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2007/06/12

複数のものを思い切り信じろ

Lecture Records

茂木健一郎

東京芸術大学美術解剖学講義

『複数のものを思い切り信じろ』

2007年6月11日

東京芸術大学上野キャンパス

音声ファイル(MP3, 69.2 MB, 75分)

6月 12, 2007 at 07:41 午前 |

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コメント

 まだココかと思うかもしれませんが、まだココです。
 私もすべてはマヤカシだなと思ったことがあります。陥りやすいロジックだと思いました。

 数年前に、内戦の難民キャンプに偶然行って、人間の残虐行為を思い知らされたことがあります。あまりに酷て、惨くて、人を人と思わない行為や現状に、「人権とはファンタジーだったんだ」と、打ちのめされました。色々なことが信じられなくなりました。全てマヤカシに見えまた。

 帰国してこの話をすると、「人権がファンタジーだと今ごろ気づいたのか」とバカにされました。
 逆に、「おう、辛かったの」と慰めてくれる人達もいました。この包容力の差は何なのだろうかと思いました。

 その後、1年、2年経ち、「やっぱり人権ってあるよなあ。」と思う様になりました。当たり前のようにあるものではありませんが、「もしかしてこれは人類の素晴らしい発明なのではないのだろうか」と思う様になったのです。以来私は、こういった共通認識によって成り立つ言葉を「高次元の言葉」と勝手に呼ぶようになりました。

 学生時代に、英語教師から恐ろしい話を聞いたことがあります。
 インドで黒人の人権フォーラムに参加したときに、開催されるビルの向かいの通りは、インドの貧民層によって埋め尽くされていたそうです。そこで、黒人差別問題を語るインドの高名な学者に対して、「あなたは、他国の問題より前に、あなたの国の酷い現状に目を向けたらいかがですか?」と皮肉で言ったのだそうです。すると、インド人学者は怒って、「私は人間について話をしている!」と答えたのだそうです。

 この話を聞いたときに、ゾっとしました。このインド人学者は「人権」を理解していないと思いました。少なくとも、私達の知っている「人権」とは確実にブレています。

 先ず、我々は「人権」を理解できます。それがスゴイことだと思いました。恐ろしいことに、わからない人だっているのです。そして、それは高名な知識人にもあり得ることなのです。これが本当の認識の違いなんだと思いました。

 だから、今回の「そんなものは無い」や「イリュージョンだ」の議論は、先ず理解できている人達が集まって、共通認識を確認した上で、話題の中心において、色々な窓から覗きみているので、「ある」だの「ない」だの「こういうものだ」云々を口にしている時点で「とりあえず、同じモノを見てるじゃん。」という感じがします。それを互いで、「正しい」、「正しくない」と叫びあうのは結構オモシロの図です。「確実に互いに同じモノを見ているのに、ソレが無いという解釈は既に矛盾では?」と思うのです。でもわかっている時点で安心で、その程度の矛盾くらい、神様もどうでもいいやとほっぽらかしてくれてると思います。

 同じ解釈は「何故人間を殺してはいけないか」の養老先生の問いにもいえると思うのです。「人を殺してはならない」は人類が「発明した」大切な「言葉の意味」なんだと思うのです。「殺す人」は言葉の意味そのものがわかっていないと思うのです。

 でも意味がわかっている人達が集まって、ああだ、こうだ、どうやって全員に理解させるか云々かという議論をするのは、意味が無いと思うのです。全員に理解できるロジックが必要なのではなくて、理解できない人には、その人特有の対応が必要なのだろうと、私は思うのです。 

 というわけで、現実に、「クオリアなんて無い!」って言われたら、「そっか、君にはクオリアが感じられないんだね」で、「青なんて無い!」って言われたら、「そっかー、君には青が感じられないんだね。」で済むと思うのです。
「○○はイリュージョン」の論法が成り立つのならば、「そっかー、君には○○が無いんだね」の論法も成り立つのであって。

 対談を放棄した相手には、同じく放棄してよいのだと思います。先生は音楽の切れ目に別の表現の可能性を見出したわけであって、でもそれを認めない人は、「あなたはそこに、それを見出さないのですね。」でよいと思うのです。
 相手を打ちのめすことが目的の否定の連続ならば、同じく別の論法で打ちのめしてよいのだと思います。「美が無いなら、君は詩やラブレターが作れないんだね。」とか「詩が無いなら、君はケツメイシや椎名林檎の詩も認めないんだね。」とか、相手が世間代表でワカッテル風を装うには、困ってしまうロジックで責めてしまえばいいんだと思います。

 でもお仕事なんだから、仕方無いですよね。そんなことできませんね。無礼に無礼では返せませんよね。
 というわけで、企画の時点でセンスが無いんだと思います。ヘンなことに巻き込まれちゃいましたね。

 逆に白神山地の企画をした人は偉いですね。これなら、先生は忙しくても受けるに違いないと踏んだのかしらん。白神山地での経験もさることながら、その企画の受注の攻防を想像して勝手に楽しんでいました。忙しくても、イイお仕事を沢山しているなあと思います。羨ましいなあと思います。更に質の高いお仕事企画が増えるといいですね。
 
