ホーム・イリュージョン
理化学研究所の谷淳さんの
ホームパーティーにお招きいただいた。
毎度お馴染み池上高志、
岡ノ谷一夫さん、それに
若手が何人か。
指定された最寄り駅で降りて、
地図の方向に歩いていくと、次第に
ネオンがまばらになって、
沢山歩いていた人の数も減り、
やがて通りが暗くなった。
明るいものが次第に暗く、
まばらになっていくという経験は
郷愁をさそう。
自分という存在が、別の役割を
担って、家路についているような、
そんなゆらめきを覚える。
谷さんの家の
近くには小川が流れていて、
鴨がいるという。
暗闇の中をうかがっていると、
パタパタパタと羽音がして、
河端の手すりにちょこんととまった。
暗闇の中を、池上高志とふざけあいながら
しばらく歩いた。
何やら獣の匂いがする。
「ここは都内最後の牧場で、牛がいるんですよ」
と谷さん。
バーベキューで焼かれた
肉をほうばり、
床に座って、
身体性の話をした。
果たして、embodimentは要るのか、
それとも要らないのか。
自然のインテリジェンスが身体性を
背景にしていることは否定しがたい
事実である。
しかし、その本質を理論的に抽出する
ことは難しい。
たとえば、nonholonomic constraintが
介在すると、それだけで扱いが
格段に難しくなる。
むしろ、身体的な拘束から逃れて、
高密度で情報を集積、融合した方が
良いというのが時代の趨勢である。
身体性ならば、わざわざ人工的に
つくらなくても、我々が持っている。
何も好んでもう一度つくらなくても、
という考え方もあり得る。
もっとも、「ロマンティック・サイエンス」が
根絶やしになるわけではない。
意識の本質は圧縮、統合作用であり、
身体性を一度経由しなくても、
昨今の趨勢を延長していくことと
深くかかわる形で意識の問題に
向き合うことはできるだろう。
現代において陽の当たっている場所
から次第に遠ざかっていくと、
ネオンは消え、人通りも絶え、
やがて暗闇の中に自分ひとりになる。
それでも
そこが故郷であるように
感じるのは、
つまりはそれもホーム・イリュージョン
というものだろうか。
5月 3, 2007 at 09:12 午前 | Permalink
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» 皐月だより 新茶 トラックバック 須磨寺ものがたり
八十八夜は立春からかぞえて八十八日目、すなわち昨日5月2日にあたる。
“夏も近づく八十八夜”という歌が、聞こえてくる季節です。 [続きを読む]
受信: 2007/05/03 11:18:13
» 「魔笛」のアリアに聴こえる・・・ トラックバック なんでもあり! です 私の日記!!
急に日差しが強くなりました。
朝、窓を開けてシャッター雨戸を開けるとき
そこに残る、一晩閉じ込められた空気の熱気に
季節の移ろいを感じます。
*
今年はウグイスの当たり年とでもいいましょうか
毎朝、近所からウグイスの鳴き声が聞こえてきます。
近頃では随分と鳴き方も上手になってきました。
こんなにウグイスが近所に来ることはなかったから
今年はなんだかとても得した気分になります。
ホ・ホ・ホ・ホ ホ・ホ・ホ... [続きを読む]
受信: 2007/05/04 9:20:42
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コメント
クオリア日記に「身体性」がでてくると、いつも
?????となっています。
最近は、よく分からないまま、なぜか
ぽかんと空中に浮かぶ脳やコンピュータに語りかける
与謝野晶子をイメージしてしまうようになりました。
柔肌の 熱き血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君
「柔肌」の部分が「小鳥」であっても、「炎」であっても
何であっても構わない、この世に存在する様ざまなものに
置き換えて考えてしまうのです。。。
思いっきり文系の発想…いや、それ以前の問題!ですね(笑)。
投稿: まり | 2007/05/06 22:36:40
こんにちはー
ビバ!セレスターーー!!
開発末期あと3週です。
叱られたのもあるので解釈スイッチを完全オフって
完全仕事にトランスモードです。
それでも2日作業遅れです。
頑張らないと来週勉強できないですからねー。
いやー、まだ何も話したことないのにー。
なんのための3ヶ月やちゅうねんー
何か終わったんですかー
何を積極的に終わらせるんですかー
スイッチオフっているからよくわかりませんが、
オンすると怒り狂いそうっすー(笑
普通に日記を楽しんでいますよ。
バーベキューええのー
肉うまええのー
でもそこで身体論するなら
生物論の方がいいなー。
バーチャルには仕事でもうウンザリですん。
向かい合おう、触れ合おう、
それに近づく為に日夜研究するなら、
簡単にできるそれを今しましょう。
生き物であるのですから。
投稿: imomusi | 2007/05/05 14:16:54
最近のトラックバックで「クオリアでジョギング」が。
私もいつもこのパターンでジョギングしてます。
茂木さんとの対談でNo.1は佐藤雅彦さん。
ジョギングしながら笑ってしまいます。
またMP3お願いします。
投稿: bon | 2007/05/03 23:55:31
昨日は、普通の人々の大型GWに合わせた気分で、大型書店を3時間くらい、見るでもなく、買うでもなくで、うろうろしていた。
そのうち今の本のタイトルで目立つものが絞れてきた。本はツカミが大切なので出版社のタイトルにかける苦労が想像できた。
相変わらず多いのが『・・・・の人、・・・でない人』のパターン。直接訴えかけて、自分はどうかなと思わせてしまう。主題ごとに「・・・」を入れ替えれば、同じような本が多く作れる。うまいパターンと思う。
