« プロフェッショナル 仕事の流儀 鈴木成一 | トップページ | 自己隠蔽文 »

2007/05/23

ボクは今のところ

朝一番で聖心女子大の
授業を終え、
 千駄木の武者小路千家へ。

 千宗屋さん、白洲信哉さんと
日本文化について話す。

 仕事をしながら羽田空港へ。

 鳥取市民会館にて、鎌田東二さんと
話す。

 今井書店 吉成店にて、私のサイン本が若干
販売される予定です。早い者勝ちです。
山本博崇さんに渡しました。

 かに吉という店で、とても美味しい
思いをしました。

 千さんのよく考え抜かれた
おもてなしの設いに
凄みを感じる。
 白洲信哉がそれを次から次へと
読み取っていくのが快感であった。

 どうも、白洲信哉と話すと、
池上高志と話しているように
妙な掛け合いになる。

 それが、端から見ていると面白い
のであろう。

 茶は器だという。
 なるほど、
 一つのものに寄り添っていれば、
それが次第に育ってくる。
 問題は、何に寄り添うか、それを
決めること。

 鎌田さんは、新月の夜、
懐中電灯も持たずに山の中を
歩くのだという。

 ボクは山に泊まった時など、
くらい森の入り口まで行って、
怖ろしいものの気配を感じて
それで帰ってくるが、
 鎌田さんは中に入っていく。

 四国で育って、親から
逃げるために夜の森に潜んだ
幼少期からのなにかがある。
 駆け落ちは佐渡から隠岐へ
向かったのだと言われて
快笑した。

 鎌田さんは、異界との交流の
術を知っている。
 ボクは今のところ文明の中に
いて異界をのぞき込んでいる。

5月 23, 2007 at 07:50 午前 |

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ボクは今のところ:

» 隠れ蓑にならないように・・・ トラックバック なんでもあり! です 私の日記!! 
前述の記事で 「社会が決めるという意味を・・」 を書きました。 しかしながら、「 社会が“自らを決める”」とするとそこには、非常に危ういものも同時に秘めるのです。 この危うさを見逃してはいけない… つまり、「社会が決めてくれるから」と、自らの努力を怠る可能性や、恐ろしく他者に依存的になったり、その結果として、不平・不満の全てを社会に言及する可能性が大きくなるのです。 その逆に、実際以上の自信過剰というケースもあるでしょう * 「社会」があって規定されるのであれば「社会」というシステムの合理性は問われ... [続きを読む]

受信: 2007/05/23 19:59:58

» もうひとつ続けてしまいましょう・・・ トラックバック なんでもあり! です 私の日記!! 
(前記事の続き) ここにきて、再び土居健郎さんの「甘えの構造」の登場です。「甘える」は、日本人に特徴的なものと氏は述べています。 「甘えの構造」の中では、「すねる、ひがむ」や「依存的」も「甘え」の一種であるとしています。 「社会が決定する」「規定する」というのも確かに事実そういうこともあるのだけれど、そこに安住し過ぎたり、他力本願が過ぎると「甘え」であると言えるでしょう。感謝や他者を思いやる気持ちを持ちつつ、個人の努力も大切だと思うのです。 振り返ってみると... [続きを読む]

受信: 2007/05/23 20:39:03

コメント

ひとつのものに 寄り添って入れば それが次第に育ってくる と。「何に寄り添うか?」それが「かなめ」なのでしょうね。寄生せず 対峙してゆくもの 寄り添うこと。自分の「分」をわきまえて確かな身体感覚で掴んでいく物なのでしょうか?
茶は器?・・・。お人も器なのでしょうね
いいお道具を持てない貧乏なお茶好きは 百貨店の食器売り場で買ってきてたしなむしかなく・・。茶碗六相 「侘び 寂 品 量 力 浄」一相が満ちていれば、五相はおのずからあるように思える。茶碗は六相でなく一在ではなかろうかという詩人の文章にうなずきながら・・。値段じゃないの。自分の身の丈にあった器で、自分なりの「美」の発見でいつくしみ 一期一会することしかございませんね。ぼちぼちと。
異界の方々が 何より怖いねって この現世の修羅のちまたを覗かれているのかも・・・。

