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2007/06/06

あのバッターはボクにとって

聖心女子大学の授業を終え、
ソニー本社へ。

ソニーコンピュータサイエンス研究所の
Open House 2007。
ほぼ二年に一回、研究内容についての
シンポジウムを行い、
その後研究所を公開して研究内容に
ついてプレゼンテーションをする。

フランク・ニールセンさん、
暦本純一さん、
北野宏明さん、
高安秀樹さん、
そして私の順番に話した。
所長の所眞理雄さんが
パネル・ディスカッションの時に
乱入してきた。

他人の話をただ聞いているという
だけだど、脳への負荷が
低いので、ノートにいっぱい書き付けた。

聴いている講演内容に関係のあることも、
関係のないこともある。

ノートにいっぱい書き付けるのは好きだ。
ノートブック・コンピュータの
キーボードとい入力装置は、普段は
習慣として使っているが、
一度「手描き」の自由さに目覚めて
しまうと、
わあ、今まで何をしていたのだろうと
思う。

しかし、手描きにはいかんせん
検索性や、複製性、送信性などが
ない。

現代のネットワーク志向の社会では、
どうしても手描きは分が悪くなる。

しかし、世間で常識、自明と
考えられていることのすぐ横に、
いかに困難な問題が潜んでいることだろう。

regularとrandomという問題も同じである。
この峻別は、客観的に決まることではなく、
文脈に依存することである。
その文脈を含めたダイナミクスをいかに
書き下すかが様々な問題に関連する。

しかし、それはそう簡単にshort statementで
言い尽くせることではない。

あるバッターが、代打の一打席に向かって、
いろいろ準備をする。
素振りをしたり、鏡の前でフォームを
チェックしたり、
「その時」に向かって次第に
自分を高めていく。

本当にそんな場面を見たのだと
思っていたら、目覚めてしばらく
経つと、やっぱり夢だったらしい。

ユニフォームの色も、バットを
持った肉体の存在感も、
「この一打席」に向かって自分を
高めていくその気迫も、
手に取るように感じられて、
ボクはそのバッターに本当に出会った
ような気がしていた。

ネットワーク志向の話ではないが、
あのバッターはボクにとって何だったのか、
河合隼雄さんによると夢は盲点を
表しているそうだが、
どんな思いもかけぬことを徴表しているのか、
何だかソーダ水のような後味がする。

6月 6, 2007 at 07:42 午前 |

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 最近は、メモ書きは電話を受けた時にとることが多く、ほとんど走り書きです。 しか [続きを読む]

受信: 2007/06/06 23:17:59

コメント

茂木健一郎先生、こんばんわ。
お元気ですか。
手書きのお話、ありがとうございました。追うように眺めておりました。
そのくらい楽しかったからです。
最近、手書きを見るのは、TVのブラウン管の中だけなので書く人が実際こういう話しをしてくれるのはとても貴重に思えました。
野球は得意ではないけれども最近、ちょうちん行列を見に行きました。
今日は、
2006年度の、雑誌「現代思想」10月号に茂木健一郎先生の手書きが載っている気がしました。嬉しかったです。
そこに、ニューロン細胞(水晶みたいな)の話が既定となって、意識と、感情でしたっけ、が脳科学には関わっていて、というような事とあわせて、規則性とランダム性の二項対立のことが書かれていました。
タイトルは、脳科学における統計???の描線とかいうような本のようなものでした。
そこで、先生のおっしゃるマリが、人体をおおう幕であるという感想を持ちました。丸い幕が、砂時計を包み、時間が、すうっと、ニューロンみたいに過ぎていくように見えました。
古い話で申し訳ありませんが、あまり本を読まない僕はよく解らないけど、面白そうだと感じました。
regularとrandom、世界がくるっとひっくり返ったみたいな感じにほおっとしてしまいました。
きっと、四角形と、水と、丸形が、鏡になって、日が射すように、屈折して、降って来るんだと思いました。
生きてたら、いいことあるかな


