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2007/05/31

格闘する相手をこそ

小林秀雄は、ゴッホの生涯を、
その個性との壮絶なる格闘として
とらえた。

現代も同じかなと思う。ボクたちは
むろん現代から逃れることなど
できないが、本当の普遍に至ろうと
思ったら、現代の前提としているもろもろ
の条件との壮絶なる闘いを
挑まなければならないんじゃないか。

東京工業大学
すずかけ台キャンパスでの専攻会議。
修士一年の高川、加藤と「てんてん」
で研究の話をする。
柳川がいなかったので、天丼
だけだった。
柳川は必ず高いものを注文する。

エスクワイヤ編集部。
ボクは携帯音楽プレーヤーでは
音楽は聴かず、もっぱら
コメディや講演、朗読、落語を聴いている。
英語と日本語の割合はだいたい8対2。

この傾向はますます強まってきている。
音楽はむしろ据え置きで聴く。

そんなことを若林恵さんに話す。

ヒロ杉山さん、桑原茂一さん、
吉村栄一さん、大久保信久さん。

講談社の小川淳子さん。

鈴木健と、ネットのことを議論する。
柳川透も来て、コーヒーを飲む。

東京ドーム。
読売新聞の川人献一さん、重田育哉さん、
二居隆司さんと巨人×ソフトバンク戦を
観る。ボクがいくと4連敗であったが、
めずらしく勝った。
途中、芸術的なヒットエンドラン。
ああいうのはテレビで観ていても価値は
わからない。

言葉による表現も、本当に
良いものは言葉という限定との
壮絶なる闘いの結果なのだろう。

5月29日(火)の朝日新聞夕刊に、
私から詩人の吉増剛造さんへの
手紙が掲載されている(「たまには手紙で」)

往復書簡で、何回かやりとりが
ある予定。

詩人は、きっと言葉と取っ組み合っている。

そして、ボクたちは、格闘する
相手をこそ最も愛するんじゃないかな。
現代も、自分も、言葉も。

5月 31, 2007 at 06:33 午前 | | コメント (8) | トラックバック (3)

2007/05/30

脳内現象 9刷

NHKブックス 『脳内現象』は増刷(9刷、累計30500部)
となりました。

ご愛読に感謝いたします。


5月 30, 2007 at 07:23 午前 | | コメント (2) | トラックバック (2)

私にとっての「アンガージュマン」

聖心女子大学の授業。「現代の脳科学」

NHKにて打ち合わせ。

読売新聞の読書委員会。
小泉今日子さんと映画の話など
をふらふらふらりとした。

最近自分に課しているひとつの倫理感は、
どんな対象も、あたかも
自分がそれを能動的に作り上げる
かのように想像して感受せよ
ということである。

絵画ならばどのように絵筆を動かし
音楽ならばいかにして楽器をならべ
機械ならばどのように組み立て
人ならばその人生の境地に身を置き。

他者の行為を観察している
時に、あたかもそれが自分の行為
であるかのように処理する脳内の
ミラーシステム。

感じるクオリアの質が変わって
くる。
主体性という大切な要素が加わる。

何よりも、自分を棚上げした無責任な
批判をしなくなる。

テレビ番組についてもミラーシステムが
働くようになったのは、『プロフェッショナル
仕事の流儀』のスタッフの仕事ぶりを
つぶさに見てきたからかもしれない。

昨日のグーグルのCEO、エリック・シュミット
博士への私と住吉美紀さんによる
インタビューも、
「そうか、こんな風に編集するか」
とぶつぶつ言いながら見ていた。

最大の野心は、
この宇宙を、創造主の立場に
たって、つくってみるということかもしれない。
その中にクオリアなるものがなければ
ならない必然性は何か。

そのことについて思いを巡らせている
意識の最も麗しい時間。

感覚するだけでなく、能動において
全てをとらえようとすること。
それが、私にとっての「アンガージュマン」
の意味である。

5月 30, 2007 at 07:14 午前 | | コメント (12) | トラックバック (5)

ハングルでうひ山ぶみ

ヨミウリ・ウィークリー
2006年6月10日号

(2006年5月28日発売)

茂木健一郎  脳から始まる 第56回

ハングルでうひ山ぶみ

抜粋

 手に負えない、歯が立たないという無力感こそが、幼い私たちにとっての成長の可能性を示していたはずである。脳は一生学び続けることができる。生涯に何回か、「これはとてもダメだ」という無力な状態から学び始めるということをしなければ、もったいない。

全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/


5月 30, 2007 at 07:00 午前 | | コメント (1) | トラックバック (1)

2007/05/29

プロフェッショナル 仕事の流儀 リーダーたちは、かく語りき

プロフェッショナル 仕事の流儀 

トーク・スペシャル Part III

リーダーたちは、かく語りき

グーグルのCEO、エリック・シュミットさんに
私と住吉美紀さんが英語でインタビューしました。
シュミットさんは、素敵な方でした。

NHK総合
2007年5月29日(火)22:00〜22:44

http://www.nhk.or.jp/professional/

5月 29, 2007 at 07:56 午前 | | コメント (7) | トラックバック (13)

『誰が見たり、聞いたりするのか』

Lecture Records

塩谷賢
『誰が見たり、聞いたりするのか』

2007年5月28日
東京芸術大学 美術中央棟 第三講義室

音声ファイル(MP3, 78.7 MB, 85分)

5月 29, 2007 at 07:52 午前 | | コメント (5) | トラックバック (2)

詰めていくと、やがて

日曜日。
サントリー山崎蒸溜所にうかがい、
チーフブレンダーの輿水精一さんに
お目にかかる。

貯蔵庫は、ものを考えるのに
適している。
10年、20年、そして30年という
単位で熟成していくもの。

抜けると、新緑の上に陽光が
輝いていて、熟した思考を
やさしく包み込んで、
空気の中に消していくように
感じられた。

輿水さんは、私のために、
生まれた年(1962年)の原酒を
ベースとした、スペシャル・ブレンドを
つくって下さっていた。
感激する。

京都に移動。電通の佐々木厚さん
たちと、白川祇園で食事。

南座へ。「和楽」の取材の
ために、三響会の能、狂言を見る。

新幹線の中で、夢中の人となる。

月曜日。朝の丸の内はさわやか
である。

エコッツェリアでお話する。

仕事をする。

電通に行く。

仕事をする。

東京芸術大学、塩谷賢の
講義。

聞きながら、どのような魂の
姿勢、踊りをしようかと
考える。

公園に行く。みんなで話す。

また考える。

どうも考えてばかりいる。

「考える」ことを詰めていくと、
やがて「感じる」に至る。

5月 29, 2007 at 07:46 午前 | | コメント (10) | トラックバック (4)

2007/05/27

御礼

土曜日のコンサートにいらして
いただいた方、本当にありがとうございました。
遠くからいらしてくださった方、
心から深く感謝いたします。

茂木健一郎

5月 27, 2007 at 11:55 午後 | | コメント (1) | トラックバック (0)

東京芸術大学 美術解剖学 塩谷賢

東京芸術大学 美術解剖学講義

ゲスト:
塩谷賢(哲学者。時間論、美学)

『誰が見たり、聞いたりするのか』

2007年5月28日(月) 
午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室(2F)

http://www.geidai.ac.jp/access/ueno.html

聴講歓迎!

