生きものであるのに
何事にも終わりがある。
永遠に続くと思われる現在の地球の
環境も、現在45億歳の太陽が、これから
数十億年後に太陽が赤色巨星になって
しまえば終わりになる。
学校でも、仕事でも、いつかは
終わりがくる。
旅行にも、休暇にも、終わりがくる・
終わりには、積極的な終わりと
消極的な終わりがある。
地球から見て、太陽が赤色巨星に
なるのは消極的な終わりであるが、
時には、生命のいまだ盛りにおいて、
一つのフェーズの積極的終わりを
自ら考えてみるのも良いのではないかと
思う。
一つの文脈だけにはまって、
その中で最適化するというのは居心地の
良いことだが、一方で精神を弛緩させる。
あるライフスタイルがずっと
続くと思えば、どうしても精神は弛緩する。
いや、これがずっと続くわけではない、
次には、全く新しいフェーズが来るのだ
と思えば、自ずから精神は緊張するし、
それに備えて様々な準備をしようと
思う。
そんなひんやりとした感覚は
生きる上で誰にでも必要なのではないか。
石ころを見ていると、
ずっと動かない。
その中心にある原子は、私が
穿って取り出さない限り長い間
そこにあり続けることだろう。
生命は違う。常に変化の中にある。
じっととどまっていることなど
できない。
生きものであるのに、石ころの
ように振る舞ってはいけない。
常に前のめりで、一つの生の中で
いくつもの新しいフェーズに入っていく。
そのように時間を過ごして、
初めて潜在力を発揮することが
できるのだ。
一生のうちに、何回も「終わり」
がある。
太陽系の誕生から消滅までも、
何回も経験する。
そんな人生が良い。
5月 5, 2007 at 09:13 午前 | Permalink
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コメント
積極的な終わりと消極的な終わりの狭間に「何か」があるように感じます。
私は華厳の滝には行った事はないですが、藤村操はあの日華厳の滝で積極的な終わりと消極的な終わりの狭間にある「何か」を見たから滝に飛び込んだのではないでしょうか。
滝に飛び込んだ藤村操と海に飛び込んだペンギンはどこが違うのですか。
茂木先生も仰っていることだが、「心理的安全基地」は人によって異なる主観的な問題なのでしょう。
「心理的安全基地」がないと感じているのに嫌嫌海に飛び込んでも、そこに喜びを感じることはできないと思いますよ。
我我が道路の傍らを歩くことは何でもないことですが、交通事故の経験者から見ればとてつもない恐怖を感じてしまうことなのでしょう。
投稿: naritoku | 2007/05/08 20:20:06
仕事のことで考えさせられた。
今まで転職という変化を積極的に前のめりに捕らえ、
頑張ってきたつもりであった。
が、1年前から努力の結果がでず、40歳という年齢の
壁にも阻まれて、次の仕事という前にも進めず、仕事的
にも家庭的にも安定していない自分に不安を感じる毎日
である。
しかし、結果的に今の私は、新しいフェーズの中へ否が応
でも入っていかざるをえない状態にある。
これは常に変化の中にある、とても生きものらしいこと
なのだと少し楽観的になることができた。
実際"ひんやりした感覚"は決していいものではないですが…
今後は、冷静に自分の中の植物を見極め、前のめりに自ら
新しいフェーズに飛び込んでいけるような自分になることを
目標にしたいと思う。
投稿: ひろわり | 2007/05/06 17:42:23
いわゆるセロトニンばかりを与えられて満足するような人生がいいと言っている方へ。申し訳ないけれど、そういう生きかたは精神がむにょ~と弛緩するだけ。生きる歓喜も大半減だ。そんな人生、つまらないですよ。
所詮全てには終わりがくる。セロトニン漬けであろうがそうでなかろうが、地球も何時かは滅亡する。その時我々は一緒に滅ぶのだ。
そうであるなら、あえて苦労を求める人生を生き生きと生きたほうが艱難辛苦、山あり谷あり、波乱万丈はあるが、エサをたらふく与えられて狩猟の醍醐味を忘れたペンギンのように生きるよりはよっぽどマシ。少なくとも3倍お得(!)だと思います。
積極的に大海原に飛びこみ、エサを執ることで喜びを得るペンギンのように生きるほうが、よっぽど生きる実感と醍醐味が得られようというもんだ。
投稿: 銀鏡反応 | 2007/05/06 11:03:04
ヨガに屍のポーズというのがあって、レッスンの一番最後に必ずやります。このポーズが至福のひとときでして、なんのことはない、部屋を暗くして、仰向けになり毛布をかけて、目を瞑る・・だけのことなのですが。
「ヨガでは1日何回も再生します」の言葉に、今日のクオリア日記がシンクロしました。何度でも終わり、何度でも再生する。確かに仰向けに寝転がり、両手両足を投げ出して、体にすっぽりと毛布をかけ、そのうえタオルを顔にかけると、まるで自分は死体で、今まさに土をかけられて永遠の眠りにつくかのような錯覚をおこします。
