つー
シャワーを浴びて、しばらく
そのまま立っていると、
水滴が「つー」と身体の表面を
すべっていくのが感じられる。
いつもそんな細部に注意を向けているわけで
はなく、そもそも
そんなことを考えたのは10年振りとか
なのではないか。
世界は、ついつい忘れがちな細部から
成り立っている。
心を込めて、その一つひとつに
向き合うことから、
様々な深い世界が見える。
早い話が、身体の表面を「つー」と
水滴が滑っていく、
その様子を探究することで成り立つ
科学もある。
その一方で、「全体」を見ることを
忘れてはいけない。
「つー」に付き合っているだけでは
だめである。
そもそも、「つー」に向き合う科学者は、
決して細部に尽きているわけではなく、
過去の経験や感覚や運動の連合の、
すべての組織体を総動員している。
全体を見ている時にも、細部に向き合っている
時にも、結局は複雑で巨大な
「私」といううごめく
岩山がそこに介在しているのだ。
どんなに小さなものに向き合っても、
結局は「私」がそこに介在するもの
ならば、
たまには世間に背を向けて、
世の流れにも気を留めず、
思い切り微に入り細に入った
小さな世界に沈潜してみよう。
やがて、
そこからのゲシュタルト崩壊が、
概念波のビッグ・バンを起こし、
その波乱が、あっという間に宇宙全体に
広がっていく、その様子に傾倒して
みよう。
つー。
電通の佐々木厚さんがアサカルの後の
飲み会にヨーロッパ土産の素敵な
お酒をもってきてくださった。
そのグラスの中を泳いであちらこちら
行っていた泡と、朝のシャワーの
「つー」は、私の意識の中で、
同じ素材でできていたんじゃないか。
5月 12, 2007 at 08:59 午前 | Permalink
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受信: 2007/05/12 17:18:58
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コメント
戦国時代にもフィクションはあったでしょう。
現存する一番古いフィクションは日本書紀ではないでしょうか。
太古の人間が現代に迷い込んだら、現代を「黄泉の国」と解釈するのかもしれませんよ。
投稿: naritoku | 2007/05/19 22:13:23
関係なくてもうしわけないですが、最近やはり物理をいちから勉強したいとおもっています。芸術と科学の融合なんていいつくされているわけですがその説得力のあるかたちがやはり必要であって、わたしはやっぱり芸術を遂行する媒体として数式をつかえるようにならなければならない、と。ノイズとパターンとの区別がやはり人間の(恣意的)な美意識に基づくという点を無視できないから。そして、その目的は崇高な芸術や崇高な理論を打ち立てて世の中をあっといわせることではなく、目的は、すべての生を肯定したい、というただそれだけの願いとして。
投稿: y | 2007/05/13 2:52:54
日記の内容とはあまり関係ないのですが
ブログを始めまして、茂木先生ほどではないにしろ
かなりの頻繁に更新し、それでいてクオリティーを保とうと思っているのですが
そんなこんな考えている内に
改めてこの「クオリア日記」の大きさに少しビビッテしまいまして
何故、毎日こんなにも高いクオリティーを保てるのだろうと不思議でしょうがなくあります
それは間違いなくこの日記の様なモノが茂木先生の日常だからで
毎日、毎時間、毎分、毎秒と考えている結果なのでしょう
大きな知の意識からは無限とも思えるようにあふれてくるのですね
恐れ入りました、勉強します
投稿: 後藤 裕 | 2007/05/12 17:51:18
「戦国自衛隊」という映画がありましたが、例えば現代の日本人がタイムスリップして戦国時代に行ったとします。これは私は耐えうることだと考えます。何故なら現代人は戦国時代もタイムスリップの概念も知っているからです。もちろんタイムスリップが現実にあり得たことは信じられないでしょうが、「歴史も、時間のねじれの概念も両方とも知っていた」ということで、なんとか精神バランスを崩さずに絶えて生きていけるかもしれません。
その逆に、戦国時代の人が現代にタイムスリップした場合は、おそらくその人の脳は自滅してしまうと考えます。何故なら戦国時代の人は現代という未来形の歴史もタイムスリップの概念も知らないからです。この時代にはSF映画もなく、空想することすらできませんし・・・。おそらく自分の身に降りかかった不幸を解釈できず、いつまでたっても覚めない夢に発狂してしまうのではないでしょうか。そう考えますと「知っている」ということは生きるうえにおいて、とても重要なことですね。
これからの茂木さんは「クオリア」を徐々に緩やかに解明してくださると信じ願っております。そうすれば私も崩壊せずに徐々に慣れていくことができるかもしれません。「クオリア」の原理を急に発表しないでくださいね。私は理解できず耐えられないかもしれません。それでもこのクオリア日記を毎日読んでいれば徐々に免疫がついて、ほんの少しは耐性がついているかも知れませんね。
投稿: ダンテス | 2007/05/12 15:33:03
つー。
シャワーを浴びた肉体を流れる水滴の一つ一つは、世界を構成する粒子の喩えか。
玉のような一つの水滴も、水を構成する素粒子からみれば“全体”だ。
水滴すらも、一つの世界。我らがよってたつこの世界も、目には見えざる素粒子の集合体だ。
細部を見つめるあまり全体像が見えなくなる「木を観て森を観ず」状態でも、全体を俯瞰して見つめるにも、観ているのは「私」なる、生々しくうごめく「岩山」。
つー。
しゅわしゅわ。
流れるシャワーの水滴も、酒の泡も、茂木健一郎の意識の中では同じ素材でできた「球体」(とは、限らないか)。
「全体」を観ても「宇宙」が見える。観ているは「私」の存在。「細部」を見つめてさらに深い世界を知るのも「私」。
「全体」であれ「細部」であれ、どんなものも実はそれぞれ一つの「世界」であり「宇宙」なのかもしれない。
そんな「宇宙」がゲシュタルトに壊れるとき、概念のビッグバンが起こり、「宇宙」に波紋を広げる。そこで「世界」は変わる。「宇宙」は変わっていく。
「私」それ自身も、「細部」の集まりにして一つの「小宇宙」だから、変わっていく。
そういう、変わっていく様をたどっていくのが、「私」に約せば「人生」で、「世界」に約せば「歴史」となるのだろう。
投稿: 銀鏡反応 | 2007/05/12 13:37:59
こんにちは。
大は小をかねて小は大をかねる、とはよく言ったもので、
まさに今、科学の熱い分野も宇宙と量子なんじゃないでしょうか。
最近の著作を少しずつ拝見していますが、
生命のつながり方というかネットワークを考える事がすごく、
今重要なんだなぁ~、と感想を持っています。
たとえば「幸福感」ってなかなか一人では得られるものじゃない。
仲間がいたり、チームがあったり、
その中での充実感に繋がりを持つ事が出来たとき、
最も大きな「幸福感」を得る事が出来ると思われます。
そういったネットワークの持つ力への憧れみたいなものが、
実際の生活の場で、様々な分野で対象になっているような気がします。
投稿: hayashi | 2007/05/12 13:37:43