5月 27, 2007 at 11:46 午後 | | コメント (5) | トラックバック (1)

朝EXPO in Marunouchi 2007

朝EXPO in Marunouchi 2007

2007年5月28日(月)朝7時30分〜8時30分

茂木健一郎

新丸ビル10F エコッツェリア

http://www.asaexpo.net/03.html#06

5月 27, 2007 at 11:43 午後 | | コメント (1) | トラックバック (0)

濃密で有機的な

音楽の本質とは何か?

それはつまり、タイミングやリズムが
大事であるということである。

聴いているだけでも、むろん、
そのような有機的組成はわかる。
しかし、自らアクションすることで、
身にしみわたる。

いずみホールでの『可能無限への頌詩』
の初演。

私は、自分の書いた英詩を、
最初はステージの上(A)で、次に
二階の舞台から向かって右側(B)、
続いて左側奥(C1、C2)、
左側手前(D)、最後に
一階客席最奥(E)で朗読した。

ここ数日、スコアに書かれた
指示に従って、
どの音の後にどのように出るか、
暇を見てはリハーサルの時に
録音したmp3を聴いて
覚えていたが、
最後の最後で、苦しかったなあ。

ボクは、リハーサルで
「テノールばか」ならぬ
「バリトンばか」になってしまった
から。

何とか、本番までに巻き返して
切り抜けた。
Dの場所では、なにかが
憑依してしまった。

江村さんの新作を世に送り届ける、
そのお手伝いができて本当に
良かった。

演奏が終わって、呆然としていて、
ボクは変わったんじゃないかと
思った。

こういう通過儀礼を通して
人は変わっていくんだなあ。

とても濃密な、容易には分解できない
体験であった。

新潮社の池田雅延さんがいらした
ことも、とてもうれしいサプライズ
であった。

いろいろと、胸がいっぱいであります。

いやあ、みなさん、ありがとう。
ボクはさらに濃密で有機的な生を
いきるよ。

江村哲二さん、オメデトウ!

可能無限のための頌詩

An ode to the potentially infinite

http://qualiajournal.blogspot.com/2006/12/ode-to-potentially-infinite.html 

5月 27, 2007 at 07:14 午前 | | コメント (13) | トラックバック (9)

2007/05/26

脳と学習

Lecture Records

茂木健一郎 『脳と学習』

2007年5月25日
香川大学附属坂出小学校

(講演、質疑応答)

音声ファイル(MP3, 96.3MB, 105分)

5月 26, 2007 at 10:34 午前 | | コメント (8) | トラックバック (2)

江村哲二 可能無限への頌詩 世界初演

Transmusic 2007

「TRANSMUSIC 対話する作曲家 江村哲二
〜脳科学者 茂木健一郎を迎えて」

2007年5月26日(土)
15時〜 大阪 いずみホール

江村哲二/≪可能無限への頌詩≫
語りとオーケストラのための
〜茂木健一郎の英詩による〜

はいよいよ今日です。

コンサートにおいて、
私は、自作の英詩を朗読します。

コンサートに先立ち、私と
江村哲二さんによる、対談
(約45分)があります。

また、コンサート終了後は、私と
江村さんの共著『音楽を「考える」』
や、江村さんの『ハープ協奏曲』の
CDの販売と、サイン会が開かれます。

皆様、ぜひご来場ください。

http://www.suntory.co.jp/news/2007/9732.html 

ワグナーの『トリスタンとイゾルデ』
が1865年にミュンヘンで初演された
ときのポスターには、この世に初めて
生まれ出されたことを示す
「zum ersten male」という言葉が
見えます。

一つの曲が、この世に誕生し、成長し始める。
それは、精神の世界を揺るがせる
巨きな事件なのです。

5月 26, 2007 at 07:47 午前 | | コメント (11) | トラックバック (3)

遠足の前の日

絶対に間に合わないと思いながら、
浜松町でモノレールに乗った。

第一ターミナルに着くのが、
出発の15分前のさらに一分前。

搭乗手続きが締め切られてしまう!

ぼんやりしているうちに、
そうか、モノレールが停車してから、
エスカレーターを駆け上がって
搭乗の機械までいくのに
1分で行けるかもしれないと思った。

一番後ろの車両の一番後ろのドアに
移動して、停車とともにダッシュした。

なんとか間に合ったらしく、
カードを入れると便が表示される。

搭乗券も出た。
ところが、「一時搭乗手続きを停止してます」
という。

高松が濃霧で、飛ぶかどうかわからないという。
そのうちに、ひょっとしたら伊丹か
徳島に降りるかもしれないが、その条件付きで
運行するとアナウンスがあった。

仕方がない。覚悟を決めて乗り込んだ。
眠っているうちに、無事高松に着いた
ようである。

アップ&ダウンの中で、ぎりぎりの
緊張で締め上げられていた
精神が眠りでリセットされた。

香川大学附属坂出小学校の研究授業に
おじゃました。
子どもたちの目がキラキラ輝いていて、
どんどん手を挙げる。

ダニエル・ピンクの著書にあった。
アメリカの小学校の教室で、
「この中で自分がアーティストだと
思う人?」
と聞くと、低学年ではみんな手を
挙げるのに、
高学年になればなるほど周囲を
見回して大人しくなる。

ボクは、坂出小学校の子どもたちが、
いつまでも目をきらきらと物怖じ
しないで発言する、そんな風で
いて欲しいと思う。

講演を終え、みなさんと歓談して、
瀬戸大橋をわたって大阪入りした。

ホテルの部屋で、
『プロフェッショナル 仕事の流儀』
の小山好晴さんの送別会会場
と結んで話す。
小山さんは栄転されるのである。
とても温かいお人柄で、信頼申し上げて
きた小山デスク。
寂しいですが、どうぞ新天地で
ますますご活躍ください!
今度お目にかかる時は、いろいろ
お話したいです。

サントリー音楽財団の佐々木亮さん、 
江村哲二さんと落ち合って、
いろいろと話しながら食事をとる。

土曜日のコンサートに備えて、
早くベッドに就く。
なんだか遠足の前の日のようで
ドキドキする。

最初はどうしたら良いのか
わからず途方にくれる。
それでも、それを乗り越えて
いくと、
魂がふわっと軽くなる。
そのようなことを何回
できるかが、
人生の勝負というものであろう。

5月 26, 2007 at 07:34 午前 | | コメント (2) | トラックバック (4)

2007/05/25

自分があることを感じている時に

 ある重要な会議で話す。

 1200名あまりの参加者の
うち、900名が日本人、300名が
外国人。

 同時通訳が入る会場の雰囲気は、
独特のものがある。

 リハーサルや、セッションの
合間に、いろいろな人と話す。
 異なる文化から来た人からは、
思わぬ発言が飛び出すことが
ある。
 そのズレ、不意打ちが
心地よい。

 先日のDaniel Pink氏との
対論の中で、会場にいた在日
外国人から、偶有性という視点から、
日本の社会にある様々な「儀式」
には、秩序をもたらすという
作用があるのではないかという
発言があった。

 茶道や武道、その他の儀礼の
内部にいる人には思いつかないことだし、
「何もわかっていない」との反発も
あるだろうが、
 しかしその意外感こそが価値
なのではないか。

