くるくると回り続けているコマでも
くるくると回り続けている
コマでも、呆然とすることはあるのであって、
昨日は少しそういう時間帯があった。
「希望」というものは、どんな成分から
できているものなのだろう。
何が起こるかわからないという
不安のすぐ近くに、「希望」はある。
偶有性は、予想できないものと
予想できるものの混淆としてあり、
そのバランスを脳はうまくとる。
確固とした信念や、理想、夢
があれば、その部分が「安全基地」
(secure base)として機能して
くれるから、十分な不確実性を
受け入れることができる。
自分の中の理想を、赤々と燃える鉄の
塊のように、常に叩き、かたちを
調え、アップデートしておく
必要がある。
何だからふらふら、くらくらと
どっちに行くのかわからない時代であるが、
自分の中に一つの理想が輝いていてこそ、
初めて何が起きても大丈夫と
思うことができるのだ。
5月 15, 2007 at 07:00 午前 | Permalink
トラックバック
この記事へのトラックバック一覧です: くるくると回り続けているコマでも:
» 旅のよすがレスポンス トラックバック 須磨寺ものがたり
作家角田光代さんは、今どうやらメキシコ(墨西哥)にいるらしい。
その地で、養老猛司さんから旅のよすがの手紙を受け取ったという。
・・昨日5/14付け産経新聞朝刊
「脳あるヒト 心ある人」)より... [続きを読む]
受信: 2007/05/15 16:08:22
» 記録写真 養蚕のいま 長谷部 亮 (著) トラックバック 本のある生活
娘が学校で蚕を飼っていて、週末になると学校から連れ帰ってきます。週末だけだけど飼ってみると結構かわいいもんですね。記録写真 養蚕のいま 長谷部 亮 (著) 養蚕と製糸業は近代日本を作り上げる重要な役割を果たした。それから現在まで、養蚕がシルク、生糸を作ってきたことは変わらないが、この100年の間、養蚕業と製糸業は、世界の景気動向に翻弄され、大きく変化した。そして、現在の養蚕業の1年を追い、記録として残したものが本書である。【目次】第1部 春蚕を中心とする養蚕の終始第2部 夏蚕...... [続きを読む]
受信: 2007/05/28 12:24:57
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
只今結果的に完全な片思い状態の
独楽な気がして不安満載ですが
希望を捨てずに頑張りたいと思いまーす。
「独楽」かあ。
独り楽しいかあ…
あははー
負けないですもんねーw
( ´^ิ益^ิ`)
投稿: cristal | 2007/05/16 22:33:49
u-catさんはフーコーの「バイオの権力」という概念をご存知でしょうか。現在のu-catさんの問題意識に非常に近いのでよろしければ御一読をお勧めします。
私自身、フーコーを理解しているとは全くもっていえないのですが・・・。
投稿: naritoku | 2007/05/16 21:11:27
いつも以上に延々と遠回りしてしまうこと、申し訳ありません。
10日の「ギャップ・ライフ」へのコメントの中で、
(企業に)働かされている、とか、
(社会的・経済的に)決してまともではない、
などと書いた者です。
11日の「聖なるふるまい」で紹介されていた『東京物語』を
私は観たことがなく、日記の文章から想像してみましたが、
父親の子供たちに対する、鋭い批評と柔和な表情は、
父親の内面において、同じ次元には存在していないはずだと
思われました。
その父親が、いつもは柔和であるように、
私も職場で「働かされている」とは思っていなくて、
私個人は、やはり、「働いている」なのです。
もやしを袋につめるアルバイトをなさったときの茂木少年のように、
私も、いっしょうけんめい目の前の仕事に集中しています。
「働かされている」との言葉には、「企業の目線」が入っています。
さらに、私のような社会的能力の低い人間の場合、