次は、『・・・力』。別に「力」がなくても題名が成立するのに、何にでも「力」を付けている。負け/勝ち組の風潮に乗った題名と思った。この本を読んで「力」つけないと負けますよ、と言っているようです。
そして『・・脳・・・』。「脳」と入っている題名がかなり多いのに改めて気付かされた。茂木さんの影響が強いと感じた。
タイトルに「脳」を入れると、何かしら科学的で分析的な思考で貫かれた本らしく感じるとの戦略だろうか。2、3冊立ち読みしたが、「脳」はほとんどこじつけで、笑えた。
どんな分野でも本物と偽物があるが、「脳」はある種ファンタジックな響きがあるので、本物と偽物の区別を曖昧にする効果を持つのだろう。
結局、竹内薫さんの『熱とはなんだろう』を買って帰り、読み始めたら、切り口が新鮮で面白く、一気に目を通した。但し、ホロ呑ミック状態で。
全体をざっと読んで、後でチェックしなおす気が出る本は名著です。
竹内+茂木の『脳のからくり』も面白かったが、竹内さんの本領は「脳」よりも、「熱」で発揮されていると思えた。
GW明けに出るという、江村+茂木の『音楽を「考える」』が楽しみです。
投稿: fructose | 2007/05/03 18:16:38
「ロマンチックサイエンス」
人は何故、空を飛べるようになったのでしょう
それは当時は無謀で愚かとまで思われていたであろう
大空への夢を、科学者や人々が
何の利益も無いと言うことを理解しながら
見続けたからなのではではないでしょうか
今や航空産業は完成され、商業的なものになっていますが
軍事の後押しがあったとしても
まず、無謀な、むしろ馬鹿げているとも言える
奇人が自分のためだけに空を飛ぼうと試行錯誤したからです
現代、無利益な研究は金銭的な面でも人員的な面でも苦労すると思います
人によっては無価値、無意味と決定づける人もいるでしょう
また、話は変わりますが
向学意欲の低下は現代の大きな問題だと思います
それを打破するのは結果論を求められる
社会に出て役に立つと言われている学問
(本来、諸学全般は社会の役に立つことはあっても邪魔になることはないとは思うのですが)
だけを学ばせようというシステマティックな学校教育を
それこそ「女遊びよりも楽しい学問」が
揺るがしてやることだと思います
効率や利益重視によって今の学校の教育システムが出来上がったのでしょうが
社会として雇う会社の考えは
学生は社会のことを知らないから一から教育するのが前提なのだとか
僕はこの事に疑問を感じます
社会に出て役に立つ筈の学問が社会では役に立たず
また、効率重視で学問の偏りがあるため
向学意欲は低下していっています
どうも今日は感情的な文章になってしまっているようです
世の中にはやりきれない出来事が沢山あります
現代の問題と戦っている学者さんに無理難題を押しつけるのは
恐縮なのですが
無価値と判断されるような
狂気じみているとすら言われるような
「ロマンティックサイエンス」を含める
ロマンの学問は
何も残さないとしても人間の生きる希望と思えてなりません
未来の知の大空を飛べる人々は
その時代では価値が見いだしにくい
フューチャリストなのだと思います
投稿: 後藤 裕 | 2007/05/03 17:36:33
北大のY準教授が大学を辞めて、ベンチャー企業を立ち上げた。彼の論文から推測すると、ある種のconstraintなサイバースペースを作ろうとしているようだ。ビレッジを作ろうというのか?オープンにして適度に制約のある空間を作るのはおもしろいが、難しいと思う。しかし成功を期待したい。
投稿: 福地博行 | 2007/05/03 15:45:13
せつないもの。走っていた電車の、線路の終わりのところ。
改札口を出て、思い起こせば、20年振り位に訪れた場所。
すっかり変わったところと、変わっていないところ。
帰りの電車に乗って、ビルの谷間に見える夕焼け。
いつもより長いような夕暮れどき。
気持ちだけは、とても若い人になっているとき。
投稿: F | 2007/05/03 12:08:34
“現代”の象徴のようなネオン街燈ギラギラの都心から1歩も2歩も抜け出すと、草いきれと牛と牧草の匂いのする場所、しかも夜になると真っ暗けになる。東京も郊外へ行くとこういうところがまだまだあるんですね。
ところで、星は見えたでしょうか? 都心に近いうちの地域では「光害」とやらで星はホトンド見えません。
昨日のエントリーにも「身体性」のお話があったが、「身体性」をマトモにとらえて真正面から考えようとすると、何故本質の理論的抽出が難しくなるとは。身体性というのはそれほど、キチンと扱うのが厄介な問題なのだな。
そういう厄介な「身体性の問題」をスルーして、高い密度で情報を集積・融合させていくほうがやりやすいというのが意識の問題を扱う時の「昨今の趨勢」というわけなのか。
…でもって、その「趨勢」に合わせて、意識の問題を正面から考えてみたほうがいいというわけか。う~ん…。
我々の脳はこれからの時代、もっと高密度で、様々なカラー(ここでは純粋なる「色」という意味ではなく「カテゴリー」をさす)の情報を収集し、集積し、それらの色々なカラーの情報の「クラスタ」を融合させて、新しいもの・ことを作り上げていかなければならないのだろう。
ネット社会の凄まじい進歩が、それを激しくバックアップしているような気がする。
しかし、そんな凄まじい進歩を遂げつつあるネット社会、つまり「陽の当たっている場所」のハズレには、まだまだ「暗闇」が広がっている。
その「暗闇」にこそ、我々が現代の光源に誤魔化されて置いていきがちな「郷愁」がある。ホームイリュージョンはそこからきているのだろう。
投稿: 銀鏡反応 | 2007/05/03 10:54:15