 あたたかい海で泳いでいたら、
不意に冷たい水に出会う。
 その瞬間がキモチいい。

 研究所に戻り、
学生たちと議論。
 
 ボクは研究所にいる時は、ほとんど
自分の部屋にいない。
 みんなが通るパブリック・スペースで
仕事をしていて、
 声がかかるとぱっと仕事を
やめて話をする。

 柳川透、小俣圭、須藤珠水、
田辺史子と議論した。

 特に、田辺とは、タスクの設定に
ついていろいろ話す。
 途中で田谷も加わる。

 夜、渋谷で宇川直宏さんの
新作を見て、それから宇川さんと
お話する。

 ひとしきり終わった後で、渋谷の
壁画の前でヘンなポーズをとって
宇川さんと写真を撮った。
 
 うおー。
 妙なヒトタチが夜の街に現れた。

 一日を振り返って。

 自分があることを感じている時に、
その事実を認め、受け入れることが「自由」の
もっとも大事な要素である。

 日本の社会を見ていて、
 ボクが今一番気にしているし、
危惧しているのは、
結局そのことなのではないかと思う。

 自分が感じていることにさえ
気付かなくなってしまっては、
 芸術も人生も死んでしまう。

 Honesty is the best policyというのは、
他人に対してではなく
 自分に向けられている。

5月 25, 2007 at 06:50 午前 | | コメント (10) | トラックバック (2)

2007/05/24

湖のように

ときどき、孤独な空気を漂わせている
人を見かけると、はっとする。

自分と周囲との間合いがつかない。
それでも、朝の湖のように凛と
澄んでいて、
離れていることから醸し出される
よどんだものがない。

自分と同じだなと思う。

生きるということは、つまり、
孤独であることの技術のこと
なのではないか。

スーパーはくとに乗ったら、
席の横にコンセントがあったので
ほっとした。

バッテリーをひとつしか
持って来なかったことを、
ずっと後悔していた。

日本海側から太平洋側に
抜けながら、一生懸命
柳川透くんの論文を読んで、
英語表現を含めてファイナライズ
した。

姫路、三ノ宮、大阪。
柳川くんに送ってから、
遅い朝ご飯を食べる。
カニと、様々な鳥取の名産。

大阪大学に行く時にいつも
つかう北大阪急行に乗る。

千里中央の前に、「緑地公園」駅
というものがあり、どんな
所なのだうと想いをめぐらせていたが、
ついに降りる時が来た。

今週末にあるtransmusic 2007
のリハーサル。

江村哲二さんの日記
にあるように、私は最初は緊張して
いたのだろう。

齋藤一郎さんがタクトを振り下ろし、
美しくも濃密な音が鳴り始めたとき、
「おい待てよ、こんなことが、オレに
できるわけがないだろう!」
と思った。

でも考えた。
人生、最初にやることばかりじゃ
ないか。
赤ちゃんがよちよち歩きするのと
同じだ。

丹精込めた楽譜が音に変わる。
その魔法の瞬間を、江村さんは
どんな思いで向かえたことだろう。

こんなことできるわけないだろう。
そういうことを時々やらなければ、
人生の価値がない。

江村さんのためにも、エイヤッ!

すばらしい曲です。ぜひ聞きに
きて下さい。

新幹線で東京に戻り、
もう一つのリハーサルに参加する。

さすがに疲れたのである。

昼間は暑かったろうと、
ベランダの植物たちにじょうろで
水をかけてやると、
自分の心もしっとりと濡れて
いく。

生命を液状化すると、様々な
ものに形を変える。
しみ通り、超え、定着していく。

ボクも江村さんも、そして
植物たちも、
みな孤独の空気を漂わせている
その理由は、
「水」にあるんじゃないか。

だから、湖のようにそこにあるのだろう。

5月 24, 2007 at 05:47 午前 | | コメント (13) | トラックバック (3)

2007/05/23

他人を鏡として自分を知ること

Lecture Records

茂木健一郎

「他人を鏡として自分を知ること」

鳥取市民会館 2007年5月22日

音声ファイル(MP3, 39MB, 42分)

5月 23, 2007 at 10:15 午後 | | コメント (6) | トラックバック (2)

自己隠蔽文

Lecture Records

茂木健一郎
東京芸術大学美術解剖学講義
『自己隠蔽文 理論と実作』

2007年5月7日
東京芸術大学上野キャンパス

「理論」 音声ファイル(MP3, 10.5MB, 11分)

「実作」 音声ファイル(MP3, 56.0MB, 101分)

5月 23, 2007 at 10:13 午後 | | コメント (3) | トラックバック (1)

ボクは今のところ

朝一番で聖心女子大の
授業を終え、
 千駄木の武者小路千家へ。

 千宗屋さん、白洲信哉さんと
日本文化について話す。

 仕事をしながら羽田空港へ。

 鳥取市民会館にて、鎌田東二さんと
話す。

 今井書店 吉成店にて、私のサイン本が若干
販売される予定です。早い者勝ちです。
山本博崇さんに渡しました。

 かに吉という店で、とても美味しい
思いをしました。

 千さんのよく考え抜かれた
おもてなしの設いに
凄みを感じる。
 白洲信哉がそれを次から次へと
読み取っていくのが快感であった。

 どうも、白洲信哉と話すと、
池上高志と話しているように
妙な掛け合いになる。

 それが、端から見ていると面白い
のであろう。

 茶は器だという。
 なるほど、
 一つのものに寄り添っていれば、
それが次第に育ってくる。
 問題は、何に寄り添うか、それを
決めること。

 鎌田さんは、新月の夜、
懐中電灯も持たずに山の中を
歩くのだという。

 ボクは山に泊まった時など、
くらい森の入り口まで行って、
怖ろしいものの気配を感じて
それで帰ってくるが、
 鎌田さんは中に入っていく。

 四国で育って、親から
逃げるために夜の森に潜んだ
幼少期からのなにかがある。
 駆け落ちは佐渡から隠岐へ
向かったのだと言われて
快笑した。

 鎌田さんは、異界との交流の
術を知っている。
 ボクは今のところ文明の中に
いて異界をのぞき込んでいる。

5月 23, 2007 at 07:50 午前 | | コメント (9) | トラックバック (2)

2007/05/22

プロフェッショナル 仕事の流儀 鈴木成一

プロフェッショナル 仕事の流儀 第52回

誇りは自分で創り出す
〜装丁家・鈴木成一〜

私は、以前、『プロセス・アイ』の装丁を
鈴木さんにやっていただいたことがある。
お仕事の背景にあるものをうかがって、
ますます、美しいカバーを手にした時の
感激が甦る。

NHK総合
2007年5月22日(火)22:00〜22:44

http://www.nhk.or.jp/professional/

5月 22, 2007 at 08:00 午前 | | コメント (10) | トラックバック (14)

干渉色

ソニー本社で会議。

大手町の日経サイエンス編集部で、
東京農業大学の長島孝行先生に
お目にかかる。
昆虫がシルクを吐くメカニズムや、
さまざまな繭、
蝶の羽の「構造色」
など、私の大好物のお話。

長島先生がつくった、
珍しい蛾のシルクでつくったマフラーと、
モルフォチョウと同じ原理
で輝くマグカップなどをいただく。

長島先生、ありがとうございました。

話し方や間などが、なぜか養老孟司
先生を思い起こさせる。
なつかしいヒトであった。

打ち合わせ二件。
東京芸術大学で美術解剖学の授業。

上野公園での「延長授業」の
最中、研究室の野澤真一、箆伊智充と
いささか深刻なる議論を交わす。

六本木ヒルズに移動。

A whole new mindの著者、
Daniel Pink氏と創造性について
議論する。

Pink氏はいいヒトであった。
冒頭、ロースクールに入り、
しかしながらあまりそれに
合わず、
弁護士にはならなかった
という話をした。

それで、ぼくはPink氏が
A whole new mindを書いた
理由が深くわかったような気がした。

それは、一つの自己発見の旅だったの
である。

打ち上げの時に、ボクは、
「これからは日本語の仕事は減らして
いくのだ!」
などと息巻いていた。

六本木ヒルズから見る夜景は、
まぎれもない東京のそれであった。

『キル・ビル』や『ロースト・イン・
トランスレーション』は見ていないが、
小林秀雄の湿り気のあるあの麗しき
声との境界面に不思議な干渉色が
見えた。

モルフォも、羽ばたく時には
「もう一つの」を夢見るのであろう。

5月 22, 2007 at 07:31 午前 | | コメント (9) | トラックバック (3)

2007/05/21

東京芸術大学 美術解剖学 講義

東京芸術大学 美術解剖学 講義

2007年度第2回

茂木健一郎 
Lecture and workshop
隠蔽と告白の技術
The art of concealing and confession.

