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2007/05/04

それより600年ばかり古いだけだよ

非成文憲法に依拠する
イギリス的精神に則って言えば、
constitutionを「憲法」と訳すのは
必ずしも適切ではない。

constitutionとは、「国の成り立ち」
のことであり、必ずしも具体的な条文とは
限らない。

国の成り立ちには、様々な暗黙知
に相当するものも含まれる。
その全てを、条文で書くことが
できるわけではないし、書くことが
できると思いこむことが望ましい
わけでもない。

イギリスでは、「首相」を
誰にするかということについて
明文規定があるわけではない。
その時々の議会に説明責任
を果たすことができる人が
選択される。
多くの場合、それは議会における
第一党の党首であろうが、
必ずしもそうであるわけではない。

そもそも、首相
(prime minister)という職位自体が、
慣例(convention)に過ぎない。
様々なミニスターの中で、首相に
当たる人が存在するという
習慣が、徐々に積み上げられてきて
今のような形になった。

一方、
独立戦争に勝つという一種の
「革命」を経て、自分たちの
立場をはっきりと示すことが
必要だったアメリカ合衆国憲法は
成文憲法であるし、
やはり一つの「革命」であった
明治維新を経てできた大日本帝国憲法、
現行の日本国憲法も言うまでもなく
成文憲法である。

成文憲法には固有の利点もあるが、
イギリス流の徹底した非成文憲法の
精神にも学ぶべき点が多いと思う。

イギリスでも、条文が参照されない
わけではなく、たとえば1215年制定の
「マグナ・カルタ」は現在でも有効な
イギリス憲法(国の成り立ち)の法源の
一つとされる。

それを言うならば、日本には
604年制定の聖徳太子の「十七条憲法」
がある。

イギリス流の非成文憲法の精神に則る
ならば、この十七条憲法は未だ有効な
法源であると見なすこともできる。

英訳
参照してみればわかるように、
現在読んでも国際的に通用する、大変立派な
思想を含んでいる。

第一条の有名な

和(やわら)ぐを以て貴(たっと)しとし
Harmony is to be valued

はもちろんのことであるが、

第十条の

人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。
Nor let us be resentful when others differ from us. For all men have hearts, and each heart has its own leanings. Their right is our wrong, and our right is their wrong. We are not unquestionably sages, nor are they unquestionably fools.

などは、現代の為政者にとっても耳に痛い
ところであろう。

私は、少数意見として、十七条憲法
は現代の日本においても有効な法源で
あるという立場を取る。

イギリス人に、「君の国の憲法の
最古の法源は、マグナ・カルタなんだって
ね。日本? いやあ、それより
600年ばかり古いだけだよ。」
などと言ってみたい。

非成文憲法の精神においては、
最終的に大事になるのは
個々の条文よりも、
これから国をどのようにして行きたいのか
というプリンシプルである。

条文にこだわると、かえって
プリンシプルが見えなくなることもある
だろう。

上に引用した
十七条憲法の第十条などは、現代において、
大いに参照すべきプリンシプルであるように
思われる。

5月 4, 2007 at 09:28 午前 |

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非成文憲法に依拠する イギリス的精神に則って言えば、 constitutionを「憲法」と訳すのは 必ずしも適切ではない。 constitutionとは、「国の成り立ち」 のことであり、必ずしも具体的な条文とは 限らない。 ・・・・・・ (茂木健一郎さんのブログ記事 より引用) こ... [続きを読む]

受信: 2007/05/11 0:22:37

コメント

聖徳太子絡みで言えば、茂木先生におかれましては是非冠位十二階で用いられた冠のクオリアについてコメントしていただければと考えています。
カラースペクトラム、当時入手可能だった色素・布地、陰陽五行思想な
どさまざまな諸条件下であの順位になったのでしょうが、どういう解釈
が可能なのでしょうね。
梅原猛先生との対談など実現不可能なのでしょうか・・・。

投稿: naritoku | 2007/05/07 16:32:38

久しぶりに五時前に寝むります。
10条はとても仏教っぽいですね。

ここ数日は瞑想ゴッコしていました。
思考を止めても止めても煩悩人生、
ふっと物思いに入ってしまいますが、
これがなかなか分散的で興味深いものです。

十代の頃に感じて、言葉にできないまま
過ぎてしまったものが降って沸き、
懐かしい感覚になりました。

昔から「聖人」という評価を得ようとするのは
社会的欲望な気がしていました。

自然に考えたままより良く行動した結果が
本来の「聖人」の有りようではないのかなあと
思っていました。
よくそれでクリスチャンの子と喧嘩したものです。

それとは裏腹に、私には「聖人」願望が強くありました。

でもここ数年、それは慢心だなと思うようになりました。

10代でも20代でも30代でも
その瞬間を基準に、間違いだ、あってるだと
行動を責めたり節制したりするにはまだまだ早い。
幾つになっても十歳年上から見たらまだまだ。