「働かせてもらっている」が、「世間の目線」かと思われます。
実際、今の職場に来なければ 触れることもなかったような
私にとって楽しいと思える作業に従事できるのは、有難いことで、
これで安定した生活が得られるのなら、じゅうぶん幸せなのです。
インターネットをするゆとりもある、身体も健康な私が、
世間的な目で、資本主義社会における敗者の側だと考えるのは、
ばちあたりなのかも知れません。
私の両親は私に対し、内心どう思っているかは別として、
鋭い批評どころか、愚痴さえもほとんど言わずにいてくれます。
『東京物語』の父親の、鋭い批評 vs 柔和な表情 は、
企業や世間から見たときの私の姿 vs 私が私に没入しているときの姿、
両親が世間に照らして私を見た時 vs ありのままの心で見た時、
と同じような、次元の違うものが対峙している感じがあります。
心の中の、同じ平面上に、二つがあって、
一方にシートをかけて隠している、というような類のものではない
と思いました。あるいは、
一方が上で もう一方が下である、とか、
どちらかがどちらかに所属している、というものでもありません。
かなり飛躍してしまいますが、
ニューロンの働きvs心の創造 というものも、
同じ平面上にはないと思うからこそ、
それぞれの次元において意味があると思われ、
希望も沸いてくるような気がしました。
私の理想は、たとえ、心というものが、
物質的にニューロンの信号に分解されるとしても、
心には心の立ち位置があると、信じられる力を持つことです・・・
普通の人間には遥か遠い理想です・・・。
投稿: u-cat | 2007/05/16 4:11:21
何が自分にとって理想なのか、具体的なイメージを描けないまま
どんどん時間ばかりが過ぎてしまいます。
そのおぼろげな「理想」のイメージも常に変化し続けているようです。
突然のわけのわからない不安、というのは滅多になく
実は嫌になるほどハッキリした理由のある場合がほとんどです(笑)。
どんよりするほどでもない、「ひょっとして今、不安?」程度の時に
つい思い出してしまうのが北杜夫さんの『幽霊』の冒頭の文章。
わけもなく桑の葉に穴をあけている蚕が、自分の咀嚼する
かすかな音に気づいて、不安げに首をもたげてみるようなものだ。
埋もれた過去の思い出を振り返ることを無意識に続けるうちに、
その無意識からふと目ざめてしまう瞬間、を例えた文なのですが。
「あ。自分は今、蚕だった?」と思ってみたりします。
北杜夫さんも昆虫好きな方ですね。
メンガタスズメは北さんの本で知りました。
私が読んだのは昭和36年に書かれたものなのですが、
昆虫の世界にもドッグイヤーは適用されるのでしょうか?
ものすごーく進化したメンガタスズメがいたら
どうしましょう(笑)?
投稿: まり | 2007/05/16 1:32:16
くるくると回り続けているコマの芯に意識が置かれている時は意志はぶれません。それが少しずれると眩暈がし、端の方に行ってしまったらさあたいへん、遠心力で場外に出されてしまいます。茂木さん、少しお疲れのようですね。JAZZを聞く時間を確保してくださいね。
「どっちに行くのかわからない時代」。本当に私もそうだと思います。今の時代の暗さが「朝が来る前の最も深い闇の手前、午前2時半頃」なのか。「楽しいディナーが終わり、夜が始まったばかりの暗さ、午後9時半頃」なのかが判断できません。今が午前2時半だというのは少し楽観的すぎるような気がしますが。
しかし、ひとつだけ言えることは、たとえ今が午後9時半だったとしてもいずれ朝は必ず来るという事実です。それが「希望」の成分なのではないでしょうか。
「不安」の成分は上昇後におこる下降の粒子、「希望」の成分は下降後に起こる上昇の粒子ではないでしょうか。この世界が螺旋と波で構成されているように。
投稿: ダンテス | 2007/05/15 23:35:20
昨日間違えて送信をクリックしてしまいました
すみませんでした