2007年5月21日(月) 
午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室(2F)

http://www.geidai.ac.jp/access/ueno.html

聴講歓迎!

5月 21, 2007 at 06:57 午前 | | コメント (4) | トラックバック (3)

鈴が坂道を転がるように

梅田望夫さんと、記者会見した。
帝国ホテルの横で、
『フューチャリスト宣言』について
思いのたけを話した。

会場に行くために日比谷公園を抜けた。
ボンボゴボンボゴボンボゴボンボゴ!
太鼓を打っている人たちがいる。
芝生の中で踊っている。
アフリカのフェスティバルを
やっているのだった。

ボンボゴボンボゴボンボゴボンボゴ。
何となくリズムが身体にしみついて、すいすい
歩いて行く。

何だか照れくさかったが、
梅田さんと二人で並んで、
本について一生懸命話した。

いろいろ真面目な話をした。
休日だというのに来てくださった皆様、
ありがとうございました。
記事を拝読するのを楽しみにして
おります。

みんなが帰った後、「ちくま」
のための対談をした。
その時想い出したことがある。

ボクは梅田さんと気が合う。
その感じが、前に経験した何かに
似ているなあと思って、
はっとわかった。

ボクは、小学校2年生の時に、
気分が悪くなって保健室に
行ったことがある。

消毒液の匂いがつーんとする
部屋で、白いシーツの上に
横になって眼を瞑っていた。

そうしたら、クラスメートのTクンが
やはり気分が悪くなって保健室に来た。

ベッドが一つしかなかったので、
Tクンもボクの寝ているベッドに
寝かされた。

小学校2年生のボクたちよりも、
ベッドは十分大きかったから、
窮屈ではなかったのだけれども、
ベッドの上で、Tクンを顔を
合わせているうちに、
授業中にこうして二人で
真っ白いシーツの上で眠っている
状態が何ともいえずおかしく、
くすぐったくて、
ボクたちは思わず笑ってしまった。

一度笑い出すと、もうあとは鈴が
坂道を転がるように止まらなくて、
ずっとTクンと顔を合わせて笑っていた。

梅田望夫さんと一緒にいる時の
感じは、あの時に似ている気がする。


5月 21, 2007 at 06:54 午前 | | コメント (8) | トラックバック (18)

2007/05/20

「読む」ことの意義

ヨミウリ・ウィークリー
2006年6月3日号
(2006年5月21日発売)

茂木健一郎  脳から始まる 第55回

「読む」ことの意義
抜粋

 読むと言っても、本を「読む」というだけの意味ではない。英語では、何かを専攻することを、「読む」(read)と表現することがあるのである。
 「彼はオックスフォード大学で英文学を読んだ。」「私は、ケンブリッジ大学で哲学を読んだ」というように表現する。この伝でいけば、トニー・ブレアさんは大学で「法哲学」を、ゴードン・ブラウンさんは「歴史」を「読んだ」ということになる。

全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/


5月 20, 2007 at 08:16 午前 | | コメント (2) | トラックバック (1)

ゆったりと曲がってくるので

このところ、どんなに
忙しくても、朝に
意地で少しでも走る時間を
設けるようにしている。
そうすると、一日中身体が
軽いように感じるし、
お昼になった時に、お腹の空き方が
違うように思うのだ。

金曜日、ゼミの前に研究室の
面々と五反田の「あさり」に行った。
飲み会では数限りなく行っている
店だが、お昼に行くのは初めてだった。

ボクは、最近なぜか豚のショウガ焼きが
大好きになってしまって、それを
注文してから学生たちに
上の「朝のジョギング」話を
したのである。

「だからださあ、お腹が空いちゃうから、
朝ご飯も一杯食べてしまう。そういうわけで、
絶対ダイエットにはならないと思うんだよ」
と付け加えた。

すると、野澤真一が、例の「ゆったりと
曲がってくるのでついつい見逃してしまう
カーヴ」のような雰囲気で、ノターっと
言った。

「茂木さん、朝目覚めて
すぐ走ると、身体が、今日は活動する日だ、
と思って、新陳代謝が上がるんですよ。」
「むむむ?」
「それと、朝ご飯を食べると、身体が、
今日はたくさんご飯が食べられる日だ
と思って、エネルギーを節約するのを
やめるんですよ。」
「ほほほう。野澤くん、それは科学的に
見て本当なのか?」
「いや、その、そんな話を聞きました。」

どうもキキカジリのようである。

野澤説が正しければ、朝走って
ごはんを沢山食べるというのは
良いことだということになるが、
まあどちらでもいいや。
とにかく木々の間を走るのは
気持が良い。

2、3日前に、走りながら考えた。

今の世の中、一番必要なものは「熱」だ。
「凝縮」だ。どれくらい凝縮して、熱を
発しているか。インターネットなどの
情報表現、伝達手段があるから、
ある場所で濃密な熱が発せられていると、
世間は「何だこれは」と近寄ってくる。
アクセスは増える。だから、何よりも、
驚くべき集中を持って熱を発する
ことが必要だ。
世界のどこにもない、オリジナルな熱を。

モウレツに生きたいなあと
考える。
そのモウレツさが何に由来するかと言えば、
それは、胸の奥深くしまってある、
私秘的な消息以外ないのだ。

5月 20, 2007 at 06:52 午前 | | コメント (13) | トラックバック (8)

2007/05/19

ジャンケンポーとばかり

鈴木健が研究所に来て、
ゼミで最近の活動を話してくれた。

鈴木健は、東京大学の池上高志研究室の
元学生で、
今はサルガッソという
会社をつくっている。

ボクは、鈴木健が紹介したnotaというものを
さっそく試してみた。
おもしろい。

http://nota.jp/trial/designer/?20070519090156

みんなも登録してやってみるとよろし。
これは、誰でも人の描いたものに
編集を加えられるので(wikiみたいなやつ)
ボクは最初にクジラを描いたのですが、
時間とともに他のものになって
いってしまうことであろう。

鈴木健は、picsyの頃から、
何かをずっと夢見ていて、しかし
貨幣というアプローチだけでは、
そのなにかがおそらく実現できないでいて、
最近のSNSとか、リコメンデーションとか、
関係性をインテリジェントに
扱う必要のある問題領域が出現して、
初めて何やらカチリと硬いものに
着地しつつあるように思う。