間違えてもいいからまずは色々気づいてゆくことが
私の人生なんだろうなと思っています。
間違えないことが目的じゃないし
間違えないなんて無理だと思います。
そう思うようになってからは、
人の間違いも攻めずに見守れるようになりました。

他者への怒りは負の自己投影とは
よくいったものだなあと思います。

ただ、いくら間違えるのは仕方ないとしても
嫌がられることだけはしたくないなあと
思っています。

間違いが何かはわからないけれど
嫌がられていることをやめることはできる。

望まれることが何かはわからないけれど、
喜ばれていることなら続けられる。

でも実践は難しいですねw
事実嫌がられていることと
喜ばれていることの区別が付かずに
身動きできなくなりました。

ところで中沢先生がNHKに出ていましたよ。
講演会のときの魔法を思い出しました。
懐かしw

投稿: natumikan | 2007/05/06 4:46:51

憲法記念日の新聞各社の論説や、最近の特集などの中で、私にとって最もユニークであったのは、佐藤優さんの朝日に載った意見でした。

骨子は以下のようなものでした。
<人を超えた絶対的価値が人には必要で、日本ではそれは天皇である。もし9条を下手に変えると、戦争に負けた場合は天皇を永久に失うことになる。よって改憲は不要である>。

投稿: fructose | 2007/05/05 0:07:42

こんにちは

たまたまですが、あるコミュニティーを主宰している人がブログでこんな事を書いてました。

「とにかく、言える事は、規約という環境整備の原点がなければ、物事はスタートしない。
規約がなければ、いかなる問題にも対処していけないのだ。」

ルールを作る事は大事な事だし、
社会や状況に合わせて変化させないといけないのは、
自分もルール作りに参加した事からよく理解してるんです。

だけども本当は目的がしっかりしてれば、
個々人がそれに向かって進んでいる限りルールなんてないほうがいい。

10条は規則を作るに当たっての根本におくべきものなんじゃないかと思います。
あるいは「自由」ってものの定義にも読めてきます。

投稿: hayashi | 2007/05/04 22:58:59

今日の午後は古いβビデオを取り出して船方総合農場の坂本さんの講演を聞きなおした。日本農業の水田を守り続けた伝統の話からこのブログの話を思い出した。夕方には駒場講義MP3を聞きなおして、先週からの形にならないイメージに向かい合った。身体性からシナジェティクスを思い返した。記憶の構造はリニアでないことは確かだが、空間的な構造で記述できるのか?記憶と時間の関連・・・

投稿: 福地博行 | 2007/05/04 21:44:39

十七条憲法の十条の内容を始めて知りました。
学校の道徳の時間に教えてもらいたいないようですね。
「自分の考えは絶対正しい」と思ってしまいがちですし、
そういう人も少なくないでしょう。
自分の考えを相対的に捉えることは大切です。
一方それだと自分に対する自信が弱くなりそうです。
まあ、強すぎるよりは、ましですけどね。

投稿: ザビィ | 2007/05/04 10:49:58

ニュースなんぞを見ていると、如何も条文にコダワルあまり、これからこの国家を如何していきたいのか、というプリンシプルを置いてけぼりにしている、と今回の改憲vs護憲論議を見て思う。

改憲派と護憲派、いずれも精神よりも条文に拘泥しているにすぎない。

どうせ憲法を改正するんだったら、聖徳太子が制定した「十七条の憲法」の精神を重要なプリンシプルとして、新たに“埋めこむ”という発想が出て来てもいいと思うのだが…。

なにせ、いまの改憲論議は、やれ「憲法第9条」の解釈が如何の、条文の一部が「国連憲章」に合わないから変えなきゃいかんの、集団的自衛権を行使しなきゃ日本は普通の国になれないから憲法を変えるべきだのと、どうも、「十七条の憲法」のことにはだーれも触れていないらしいのである。矢鱈滅多のべつに条文にこだわりまくっているとしか思えない。

如何やら議論している連中は、聖徳太子の残したこの憲政の古典からは何も学んでいないらしい。

せめて十七条憲法の第十条の「人の違うことを怒らざれ・・・」とか、「和らぐを以って貴しとし」といった文章にこめられた精神を、憲法改正を論ずるならば一遍は学ぶべきではないか。

若し新しい平和憲法を制定するならば、十七条の憲法の精神は、今の世でも十分通用する、否!今だからこそ、通用させなくてはならないのではないか。

十七条の憲法には仏教の「慈悲」の精神が垣間見得る。この「慈悲」こそ、現代日本に改めて通用させたい法源の根本精神だ。

そうであるなら、改憲vs護憲で条文が如何のこうの、と騒ぐより、まずは両派とも頭脳を冷やして、飛鳥時代のこのすばらしい法源にふれ、その精神を真剣に学んでから論議をしても遅くはない筈だ。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/05/04 10:43:25

憲法のある「国」と、いま生きている「くに」とは、
違うものだ、と、ずっと前に本で読んだのを思い出した。
国と、くにを、ごっちゃにしてはいけない、
もう一度、考え直さなければいけない。


投稿: F | 2007/05/04 10:36:21

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