 相変わらず長くなりました。とかいいながら、纏める作業は放棄気味です。短文で説明できるほど賢くないので許してください。
 ではでは京都のお仕事と食を楽しんでください。

投稿: pomutyokin | 2007/06/20 21:19:43

音声ファイルをまだ途中までしか聴いていません。
この時点での感想ですが、
「複数のものを思いっきり信じる。」というのは、一見簡単そうに見えて、問題ありの言葉だと思います。
「複数のものに同時に信じる。」ということは人間は可能なのでしょうか。
また、「将来は別の何かを信じているかもしれないけど、現在はこの何かを信じている。」ということは本当にその対象を信じていることになるのでしょうか。

投稿: naritoku | 2007/06/20 20:29:30

最後の方で発言されていた学生さんの「飽和状態になって、私たちに話すことによって整理しようとしている。茂木さんがつらそう」という感想。私もまったく同じことを考えながら、この音声ファイルを聴かせていただいていました。
茂木さん、決してそれを恥だと思わず、このような心根の優しい学生さんの感想を素直に聞くのも得策だと思いますよ。こういう感想をみんなの前で言うことはとても勇気のいることなのですから。
何故、つらそうなのか。茂木さんは斎藤環さんの書簡も信じてみようと試みている。但し、それを許してしまうと茂木さんの最初の返信が弱いものになってしまう。その書き方にとても苦心しているのではないでしょうか。あの発言をした学生さん同様に茂木さんも優しい方なのです(これ、茂木さんにとっては褒め言葉ではないでしょうが)。しかし、苦心すればするほど光も見えてきているような期待もあります。

投稿: ダンテス | 2007/06/19 23:29:34

 わかってくれる人と、わからない人の差について、よく友達や同僚と話をします。話し尽きないテーマでもあります。

 わからない人には、気づいてほしいことを一生懸命話したところで、「でもさあ」という返事しか返ってこないものです。はなから相手を理解しようとしていないことと、自分が何かに気づいていないことにすら気づいていないのだから、無理もないのだと思います。
 たとえば愛を経験したことの無い人は、そんなものは無いといいます。失敗した人はマヤカシだといいます。そういう人を説得するのは、彼らの人生否定になってしまうこともありえます。
 でも、大切なことは納得させることではないと思うのです。逆に、無いというのならば、愛という素晴らしいものがあると信じて探してごらん、そしたら見つかるよ、驚くよと、伝えることだと思います。信じるか信じないかは本人の自由なのだと思います。

 たぶん、攻撃的な反論をしてくる人は、自分に色々と自信が無いのではないかと思うのです。もしくは、自分を過信しているけれど、周りの評価が低いと感じている人。
 へえそういう見方もあるのか、と、受け止められないのです。たおやかではなくて、自分の意見以外を聞くと、まるで自己否定されたような気になってしまって、拒絶反応をしてしまう。まるで窓はたったひとつであるかのような。それ以外は愚かであるかのような。
 ポストモダニズムでもいいですが、何故ポストモダニズムであるために、他を否定しないと気がすまないのでしょうか。変な話。

 女性は「何故怒っているか」を言葉で説明しません。言うと相手が経験内で理解しようとして反論しようとするからです。でも黙っていたら、何故怒ったのか、ちゃんと自分で気づこうとしてくれて、今後気づかってもらえるようになるからです。
 必要なのは、それが正しいか正しくないかではなくて、不愉快なことや、失礼ではないかということに気づいてほしいからです。正しくても不愉快を我慢してもらうか、それとも気をつかうか、もしくは他の道を模索するかはもちろん自由です。必要なのは気づくことですから。でも議論をしてしまうと、正しいか正しくないかだけの問題になってしまいがちです。はなっから、気づくことや、理解する姿勢が欠落してしまうことが多いのです。だから女性はわざとああいう怒り方をするんだろうと思います。
 より俯瞰的な見方で、色々な要素が互いが矛盾であるとしても、同時に受け入れて味わえる精神的な包容力の成長を望んでいるのだと思います。複数のものを同時に信じるとは、いわばそれのことだよなあと思いました。精神的に豊かな人は当たり前のようにそれを当然の如く。

 先生みたいに言葉で具体的に表現する能力のある人は、思わず説明してしまいます。でも、基本的な聞く姿勢に気づいていない人は世の中には残念なほどいます。そんな彼らに反撃のチャンスを与えて、つまらない自己意識を満足させる必要はないと思います。シニシズムは、批判する対象がなければアイデンティティーが成立しないという空虚な弱点があると思います。
 普通の人は、そういう人と話す羽目になってしまったら、メンドクサとやめるか、適当に流すか、無視します。それが一番てっとりばやいし、無視をすることで、彼らが健全な思考性に向かうチャンスをあたえることにもなるからです。

 でも、先生はもともと、そういった人の為に話すのではないのだから、色々と仕方ないのだと思います。

 だから、先生には、あんまりそういった人たちに捕らわれないでほしいと思います。メンドクセ。ま、いっか。と、のらりくらりと荒波をかわしてくれたらなと思います。博愛主義はどうぞ生徒やちゃんとした人達へ向きますように。

