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2007/05/02

その帰趨は

プリンストン高等研究所の
Piet Hutが研究所に来て、
ゼミのメンバーの前でトークして
くれた。

Pietの専門は天文学だが、
何しろ好奇心旺盛で、いろいろな
ことに興味を持つので、どんな話に
なるかわからない。

今回Pietが話してくれたのは、
インターネット上のvirtual reality
空間を通したcollaborationの可能性
についてで、
東京と、カリフォルニア、そして
スイスを結んで、一つの「空間」
を共有してのやりとりをデモンストレーション
してくれた。

セカンド・ライフを初めとして、
ヴァーチャルな空間における
活動が再び注目されている。

インターネットというメディアは、
今のところ文字や映像が中心だが、
ブロードバンドになるにつれて、
次第にヴァーチャルな空間を共有する
というような方向に行くことは
間違いないだろう。

しかし、空間や時間といった、
もともと私たちが住んでいる物理的条件に
根ざしたメタファーが、果たして
どれほどエッセンシャルに新しい
何かを提供するのか、その帰趨は
明らかではないと思う。

古くからある「知性に身体性は
必要かどうか」という議論は、本当の
ところがどうなのか、きちんと
考え抜こうとすると難しい。

制約から来る不自由と、制約ゆえの
自由の関係については、身体性や
物理的時空についての常識的
思いこみを一度取り払って、
じっくりと考えてみるべきなのではないか。

グーグルのように、基本的にはテクスト
に特化することによって抽象的な
情報空間における機能を実現し、
身体性や空間制約性はそれを使う
生身の人間側に「丸投げ」するという
アプローチもあり得る。

インターネットに限らず、コンピュータを
考える時に大切なのはスケーラビリティ
の問題だと思う。
ヴァーチャルな時空は、果たして
スケールを興味深い形で使うことが
できるか。

朝の雨は気持が良い。
一日が降雨とともに始まり、
太陽が上がるとともに次第に
青空が広がっていく。
そのような時の流れを心地よい
と感じるのは何故なのだろう。

5月 2, 2007 at 08:36 午前 |

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受信: 2007/05/02 19:58:00

コメント

ヴァーチャルな時空・・・凡人の知らない間に世の中はどんどん進んでいく。ヴァーチャルがリアル度を増すごとに人は多くのものを失うのだろう。言語も。感情も。もちろん、その未来を否定はしないけれど、楽しみに思うけれど。でも、肉体の細胞の一つ一つに宿る思考する力こそが根源的な「良心」を支えているのだとも思う。たぶん人間はどんどん脳みそだけの存在になっていくんだろうな。もしかして、肉体を失うことへの不安、というのも、ひょっとしたら「中の実感」なのか・・・?

投稿: 月果凛 | 2007/05/03 2:13:13

インターネットは確実にヒトの行動と思考のパターンを変化させています。例えば姪の大学生は近くから大阪市内に来るにもグーグルなどの地図のプリントアウトを持参です。「おおげさな」と茶化しても、なぜ茶化されているかが判りません。

目的地をネットで見つけることと、道を尋ねることには大きな違いが有ります。街では自分にとってニガ手そうな人はさけて、普段使わない敬語も使い、気持ちのいいお礼の言葉を選ぶ。その人の歴史が集約されます(大げさ?!)。片やpi po pa! 

投稿: fructose | 2007/05/03 0:02:56

この1週間、茂木先生のMP3音声ファイルをいろいろと聞いている。頭が痛くなるくらいに錆び付いた脳を使っている。北見工大の吉田秀樹助教授との短い音声認識に関する討論も厳しかった。youtubeとクオリア日記から始まったもどかしい思いがなかなか決着しない。最近のグーグル文字検索では物足りない何か、思わぬところへジャンプする感覚、茂木先生の偶有性、ヒラメキ、意識の拡大。収束させるには睡眠とこつこつ別作業?

投稿: 福地博行 | 2007/05/02 21:08:23

この時期の朝の雨は爽やかでいいですね!きょうは昼過ぎから太陽が照らし始め、大方温かい日和でありました。ただ、我が居住地区は夕方に通り雨がありました。茂木さんのところではどうだったのでしょうか。

ネットの進化はまことに凄まじい。今自分達がリアル世界でやっているようなことも、ヴァーチャルな世界でも出来るようになるという。「セカンドライフ」の登場で、すでにそうなりつつあるのだが…。

“制約から来る不自由と、制約ゆえの自由の関係については、身体性や物理的時空についての常識的思いこみを一度取り払って、じっくりと考えてみるべきなのではないか。”

インターネット、ひいてはコンピュータの進歩によって生み出される「新しい仮想社会」で生きていくには、多分、茂木先生がこのエントリーでいわれた上記のような思考のアプローチが必要になってくるかもしれない。


「知性に身体性は必要か否か?」という古くからある命題も、もちろんキチンと考えようとすると難しいものだろうが、21世紀の今日においても、避けて通れない命題に思える。


世界中の人々がヴァーチャルな空間を共有するとなってくると、匿名社会であり、一種「ブラックボックス」化している日本のネット社会は、今後どのように対応し、変わっていけるのだろうか。

世界中でそういう空間を共有するとなれば、匿名ではいられなくなるかもしれない。となれば、私も「銀鏡反応」というHNを捨て、本名を名乗らざるを得ないかもしれないが、そうではなく、匿名を名乗るも本名名乗るも、自由という選択肢も、ひょっとしたら出て来るかもしれない。

ともあれ、ネットには人類がいまだ踏みこんだことのない「空白」が広がっている事はたしかのようだ。

問題は、その人類が「空白」をどんな風に埋め尽くすかなのだ。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/05/02 19:29:22

制約からくる不自由と制約ゆえの自由と・・・。ここの微妙な関係に創造のかみさまは舞い降りるのかしら。ここに何かがあるのでしょうね。明日没するとも限らない不確かなこの身体をどう使用することが、「生きていること」に繋がるのでしょう。
外は春雷です。

投稿: 井上良子 | 2007/05/02 12:13:41

大切な人に会えないとき、思い出す映画の台詞。
「ただ、裏庭が、とっても広くなっただけだ」
We just have a really 
big backyard.Okay?

この世にいる人や、今では、あの世にいる人にも、
こんな簡単な台詞が、あてはまる気がする。
あてはめると、気持ちが楽になる、というか。
姿は見えなくても、その先に、いるのだ、という気持ち。

投稿: F | 2007/05/02 11:53:46

インターネットは未知なる可能性の固まりですが 所詮はツールにすぎないと思います 優れたアイデアマンに導かれなければ 我々が使いこなすことは出来ないでしょう しかし、現代は金本位制(使い方と意味が間違ってますが) 金にならないものは価値がありません 故に金と文化の向上の両立というか 融合が現代のメインテーマになるとおもうのですが 人間は今を生きる生き物 未来を掴む事は不可能で 数字化できる金に勝るとも劣らない価値観を 現代人は見いだせていないのが現状になります 人間はどこへ行くのか 人々が無関心を装っているだけで 世界は未だに未知の創造で溢れています

投稿: 後藤裕 | 2007/05/02 11:15:45

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