂木先生は西洋と東洋の安易な二項対立に陥ってはならないと警鐘を鳴らしていますが、中国、韓国では禅は日本とは相当異なる方向に深化しているらしいですね。禅籍は失われて久しいとか。曹洞宗の只管打座に通じるところがあるらしいですね。

ちょっと話がずれますが、禅とうどんは脳科学から見てどのような関係にあるのでしょうね。
うどんが好きな禅僧は大変多いそうですが、うどんをあまり食べ過ぎると脳に良くないという俗説を耳にしたことがあるのですが・・・。

投稿: naritoku | 2007/06/21 23:50:04

“「無」ということは「全てを持つ」ことと同じである。”

“人間の脳の神経細胞は常に自発的に活動していて、若し活動に空隙があると、それを埋めようとする。…つまり、脳の生理的機構において、「無」は確かに「有」に通じる。…創造性とは「無」から「有」への跳躍である。”

よく、「無」から「有」を生み出す、という。なるほどそれは、こういうことなのに相違ない。

一見、何もないように見える中から、眼に見える「生命体」が生まれる。そこには始めから、生命体という「有」の「全て」が秘められているということに違いあるまい。

創造性という無から有への跳躍は、まさに何もないような状態から生命体が誕生するのに酷似している。

脳内の生理的機構においても、また生命哲学上においても「無」である状態(「空」である状態、ともいう)はまさにイコール「すべてを持つ」ということなのだ。

万物にそなわる生命の法則の中には「無」と「有」が裏表のように存在しているのに違いない。禅的思考は、その生命法則の、あくまでひとつの見かたに過ぎない。

その「禅的なるもの」も含め、東洋的・仏教的な哲学思考を如何にして、その抹香臭さを取り除いて、普遍的な価値ある思考に昇華させ、世界に発信するか。

…私達の「哲学的力量」が問われる課題なのではないか。


投稿: 銀鏡反応 | 2007/06/21 22:11:08

しばらく前に一念発起して、大
片付け&掃除に取り組み始めました。

部屋が散らかっている人は、頭の中が散らかっている、
という話が本当かどうかは知りませんが、
いざぎよくモノを捨てていくと、背負っていた荷物が
減るような気がします。
(後で、アレどこだっけ?とならないことを祈りつつ)

そうこうするうちに、鼻の奥が急性の炎症になっていることが
見つかりました。
モノの整理を始めたら、体も整理を始めたのかもしれません。

全ては無であるとしながら前向きに生きる、
ということができれば、
部屋や頭の中は散らからないような気がします。
なかなか難しそうですが。

モノや情報が溢れる現世で、茂木さんはどのように
いろんなことを取捨選択、整理なさっているのですか?

芯がどっしりする、ということは、
これが自分、という揺れない自分があることで、
現世に翻弄されない生を生きるということでしょうか。

投稿: aki | 2007/06/21 16:21:58

  初めて投稿させていただきます。 よろしくお願いします。
  約18,19年前、この「有無」の論理に気がつきました。
 
  約2週間ほど前、「有無」についてのブログを読みました。
 この「有無」については、そのブログによると「有無の見」
 もしくは、「有無の邪見」と言うそうです。
 この場合の"見"は、「見解」の意。

 ・ もし仮に、棒磁石を用意し、それを二つに折ります。
 折れた二個の磁石は、それぞれSはSだけ、NはNだけ、という具合には
なりません。 それぞれの磁石の両側にSとNに分かれます。

 また、紙1枚を用意し、大きさは、そのままに、1枚を2枚にしようと
思えば、僅か零コンマ何ミリの紙の幅を二つに切らなければなりません。 元の1枚の"「表」を取ろう"とし、紙を二つに切れば、紙は「二枚」なります。
 が、2枚の紙には、それぞれは、
 "「表と裏」がすでに「存在」しています。"

仮に、磁石の一方の「S」を「取ろう」としても、これは実現不可能なこと。
「有無」から、この「有」を「取ろう」とすれば、必ず「無」が付いてくる。  「無理」。

 この「有無」の論理は、「不合理な道理」を一言で言い表したことば。 これは、「不合理な論理」の「矛盾」を示唆したものでも
あるといえます。

  「表と裏」は、「表裏一体」の関係。
 "表"というプラスのエネルギーと"裏"というマイナスの同一の
 エネルギーが「相殺」すれば、エネルギーは、「ゼロ」になる。
 即ち、「何もない(空)」。
 
・「主観」と「客観」もまた、「表裏一体」の関係。
 これは、「二元論」。

 ・"有"の意識は、つまり「意識」。"無"の意識は、つまり
 「無意識」。 
 「煩悩(+,-)、即菩提」もまた、表裏一体の関係の裏づけ。

  茂木先生は、忙しそう。 とにかく、無理せず頑張ってください。
 と、言い続けたい。

投稿: wisdom-man | 2007/06/21 16:09:08

明日から、茂木様そして皆様、アメリカで学会なのですね。
どうか、充実した素晴らしい時間となりますように・・・。

大学の研究室秘書をしていたとき、受付も兼ねて、
ドアの前の席に座っていました。がちゃりと扉が開く度、
日本の人だったり外国から来た人だったり。英語が
そんな出来なくて、耳で分からないときは紙を渡して、
文字や絵とか書いてもらって用事を聞いてました。
エジプトの留学生が帰国する前、私に、とても丁寧に
独特の英語で、ユー オルウェイズ エンカレジ ミー
(励ましてくれた)と言ってくれたのを憶えています。

投稿: F | 2007/06/21 15:02:16

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