投稿: 井上良子 | 2007/05/24 15:03:42

鳥取、と聞くとあの水木しげるゆかりの地・境港が最近は思い浮かぶ。これからの季節は岩ガキがおいしいとか。

我々、文明の中にしか生きていない都会づけの人間たちは、ひとすじの光だにもない、正真正銘の「真っ暗闇」の体験が少ない。

新月の夜、光の全くない森の暗闇の中には、水木しげるの表現するような姿の“異界”の住人たちがいるのだろうか。夜の森に漂う、何かが蠢く気配が、それらがそこに“いる”という、ゾクゾクした感覚を抱かせる。

森の中の“異界”は自然と深く繋がっている。そこには闇夜ならではの、ひそやかな、しかし賑やかで生き生きとした生命の息吹きが息づいていると思う。


「茶は器だという。なるほど、一つのものに寄り添っていれば、それが次第に育ってくる。問題は、何に寄り添うか、それを決めること」。

何に寄り添うか、で“それ”がどんなものに育っていくかが決まってくる…。

よいものに育つには、その寄り添うべきものも、良いものでなければならないだろう。


ギラギラな現代文明の中に、凄みのある光彩を放つ茶の湯の世界は、森の“異界”とはまた違った、一つの静かな“異界”であるような気がする。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/05/23 23:41:26

インターネット上のブログなどは、まるで異界に
通じる「辻」のようだと思ったのですが…
たぶん私が考えたことではないような気がします。
最近は、ふと何かを思いついても、しばらくすると
「これはどこかで読んだような?誰かが言って
いたような?」とひとり首をかしげてばかりです(笑)。
「小首」程度のカワイイかしげ方ではないので、
ひねってしまいそうです。。。

クオリア日記が文明の中の異界の入り口だとすれば
茂木さんは、通り過ぎる人たちをじっと
観察する辻の番人のようですね。(ちょっと違うかな?)
実際は、あちらこちら忙しく動き回っていらっしゃるのに!

投稿: まり | 2007/05/23 22:48:32

こちらで、鎌田先生の近況を知るとは想像もしていませんでした。
オーラとか、幽霊とかは何らかの共感覚作用じゃないかと思っているんです。でも、幽体離脱が少しも推理できないので「???」の世界ですね。
もう、一つ、ラザロ兆候と鎌田先生の世界には共通するなにかがあるんじゃないかと、、、、、。


(補足 幽体離脱って昼間のボーリング場でも起こるものなんですね。もちろん、ボーリング場ですので、立っています。それにはビックリしました。)

話は変わりますが、、、
ここの投稿はYhooのメール番号では受け付けて貰えないのですね~
(;;)

投稿: あすか | 2007/05/23 21:08:03

昨夜は飲み会で残念ながらプロフェッショナルは見れなかった。茂木先生が鳥取でお会いしたという鎌田東二さん著「聖トポロジー」を思い出して読み直してみた。昔、一番気に入っていたのは”神ながら少女ナウシカ”だった。今回一番気になったのはシュタイナーの咽頭部と音声に関わる独特の見解だった。そこから機械音と動物の声そして人間の声に違うものを感じさせる音の構造に思いを馳せた。聖なる音は異界への扉を開けるキーなのかもしれない。

投稿: 福地博行 | 2007/05/23 20:18:54

他者という異界の淵で日々暮らしています。

投稿: 新屋敷 恒 | 2007/05/23 17:23:07

懐中電灯のことを、子供のとき、
「怪獣」電灯、だと思い込んでた。
いまでも、聞き間違いとか、よくある。
放っておいたら、幻が、どんどん広がる。
幸せな世界に向かうように、と願う。


投稿: F | 2007/05/23 15:19:38

チョッとこちらにコメントしたくなりました…

人それぞれの見え方があって然りだと思います。

どんな異界が見えてくるのか…畏れることなく…
無意識に任せて、楽しみにしておりますね…

投稿: 風待人 | 2007/05/23 15:00:04

暗い森に突入する事が出来ず、その入り口で引き返す。
私も林遊びをし始めて、ずーーーっとこの気持ちの良い場所にいたいと思い 小屋など建てようかと、林にお泊り実験をしたことがありました。
でも、経験した事のない真の闇に、ヒャーーー怖い!!とばかりに闇の林から里にかけ降りてしまったのです。
 私も文明の中にいて異界を覗き、おいしいとこだけ味わっているのかも知れません。 エセ自然保護者かも? 

投稿: sakuranomori | 2007/05/23 9:01:27

この記事へのコメントは終了しました。