そして、リフレッシュです。また次の場所へと急ぎます。
投稿: 菫 | 2007/05/05 23:58:51
数十億年後に太陽の寿命が尽きるという事実は逆説的に私たちの生きる希望になると考えます。その未来を予想するのはなかなか楽しい空想です。1.人類は銀河鉄道999のように脳の情報をすべてマイクロチップに収め、機械の体を手に入れ、他の星々に移住する。2.現在のスピリチュアルブームに則れば、肉体そのものを必要とせず、魂のみで生きている。進化論の最終形として生き残る。ただし、魂は地球なしで生きられるものだろうか。もし地球なしで生きられるのならば進化論の最終形は神そのものになってしまう。3.太陽系の寿命を待たずして、人類は絶滅、微生物のみの地球。大きな可能性はこの三つのように考えます。
投稿: ダンテス | 2007/05/05 23:53:31
カオスの海に飛び込まないペンギンがいても良いはずです。
ペンギンの世界に貨幣はないが、現代の人間の世界には貨幣があるのです。
貨幣でエサを買えば海に飛び込まないでもすむ話ではないですか。
ドパーミンよりもセロトニンの最大化を求める人生があっても良いはずです。
投稿: naritoku | 2007/05/05 22:19:38
カオスの海に飛び込まないペンギンがいても良いではないですか。
ドーパミンよりもセロトニンのを求める生き方があっても良いではないですか。
そもそも人間はペンギンとは異なります。
しかも、現代日本は資本主義(私有財産制)ですよね。
最初から洞窟に一生分のエサが与えられているペンギンもいるのです。
蓄えられているエサが一生分に足りなくても、そのエサを食べつくす前に、新たなエサ提供者が現れるかもしれません。
ある人にとってはそれがウエッジウッド家の令嬢だったのでしょう。
あるペンギンにとっては海に飛び込むための心理的安全基地となる政府の施策もあるペンギンにとっては陸に残る原因に受け取られるのでしょう。ここに政府のジレンマがあると考えます。
投稿: naritoku | 2007/05/05 22:14:40
地球の寿命が有限であるというのは、気持ちがよく、潔く、私たちに希望を与える科学だと考えます。
投稿: ダンテス | 2007/05/05 20:47:14
人間は安定を求めます
故に変化を拒みます
しかし、時間の流れにおいて完全な停滞はありえません
常に何処かへ流れていきます
ですが、人間は変化を恐怖し踏み出すことに躊躇します
何故、偉大なる人々は踏み出すことが出来たのでしょうか
そのようになりたいものですが
自分には恐れるものが多く、大きな一歩にはほど遠い毎日です
投稿: 後藤 裕 | 2007/05/05 16:39:30
昨日、地元のお祭りに出掛けた。
曇り空で、雨は降りそうで降らなかった。
去年のお祭りより、今年は楽しかった。
よく、人から話しかけられる方なのですが、
これまでになかったような、柔らかな気持ちで
返事をしている自分に、あれ?と、おどろいて、
この変化は、クオリア日記のおかげなんだと
よく分かりました。
これからも、宜しくお願いいたします。
それから、美紀さんのブログを拝読して、
繊細さから生まれる明るさが伝わってきて、
あー読んでよかったー、と思いました。
投稿: F | 2007/05/05 14:46:30
人間、生きていく上で、いくつかの“誕生”と“死”とを経験するものだ。
人生の上で、一つのフェーズが「死んだ」時、新しいフェーズが「生まれる」と捉えて生きて行った方が、ダイナミックに生きられる。石ころならぬ動く生命体だから、そうしなければ生きている甲斐がなかろう。
自分達生物の住んでいるこの地球だって、おっしゃる通り、今は燦燦と照り輝いている太陽が赤色巨星になってしまえば、終わりがやってくる。日本もしかり、世界もしかり、文明も、ブームも、必ず終わりという「死」を経験する。そのあとに新たなものの始まりという「誕生」がやってくる。万物は「誕生」と「死」とを繰り返していくものだ。だいたい、宇宙全体からしてそうなんではないか。
長いようで短い人生である。どうせ生きるなら、前のめりになって潜在力を発揮出来るように、いくつもの新たなフェーズを経験していくほうがよい。
投稿: 銀鏡反応 | 2007/05/05 11:09:51
子どもの頃、法隆寺の夢殿?でみたkudara観音は凄い。終わりのない終わりをはらんでいて怖かった。大人になってからあの神秘的な美しさに慄いた。老人になったらどう映るんだろうか?いにしえからの流れ来る物に聴く耳を持てた頃はもう間に合わないのかもしれません。あっつ。地震。
投稿: 井上良子 | 2007/05/05 10:26:06