投稿: nobori | 2007/05/15 21:35:23
外国の人から日本人はよくこういうふうに思われるのだそうだ。
「刹那的なものに執着し、その日がよければいいという考えかたが強い。そこには、人生如何にして生きるべきかという確たる信念・哲学がない」
日本人の全てが、こうであるとは限らないのだが…。
こういうと手前味噌だが、昨今の世知辛い世の中に負けて、理想・夢・信念を失うことがあってはいけないと常に自らに言い聞かせている。
人は如何にして生きるべきか、という確たる信念、そして理想。それを赤々と燃える鉄を常に鍛練し、一つの輝く銘刀を仕上げるように、己の魂に燃えつづける信念・理想を光り輝かせたいと思っている。
自分の中に確たる信念・理想・夢がある人は如何なる動乱、苦難があってもそれを決然と乗り越え、人生の新たなステージに上ることができる。
そういう人は刹那的なものに流されず、常に“永遠性”を志向し続けるものなのだ。
この「日記」を毎日書き続けられている茂木さんは、そういう人の一人だ。
投稿: 銀鏡反応 | 2007/05/15 19:25:16
人生についてああでもない、こうでもないと、迷いに迷った揚げ句、なんとかたどり着いた道。うれしさのあまり走り抜けたかった。だが、どこか凸凹な部分があちこちにあって、歩くしかない。 この道もやはりダメか。でも歩けるだけましだよな。
そんなときに茂木氏が颯爽と現れ、ひょひょいとあっという間に整備してくださった。
走れ、止まるな、ただひたすら、走れ、走れ。
ただ前を見て駆け抜けている僕に、そんな声はもう聞こえやしない。
投稿: くでけん | 2007/05/15 11:57:32
壊れたり、傷ついたり、直ったり、磨かれたりするけど
心は何で出来ているのだろうって ずっと知りたいと思っていましたが
希望についても もっと知りたいです
ワタシの中には 種火くらいの理想しかないような気がします
ダメだなぁと思いました
ちょっとくらい輝きたいなぁと
投稿: cachari | 2007/05/15 11:23:49
ふふふ(笑)コマって実にいろんな角度をつけて、ぐいーんってまわっり、ふらふら、よたよたしながら、その回転速度にによっていろいろ楽しい、模様になるのが、ほんとに楽しいですね。大好きです。
コマを、勢いつけてなげる自分の姿勢も、前のめりだったり、やたら地面に体がつくぐらい、体に角度つけたりして。
コマの世界にはりいこむかのごとく、吸い寄せられるかのごとく
投げつけるのが楽しかった。
その姿勢がコマの勢いにも影響していたのかな?
幼稚園生の頃に一番上手にまわせていました。
がちがちの、こわばった大人になったら、うまくまわせなくなった。
すいっと、楽しい世界に張り込めなくなったから?
投稿: 平太 | 2007/05/15 9:43:47
「希望」の成分・・・。この言葉の切り採りに茂木さんの価値を感じています。
リッタの聖母に充満しているあの たゆまない時間の中にも含まれている?。
茂木さんの哲学の森?明治神宮の木々の空気ははるかに遠いので、若葉に誘われて「糺の森」を歩いてきました。水の声もどこからか・・。歩きながら再生されつつ。
今日は悠久の葵祭り。晴れ晴れとしたお天気で鴨川の土手から大文字さんがくっきりと緑のやまに大の字ひろげて気持ちよさそうでしょうね。
燃えてる大の字でなくて、雪の日の大も息を呑むほど美しい姿です。
ふらふらくらくらどっちにいくかわからない渦中を浮遊するしか道はなく・・・・。
コマはまわっている時がコマなのでしょう?自分の軸で。
投稿: 井上良子 | 2007/05/15 9:05:50
初めまして、茂木先生のブログいつも楽しみに拝見しております。
ふと思ったこととして最近の茂木先生のブログ内容は精神的な安定を求めているのではないかと感じてしまいます。
茂木先生は大変お忙しいと思いますが、これからも楽しいブログを期待しています。
投稿: 果汁1%以上 | 2007/05/15 8:51:08