髪の毛が長かった。
「一年切っていないんですよ」
と鈴木健は言った。
ナニクソ、チクチョウという
気持はボクにもあるよ。

指揮の齊藤一郎さん、ハープの
篠﨑和子さんを交えて、江村哲二さんと
transmusic 2007の打ち合わせをした。


江村哲二さんと齋藤一郎さん

食事に向かう時に、
鉄道の橋の上にたくさんの人が
並んでいた。
サントリー音楽財団の
佐々木 亮さんは事情通である。

「あれは何ですか」
「ドーナツです。ずっとああやって
並んでいるのです。」

ボクは江村さんに言った。
「ボクだったら、列を作っているのを
見た瞬間にくるりと回転して方向を変えるぞ」
「私もそうです。」
「ボクの周りに、列に並ぶのが好きな人はいない」
「そうだそうだ」
「それくらいだったら、他の所にいった方が
ましだ」
「まったくまったく」

それから江村哲二さんは、今の日本には、
行列をつくるのが好きな人が増えているん
じゃないか、私たちは絶滅危惧種なのでは
ないかと言った。

肯いた私たちに、新宿の風は肩すかしをくらわせた。

電通の佐々木厚さんもいらして、
筑摩書房の増田健史、大場旦という
最凶編集コンビが登場した
あたりから、どうも座の雲行きはアヤシクなり、
ボクはまたしても増田健史と憲法問題
を論じてしまったのである。

ボクと増田健史とお酒を一緒に投げ込んでおくと、
色っぽい方向には全くいかないで、
ジャンケンポーとばかり
額にしわを寄せ、口角泡を飛ばして
憲法問題をギロンしてしまう。

全く、どうしてそうなるんだろう。

大場旦は、「増田さん、
もうこうなったら、飲み直しましょう」
などと言いながら、
ひゅーんとUターンしてきて、
「茂木さんはですねえ」
などとまたもやギロンを吹っかけるの
だった。

時間はさかのぼる。
新潮社の北本壮さんが韓国で出版された
『脳と仮想』を送ってきてくださった。


なんだかボクの本らしいが、
no to kasoというのと、茂木健一郎というのと、
Kenichiro Mogiというのと、1000というのと、
Qualiaと書いてある以外には全く読めない。

呆然として、しばらくハングル文字
について読み物をしてみたが、やっぱり
わからない。

途方にくれるというのは爽やかなもの
である。

私はいろいろと途方にくれ、
えいもう勝手にしろ、と思う。

きっと、大切なこと以外はどうでも
いいのだろう。
ただ、その「大切なこと」がなかなか
見えないから、人間はあっちでうろうろ、
こっちでへろへろしているのであろう。

やっぱりボクらは志をともにしている
のであって、
仲間たちとの絆だけが、人生を支えてくれる。

5月 19, 2007 at 09:45 午前 | | コメント (15) | トラックバック (7)

2007/05/18

ひらめき脳 10万部突破!

消息筋からの情報によりますと、
新潮新書 『ひらめき脳』の増刷が決定し、10万部を突破
いたしました。

これで、革装され、新潮社の「殿堂室」
に飾られることになります。
そして、著者たる私も、革装版「ひらめき脳」
をいただけるのです。

著書が10万部を突破したのは恥ずかしながら
初めてであります。

新潮社の北本壮さん、金寿喚さん、
ありがとうございました。

そして、何よりも、読者のみなさんの
ご愛読に心から感謝いたします。


5月 18, 2007 at 08:44 午前 | | コメント (5) | トラックバック (1)

ふくらましてからぎゅっと絞る

11月にサン・ディエゴで行われる
「北米神経科学会」(society for neuroscience
annual meeting)のアブストラクトの修正
締めきりが、今朝の6時だった。

私の研究室から何人か出すので、
その「最終編集」(finalize)の
作業を、「プロフェッショナル 仕事の
流儀」の収録が終わり、ゲストの
菊池恭二さんとの懇親会に
住吉美紀さんが現れたところで
「バトンタッチ」して始めた。

研究室のボスというのはつらい
ものであるゾ。
一人ひとりはアブストラクト一つだが、
それをfinalizeするのは同時並列である。

先日、NHKの人たちと楽しく
花見をしながら、必死になってASSC11の
アブストラクトをfinalizeしていた
あの春の日が想い出されることであるよ。

気付いたことがある。星野英一クンは
妄想系であり、野澤真一クンは
案外慎重派であるなあ。

星野くんはイギリスにしばらくいた
こともあって、英語が一応できる
はずなのだが、その文章はなぜか
ムムムと首をひねらせるもので、
何か言いたいらしいのであるが、
何が言いたいのか、判じ物のようで
よくわからない。

考えてみるとスゴイ才能である。
本人には脈絡がついているの
であろう。
「何かを言っているらしいが、
よくわからない」真性異言の大先達
としては、わが友塩谷賢クンが
いるのであるが、
星野クンも弟子入りするのであろうか。

しかし、科学界には塩谷賢、あるいは
エマニュエル・カントのような真性遺言
を理解するひとは少ないと思われ。

少しずつ、明快なる文章を書けるように、
精進されたい。
私も応援しますゾ。

一方の野澤真一くんは、普段の生活を
見ていると案外妄想系のようにも
思えるのだが、
書く文章は非常に慎重であった。
これはどういうことだろうか。

少しく、味わいが足りない。

野澤くんのミニマリズムに、私は
少々ふくらし粉を入れて分量を
増やしたのである。

人生の要諦は、ふくらましてから
ぎゅっと絞ることにある。

ふくらます方は、銀河大宇宙までやって
よろしい。
絞る時は、身の丈まで絞ろう。

野澤くんと星野くんを足して
二で割るとよろし。

少しハイブリッドの実験でもしてみようか。


妄想系の雄、星野英一クン。


慎重系の猛者、野澤真一クン。

5月 18, 2007 at 08:38 午前 | | コメント (14) | トラックバック (4)

2007/05/17

『生きて死ぬ私』(ちくま文庫版)6刷

『生きて死ぬ私』 (ちくま文庫) 
は増刷(6刷、累計24000部)
となりました。
ご愛読に感謝いたします。

「母と仏壇」など、若くてオロカであった
当時でしか書けなかった(今でもオロカである
という説もあるが)エッセイ集であります。


5月 17, 2007 at 08:56 午前 | | コメント (5) | トラックバック (1)

ボクたちのくさりがま

わっせわっせと大手町に
行く途中で、約束の日を間違えて
いたことに気が付いた。

 呆然として、日経サイエンス編集部の
糸屋さんに「へへ、間違えて
しまったんですよ」と連絡して、
笑いで少しは元を取ろうとしたら、留守だった。
 
 仕方がないから、物事を
考えながら久しぶりに本屋に行った。
 OAZOの中にある丸善。

 ここのところネット書店ばかり使って
いたが、久しぶりに物理や数学、そのとなりの
生物の売り場に行って、
リアルな本が圧倒的な並列性で囲む
臨場感に圧倒された。

 ボクは、ネットは取り敢えず
グーグル、ユーチューブのような
データベースで良いのではないかと
考えている。 
 中途半端なヴァーチャルリアリティは
役に立たない。