茂木の健一郎先生へ


投稿: | 2007/06/07 22:19:02

もっともっとパソコンが、ファジーに反応してくれたらいいのにな。

机上でノートをとる感覚が、そのままパソコン上で再現できれば嬉しいのに。
今まで人間がやり続けてきたことと、パソコンの操作性がかけ離れているから、
もっと世の中に浸透するような爆発的なヒットを生み出さないんじゃないのかしら。

あれこれめんどくさいクリックをしなくとも、
思ったところにすぐ文字が打てる。思ったところに線が引ける。
思ったところにすぐ重ね書きが出来て、あわてて手書きの
メモもできる。
しかもいたずら書きまで出来るんだったら、なお最高なんだけど♪

結局、私が欲している技術っていうのは、手書き&パソコン処理の
美味しいトコだけがうまく融合したもんがあればいいってことなのかも。

そういうもんって、もうある? 私が知らないだけなのかな。

投稿: ひみつのあこ | 2007/06/07 10:02:30

regularにrandomはあり、randomにregularは潜む。たしかに、文脈に依存している。
例えば、乱数をパソコンで発生させる。その中には必ず回文が発生する。
アミノ酸配列はrandomらしい。しかし、例えば生物は回文的なアミノ酸配列を特別な機能として用いているらしい。生物はrandomの中の「regular」を利用している。→私の前々からの道楽テーマの一つです。

投稿: | 2007/06/07 0:04:55

その夢は、斎藤環さんとのこれからの往復書簡に対するエネルギーを表しているのでしょうか。
でも、これでは短絡的で盲点ではないですね・・・
「往復書簡」読者として楽しみにしております。

投稿: | 2007/06/06 23:51:30

茂木さんが御覧になった、バッターの夢のように、実在感のあふれる夢って、時々見るのですよ…。

ある時、見知らぬ誰か(同性です、念の為)となぜか友好的にハグする夢を見ていた。ハグしたとき、その誰かの身体の感触や、存在感、息遣いなどがまるで手に取るように感じられた。

私達は二人でいっしょに何かを喜んでいたと思ったら、意識が混濁してきて、目の前が白くなったと思ったら、夢だった、というように…。


あの「見知らぬ誰か」は私にとって、いったい何だったのか…。どんな思いもかけぬことを示しているのだろうか…。

その夢を見た夜から、だいぶの年月が経ったが、それがなにを徴表していたのか、未だに判らないままだ。


手書きはたしかに、ネットワーク時代には効率が悪いけれど、脳への程よい負荷にはなるし、何よりもPCでこうして文字を打っている時よりも、文字が確実に覚えられるのだ。

かつて小学校時代に漢字の書き取りテストのために、ノートにびっしりと漢字を書いて、そうやって覚えた記憶がある。

そのようにして覚えた漢字は、大人になっても忘れないし、若し一瞬忘れたとしても必ず思い出すものだ。

Macの愛用者であられる茂木さんが、時折“ノートに手書き”を実践されていることは、実はネットワーク漬けになり過ぎない為にも、アナログの感覚を肉体に残しておくという意味で、案外好いことなのに違いない。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/06/06 22:07:39

手書きとパソコン 自分は手書き 
なぜなら手書きだと画像で記憶に残りやすいから
茂木さんだとこの問題を脳神経から説いてくださるのでしょうけど

手書きの文とパソコンの文は自分は一致といいたいけど
厳密にいえばユーモアがパソコンの文からは消える

首の角度のせいだろうか
正面向きはフォーマルとか...

投稿: | 2007/06/06 16:13:53

学生です.

人の話をきいているだけだと眠くなるので,
ノートを書くようにしてました.


「他人の話をただ聞いているという
だけだど、脳への負荷が
低いので、ノートにいっぱい書き付けた。」

とあるので,僕のしていることは,意味があったのか,と思いました.

投稿: | 2007/06/06 14:40:23

私は左利きなので、ノートをとるとき、
鉛筆で書いた文字を触っていく形になり、
学校では、いつも手が真っ黒になっていた。
「なんで、こんななってるん?」と、
ときおり、友達が不思議がって見ていた。
横書きの文字を、右から左に書いてもよい、
なら、良かったのにな、と思ってました。

投稿: | 2007/06/06 11:39:43

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