 それにしても上野はいい公園ですね。あそこで飲むのは気持ち良いと思います。自然はスゴイですよね。色々なものを浄化してくれるから、色々な気持ちも安心して自然に預けられるのだと思います。メンドクサな人達にいたたまれなくなったら、先生の好きな自然や景色を思い出して、心の中に怒りの毒を吸い取ってもらったらいいですね。流石にもう2度と勤務中のコアタイムに抜け出す冒険はできませんが、一瞬でも芸術の最高学府の教室の空気を味わえて楽しかったです。聴講生の方達が少々幅や主張を利かせすぎているようにも見えましたが、けだるそうだったり、一生懸命聞いていたりとする、生徒さん達の様子が素直で、ういういしくて、何の作為的でもなく、懐かしくてよかったです。彼らが日本のこれからの芸術世界を楽しく彩ってくれたらなと、期待しています。

投稿: ぽりんきー | 2007/06/19 18:04:19

高橋悠治さんはおそらく非常に深い議論をするだけのインテリジェンスが足りないんではないか?

非常に高い知性がなくとも、創造的な成果を残すことはできることが、2005年12月の対談のギクシャクした感じを生んだのだと思う。

高橋さんの中ではある信念のようなものがあって、それを絶対に守らねばならない思いが、茂木さんの議論を寄せ付けなかったのではないのかなと思います。

投稿: なおき | 2007/06/14 18:08:11

今朝、音声ファイルを聴かせて頂きました。感謝致します。
なんだか確かに、茂木先生はこの日、
いつもの先生と少し違うような感じがしました。
心が引き裂かれているような・・。
また今日は、江村さんのことで、大変なショックを受けていらっしやるかと思います・・。

私はずっと変わらず、茂木先生のファンであり、
先生から学んでいます。スローテンポですが。
茂木先生の日々の躍動の中で、色々な方との出会いから編み込まれる
知の網のようなものが、無知な私の脳を活性化させてくれます。

クオリアという概念を私は共感出来ます。あまり難しいことは判りませんが、その質感には不思議があって「私であること」と深く関わっているように思えます。

それから、二つのもの。二つの相反するものの狭間で人は誰しも葛藤し、
二つの肯定。二つの否定から、二つの引き合いから、
人は自己矛盾を感じ、自己矛盾から芸術が生まれ、自己矛盾があることこそが人間の証しであるのではないかと感じます。

人間は自己矛盾の中で、無理矢理どちらかを選択し、選択しなかったもう一つの方にも、敬意を払うことが出来るのではないですか?

投稿: tachimoto | 2007/06/14 0:46:59

ちょっと的外れなコメントですが、過去の茂木先生の発言についてコメントしたいと思います。

「光あれ」で光が生まれるのならば、ある感情を抱くことと、ある感情を抱いていることを言葉にすることの間には幾千の隔たりがあるというべきだと思います。
私はこの点で茂木先生の説に反対です。

投稿: naritoku | 2007/06/13 0:21:06

いま、音声ファイルを聞かせていただきました。
うまく言えないかもしれないけど、私は、
なにか伝えたかったのに、伝えられなくて、
だんだん焦ってきて、自分に腹を立てて、
ただ、言葉が浮かんできて、それをつなげて、
放り投げるように送付してしまいました。
だから、ずれた意味になっていたと思います。
いつも、そうなのですが、とくに、この頃。
茂木様のお話を、ぼんやりした頭で聞いて、
<なんて私は、ばかなんだろう>と、
ひたすらに、そんなことばかり思いました。

投稿: | 2007/06/13 0:00:03

こんにちわ、ご講義をいつも配信させていただきありがとうございます。

今回気になったのは、茂木さんの「クオリア」を「イリュージョン」と言われた、と、聞きいて、酷い事を言う人だと思いましたが、引田天劫の「イリュージョン」だと思い、納得しました。

そう考えるうちに、宇宙はまさにイリュージョンだと思いました。

引田天劫の、イリュージョンを見るとき、誰もが、どうやったんだろう、と、見ています。魔法や超能力を使ったわけではなく、物理的にどうやったのだろうと、誰もが見ています。

引田天劫のイリュージョンの種明かしをテレビでよくします。つまり、種が明けたとき、イリュージョンがイリュージョンでなくなることになります。

つまり、ニュートンが、りんごが地面に落ちることを、「質量と質量は引き合う」、と言うことで、りんごが地面に落ちるイリュージョンがイリュージョンで無くなったということだと思います。今でも、質量と質量がなぜ重力で引き合うのかは、まだイリュージョンみたいですけど。

つまり、りんごの赤が赤色に見えるのは、現代の科学では、まだイリュージョンだと言うことだと思います。

また、テレビの仕組みを知らずに、安心して見れるのは、テレビがイリュージョンだから自覚しているからではないかと思います。


個人的に思ったのは、複数の事を信じると言うのは、哲学のテーゼとアンチテーゼ、正反合のことでしょうか?

茂木さんの講義は、私にとって、新しい切り口が感じられ、いつも参考にしております。これからもよろしくお願いします。

投稿: tain | 2007/06/12 18:00:09

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