 Second Lifeのようなものは、
一時期のcuriosity valueで終わるのでは
ないかと予想する。

 私たちは立派な身体性を持っている
のであって、
 むしろ欠けているのは圧倒的な
データベースと、相互リンクに基づく
情報の「圧縮」である。

 インターネットには、取り敢えずそれを
担当してもらう。
 当分はそこが主戦場ではないか。

 身体性は本当のリアルに求めれば良い。

 大宅映子さんにお目にかかる。
 中心にすっくりと芯が通っている。

 甲野善紀さんとお話する。
 
 甲野さんの提唱されている、
身体の筋肉を並列的、総合的に
駆使する武術についていろいろ
考えているうちに、ああそうかと
気付いた。

 脳と身体を二項対立的に
考え勝ちだが、むろん脳も
また身体であり物質である。

 それが自然法則に従うシステムである
以上、脳髄とても自由ではなく、
そもそも自由意志があるのかという
問題に直面する。

 脳の中にも当然「身体性」はある。
それは、私たちの精神のembodimentである。

 甲野さんの言われる、単一の筋肉を
マシーン的に鍛えるのではなく、
 同時並列的に柔軟に用いて、
その結果神業的な仕業をするということは、
脳にも当然ある。

 総合的知性とは、つまり、
脳という身体を同時並列的かつ柔軟に使い
こなす、その身体運動のことを
指すのであろう。

 そう気付いてみれば、何だ
そんなことかと思う。

 脳と身体を二項対立的に語る
議論が、一見わかりやすいようでいて
実はうさんくさいものであった理由が
ここにある。

 甲野先生と床の間で記念撮影。

 夜の会合。
 桑原茂一さんがとても元気で瞠目した。
 くさりがまを振り回し、槌で壁を壊し、
えいやえいや、
 「そりゃあやるしかないでしょう」
 「そこを突破でしょう」
 「ターゲットは決まりましたね」
などと、頼もしいお言葉の数々。

 モイチさんの気合いは、ボクの今の
気分と呼応する。
 ものわかりのいいことばかり
言ってもいられない気がする。

 ざけるんじゃねえよ。

 もうこうなったら、ブンブンだぞ!

 金沢の田森佳秀があまりの仕事の
忙しさに元気がないというので、
今度励ましに行きたいなあと思う。

 ボクたちのくさりがまよ、
天まで届け!

5月 17, 2007 at 08:44 午前 | | コメント (8) | トラックバック (6)

2007/05/16

バンザイオオバタン

聖心女子大学の授業を終え、
途中で仕事をしてから、
NHKに向かった。

お昼時。NHK出版の大場旦さんに
電話する。

なんだか気になっていたのには、
理由がある。
原稿を書いていないのだ。

議論を
していて、興に乗るとテーブルを
ドンドン叩くオオバタン。
社会思想系の本の編集者として、名をとどろかせる
オオバタン。
怒濤の原稿追い込みを得意技とする
怪奇オオバタン。

しかしながら、私がオオバタンと
書いている「美」についての本はすっかり進行が
遅れていて、まことに申し訳ないと
思っていたのである。

そば屋に入り、
席に座って、「さてさて」
と切り出した。

「最後にお目にかかったのはいつでしたか」
「1月ですよ、茂木さん」
「はあ、そうでしたか」
とトボける。

「とにかくですね、11月には
出していただかないと!」
「最後にオオバサンと本を出したのは
いつでしたかねえ」
「2004年ですよ、茂木さん。
『脳内現象』ですよ。忘れたんですか。」
「ということは、3年経ったんですねえ。
いやあ、時間が経つのは早いものだ。」
「茂木さん、このそば屋を覚えてますか?」
「ええ、来ましたねえ」
「『心を生みだす脳のシステム』を書き上げて、
打ち上げできたところじゃないですか! あの
頃は、茂木さん、ちゃんと原稿を期日までに
書いてくださっていましたねえ」

話しているうちに、オオバタンの
表情が険しくなってきた。

端正な渋面が、ますますシブクなった。


コワイオオバタン

これはマズイ。怪奇オオバタンの
本領を発揮されてはアブナイ、
と、私は懐柔を図った。

「実はですね、この間も、美の問題については
思索を重ねてきたわけですよ。」
「・・・・」
「つまりですね、千利休における、
美の革新の問題であるとか、あるいは
笠智衆の微笑みにおける、聖なる
私秘性のテーゼ、さらには、美という
課題をですね、より広い生命哲学の
文脈の中に位置づける試みがあるわけで
して。」
「・・・・・」
「つまりですね、そのような課題を」
「・・・・」

オオバタンのシブ面は変わらない。

やがて、オオバタンは、いつもより
ドスの利いた言葉で、
「なんだかんだ言っても、ブツがないと
困るんですよ」
と漏らした。

ボクは、肝を冷やした。

いよいよ
暗黒の雲が立ちこめ、雨がザアザアと
降り始めるかと思ったが、
案に違って。
言うべきことは言った、と思ったのか、
オオバタンの表情が次第に明るくなってきた。

ソバをすすり、
いつものように思想界の動向などに
ついて語り合っているうちに、
「納期の遅れ」などの問題点が
あったとしても、オオバタンと私は
同志であるという原点が確認され、
そしてオオバタンはついに、
「わははははは」
と笑ったのである。


バンザイオオバタン。

笑った笑った。オオバタンが笑った。

コワイオオバタンが、バンザイオオバタンに
なった。

ボクは、たとえこわくても生きていて良かった!
と心から思ったのである。

5月 16, 2007 at 07:04 午前 | | コメント (11) | トラックバック (5)

2007/05/15

プロフェッショナル 仕事の流儀 藤澤和雄

プロフェッショナル 仕事の流儀 第51回

藤澤さんは、馬の個性を見きわめるために、
本当にたくさんの時間を一緒に過ごす。
どれだけの時間とエネルギーを投入するかで、
培われる関係性の深さが決まる。

NHK総合
2007年5月15日(火)22:00〜22:44

http://www.nhk.or.jp/professional/

5月 15, 2007 at 07:41 午前 | | コメント (2) | トラックバック (4)

千利休の凄み

ヨミウリ・ウィークリー
2006年5月27日号
(2006年5月14日発売)

茂木健一郎  脳から始まる 第54回

千利休の凄み

抜粋

 濃茶に続いて薄茶もいただき、しばらく談笑した後に「それでは」と茶室から出る時になって、千利休の成し遂げたことの深い意味に思い至った。
 当時の最高権力者、豊臣秀吉に利休が重用されたことは良く知られている。当時主流だった中国伝来の「唐物」と呼ばれる道具を用いた豪華な茶会とは対照的な利休の「侘び茶」の精神は、秀吉にどのように映ったか。

全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/


5月 15, 2007 at 07:06 午前 | | コメント (3) | トラックバック (2)

くるくると回り続けているコマでも

 くるくると回り続けている
コマでも、呆然とすることはあるのであって、
昨日は少しそういう時間帯があった。

 「希望」というものは、どんな成分から
できているものなのだろう。
 何が起こるかわからないという
不安のすぐ近くに、「希望」はある。

 偶有性は、予想できないものと
予想できるものの混淆としてあり、
そのバランスを脳はうまくとる。

 確固とした信念や、理想、夢
があれば、その部分が「安全基地」
(secure base)として機能して
くれるから、十分な不確実性を
受け入れることができる。

 自分の中の理想を、赤々と燃える鉄の
塊のように、常に叩き、かたちを
調え、アップデートしておく
必要がある。
 
 何だからふらふら、くらくらと
どっちに行くのかわからない時代であるが、
自分の中に一つの理想が輝いていてこそ、
初めて何が起きても大丈夫と
思うことができるのだ。

5月 15, 2007 at 07:00 午前 | | コメント (12) | トラックバック (2)

2007/05/14

美術解剖学

東京芸術大学「美術解剖学」
の授業は、今日はありません。
来週開講いたします。

5月 14, 2007 at 08:44 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

自分の人生にとっての

夕刻、京都へ。

伊藤若冲の代表作『動植綵絵』が、
『釈迦三尊像』とともに展示される
という一世一代の展覧会があり、
その会場の相国寺を訪れる。

もともと、相国寺は、若冲が『釈迦三尊像』と
『動植綵絵』を寄進した寺である。
明治維新の時に、動植絵三十幅
が皇室に献上され、爾来、宮内庁
所蔵となってきた。

今回の展覧会は、いわば「里帰り」
であり、「釈迦三尊像」と一緒に
なるのは、実に120年ぶり。

今後も、当分はないのではないか。
少なくともハレー彗星くらいに
思っていた方が良い。

ブルータスの鈴木芳雄さんが
ニューヨークから帰ったその足で
かけつけた。
写真を撮ってくださった。

photo/ Yoshio Suzuki: http://fukuhen.lammfromm.jp/

感想はここに書ききれないが、
一つだけ。

若冲に、もし『動植綵絵』がなかったら、
私たちにとってこれほど大切な画家には
なっていなかったのではないか。

むろん、一つひとつの絵は、何とも言えない
タッチ、書き込み、繊細さ、線の力動に満ちており、
瞠目すべき作品に違いないが、
たとえばユーモラスな一品も、抽象的な
画面構成も、
一方で『動植綵絵』という絶対的な基準が
あるからこそ照射されるものがあるように
思われる。

若冲ほどの境地に至らないとしても、
自分の人生にとっての『動植綵絵』は
一体何か、一人ひとりが考えてみるべき
だろう。

5月 14, 2007 at 08:43 午前 | | コメント (9) | トラックバック (3)

2007/05/13

Transmusic 2007

「TRANSMUSIC 対話する作曲家 江村哲二」

2007年5月26日(土)
15時〜 大阪 いずみホール

江村哲二/≪可能無限への頌詩≫
語りとオーケストラのための
〜茂木健一郎の英詩による〜

の世界初演です。

コンサートにおいて、
私は、自作の英詩を朗読します。

http://www.suntory.co.jp/news/2007/9732.html 

5月 13, 2007 at 09:14 午前 | | コメント (4) | トラックバック (0)

Daniel Pink 茂木健一郎

Daniel Pink 茂木健一郎

対論は、英語で行われます。
(同時通訳つき)

2007年5月21日(月)
19:00〜21:00
アカデミーヒルズ

http://www.academyhills.com/biz/voice01.html 

5月 13, 2007 at 08:58 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

クジラやクラーケン

先日の東京芸術大学美術解剖学
の授業のあと、上野公園で
いつものように飲んでいると、
植田工がやってきた。

植田は、油絵科の学部の頃から
授業に出入りし、
布施英利さんの研究室に入り、
修士号をとるまで、
4年間ずっと授業やそのあとの
懇談などにおいて中心的な
役割を担ってきた。

初期のころ、「あるモノ」ばかり
描いているので「P植田」と
呼ばれていたうえだたくみくん。

私の芸大の授業は、つねに
P植田とともにあった。

うえだくんは、
修士論文を終え、無事ある企業に
就職し、4月から立派に社会人を
している。

その植田が、いつものようにニコニコ
ずんずんやってきて、
ボクと布施さんに、ほら、と包み紙を
突き出した。

なんだろうと思って開けて見ると、
Y’sのネクタイである。
真っ黒でスタイリッシュなやつである。

これにはボクは感激した。
社会人になって、お世話になった
お礼をするということなのだろう。
初月給、いろいろものいりだろうに、
植田くんありがとう。

さっそく布施さんと並んでネクタイを
した。

 人は変わる。変わらざるを得ない。
それは時に寂しいことであるが、仕方がない。
 そのふんぎりをつけるために、
儀式がある。

 東京芸大という池をひょろひょろ泳いで
いた植田工が、大海に出た。

 植田工くん、これからもどんどん
変わっていって、クジラやクラーケンになって、ボクや布施さんを
大いにびっくりさせてください。

 ボク自身は、大学に学部4年+2年(学士入学)
+5年(修士、博士課程)の計11年いた。

 ずいぶん親には迷惑をかけたから、
博士号を取得したその日、
授与式があったその足で「花ぶさ」
に行って両親とご飯を食べた。

ハカセとしての最初のご飯で
お礼をした。

もう随分遠い昔のように感じる。

人間というものは変わっていくものだが、
自分の中のアイデアもまたそうでは
ないかと思う。

あたためているアイデア、希望、
そいつらをどんどん進化させてやりたい。

生物において、「世代交代」
というものが、死ぬ個体にとっては
つらいことだけれども、進化のために
仕方のない儀式であるように、
自らの内なるイデーの進化においても
きっと儀式は必要である。

「小さなモンスター」を爆発的に
発展させるためには、
一体何が必要なのだろう。

 ボクの人生は一回限りだが、
その中で、イデーたちは何回も
死に絶え、再生し、進化していく。

5月 13, 2007 at 08:29 午前 | | コメント (8) | トラックバック (3)

2007/05/12

つー

シャワーを浴びて、しばらく
そのまま立っていると、
水滴が「つー」と身体の表面を
すべっていくのが感じられる。

いつもそんな細部に注意を向けているわけで
はなく、そもそも
そんなことを考えたのは10年振りとか
なのではないか。

世界は、ついつい忘れがちな細部から
成り立っている。
心を込めて、その一つひとつに
向き合うことから、
様々な深い世界が見える。

早い話が、身体の表面を「つー」と
水滴が滑っていく、
その様子を探究することで成り立つ
科学もある。

その一方で、「全体」を見ることを
忘れてはいけない。
「つー」に付き合っているだけでは
だめである。

そもそも、「つー」に向き合う科学者は、
決して細部に尽きているわけではなく、
過去の経験や感覚や運動の連合の、
すべての組織体を総動員している。

全体を見ている時にも、細部に向き合っている
時にも、結局は複雑で巨大な
「私」といううごめく
岩山がそこに介在しているのだ。

どんなに小さなものに向き合っても、
結局は「私」がそこに介在するもの
ならば、
たまには世間に背を向けて、
世の流れにも気を留めず、
思い切り微に入り細に入った
小さな世界に沈潜してみよう。

やがて、
そこからのゲシュタルト崩壊が、
概念波のビッグ・バンを起こし、
その波乱が、あっという間に宇宙全体に
広がっていく、その様子に傾倒して
みよう。

つー。

電通の佐々木厚さんがアサカルの後の
飲み会にヨーロッパ土産の素敵な
お酒をもってきてくださった。

そのグラスの中を泳いであちらこちら
行っていた泡と、朝のシャワーの
「つー」は、私の意識の中で、
同じ素材でできていたんじゃないか。

5月 12, 2007 at 08:59 午前 | | コメント (6) | トラックバック (3)

2007/05/11

対談 マンガの神さまはどこにいる

対談 マンガの神さまはどこにいる

浦沢直樹 × 茂木健一郎

朝日カルチャーセンター
2007年6月1日(金)18:30〜20:30

「手塚治虫の再来」と言われる浦沢さんとの
スリリングな対論です。

http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0704koza/A0102_html/A010201.html

5月 11, 2007 at 06:35 午前 | | コメント (2) | トラックバック (5)

脳と創造性 第2回

2007年5月11日(本日)

「脳と創造性」第2回
朝日カルチャーセンター新宿

18:30〜20:30

http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0704koza/A0301.html#

5月 11, 2007 at 06:30 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

聖なるふるまい

私の敬愛する小津安二郎監督の
『東京物語』の中に、尾道
から出てきた父親が、飲み屋で、
友人に向かって愚痴をこぼすシーンがある。

カウンターに座り、東野英治郎演ずる
旧友に対し、
「うちの息子も、東京に出てくるまでは
もうちっと何とかなっていると
思っていましたが、それがあんた、
こまい町医者でさあ」
と吐き捨てる。

その前に、東野英治郎が、
「うちの息子は、部長部長と言って
いるが、本当はしがない係長でさあ。
それじゃああんまりみっともない
もんだから、人様には、部長部長と
言っているんだけれども」
と言っているのを受けてのこと。

心優しい父親が、旧友に自分の
子どもについて謙遜してみせた
ということはあるにせよ、
それまで柔和でにこにこ笑っている
笠智衆ばかりを見てきた
観客はショックを受ける。

 このシーンの後、笠智衆は、ふたたび
にこにこ笑っているだけの柔和な父親
になる。
 尾道に帰った母が急死し、
お葬式の後の酒席で、子どもたちが
「形見をくれ」だの、
「もう帰る」だの、勝手なことばかり
言っても、「そうか、もう帰るか」
とおだやかに言うだけである。

 神の眼、監督の眼、観客の眼を
持たぬ息子、娘たちは、穏やかな
父親の内面に「こまい町医者でさあ」
というような鋭い批評があるなどとは
夢にも思わず、永久の別れを
告げるのだろう。

 いくら忙しいといってもギャップ・
ハーフ・アワーくらいは必要だと、
 NHKに向かう時、時間はかかるが
明治神宮の森を歩き、つらつらと
考えた。

 自分のうちに浮かぶ様々な
想念のうち、何を外に出すか。
 これは、プライバシー
(自己に関する情報の管理)
に関する権利であると同時に、
聖なるふるまいでもある。

 神様はみんなお見通しだ。
自分も、さまざまなことを感じ、
知っている。
しかし、そのうち、ごく一部だけ、
世間にはわかりゃあいい。

 森の中を案内人を先頭に歩く一団がいた。
 
 たった30分の違いに過ぎない。
 それを惜しんで、タクシーで仕事を
しながら移動するようじゃあ、ボクの
人生はきっとおしまいになる。

 もし明治神宮の中を歩かなかったら、
笠智衆のことをこの文脈、このタイミング
で想い出さなかったろう。

5月 11, 2007 at 06:13 午前 | | コメント (10) | トラックバック (3)

2007/05/10

『音楽を「考える」』増刷

茂木健一郎、江村哲二
『音楽を「考える」』
(ちくまプリマー新書)は
増刷(2刷、部数未定)
が決定しました。

ご愛読に感謝いたします。


5月 10, 2007 at 07:31 午前 | | コメント (1) | トラックバック (6)

『フューチャリスト宣言』増刷

梅田望夫、茂木健一郎
『フューチャリスト宣言』
(ちくま新書)は増刷(初刷40000部、
2刷35000部、計75000部)
が決定しました。

ご愛読に感謝いたします。


5月 10, 2007 at 07:24 午前 | | コメント (3) | トラックバック (26)

ギャップ・ライフ

ギャップ・イヤーとは、
イギリスを中心に根付いている、
高校を卒業した後
大学入学の前に一年ほど、どこにも
所属せずに世界を放浪したり、
ボランティア活動をしたり、あるいは
働くという習慣である。

高校を卒業して就職する前に
ギャップ・イヤーをとる
場合もあるし、
仕事に就いてから、節目にとる
「キャリア・ギャップ」もある。

日本では、「履歴書に一日でも
穴が空くとまずい」とか、
「就職する時には新卒が優先」とか、
「フリーの人には家を貸さない」
などという訳のわからない前近代的
風習がある。

ボクはある種の怒りをもって、
「ギャップ・イヤー」的なものを
広めたいと思っているのである。

この話をすると、「茂木さん何を
言っているんですか、日本には、4年間
のギャップ・イヤーがあるじゃないですか」
という人がいて、周囲に爆笑が起こる。

大学4年間を遊んでいるということを
指しているのである。
しかし、所属する組織が決まっていて
ふらふらしているのは、
どこにも所属しないでふらふらする
イギリスのギャップ・イヤーとは
違う。

ギャップ・イヤーの趣意は、どこにも
所属しないで天涯孤独であるという
点にあるのである。

とは言っても、我が身を振り返っても、
日本の実態の中でギャップ・「イヤー」
をとるのは難しい。

だから、最近は、「普段と異なる文脈に
自分を置く」ギャップ・マンス、
ギャップ・ウィーク、ギャップ・デイ、
ギャップ・ミニット、それどころか
ギャップ・セカンドでも取り敢えずは
いいんじゃないかと思っている。

とにかく、「この時間は普段の
私とは違う」という隙間を創ることが
大切だと思うのである。

そんなことをつらつら考えながら
歩いていると、ふと、わが畏友
塩谷賢の顔が浮かんだ。

ご存じのように、塩谷は、東京大学の
科学史科学哲学科の大学院を修了した
後、千葉大学で一時期働いた以外は、
定職につかず、論文も書かず、
ただ学会や研究会には姿を現し、
深刻かつ鋭い発言をして、
「日本の哲学界に塩谷賢あり」
と畏れられている。

塩谷の人生を考えると、
それはひょっとしたら「ギャップ・ライフ」
なんじゃないかと気が付いた。

「ギャップ・イヤー」というと、
その両側には何か真っ当な仕事を
していて、それに挟まれた空隙という
意味を持つ。

では、生涯続く「ギャップ・ライフ」が
何か真っ当なものに挟まれているかというと、
そんなものはない。
前世や生まれ変わりなどあるはずもない。

「ギャップ・ライフ」とは、つまりは
一生空白が続くということではあるが、
しかしそれをgap lifeと言い直した
ことで、
何だか素敵な雰囲気が生まれる気がした。

そもそも、土地を考えれば、何かの
役に立っているということは、ロクな
ことじゃない。

神社の森など、世間の進展から
置いておかれたアジールの方が、
美しい自然が残っていることは
周知の通り。

そういえば、塩谷くんは何だか神社の
森のようなやつだ。
ギャップ・ライフでいいじゃないか。
ギャップ・ライフを貫くことで、
かえって瑞々しいなにかが生まれる
ということは、きっとあるんじゃ
ないかと思う。

そう考えると、何と気持が豊かになる
ことであろう。
地球の内部の方で、周囲の岩に挟まれて
動けないでいる塊よ。
何も通らず、起こらず、ただ広がっている
だけの宇宙のほとんどの真空よ。
誰にも知られず、ただ生まれ死んでいく
海の生きものよ。
君たちは、ギャップ・ライフを謳歌して
いたんだね。

それどころか、もっとも有為な人生を
送ったように見える人でも、
実はそれは一つのギャップ・ライフ
だったのだろう。

5月 10, 2007 at 07:18 午前 | | コメント (16) | トラックバック (10)

2007/05/09

聖なるもの

自分にとって「聖なるもの」
とは一体何だろうかと考える。
他人に何と言われようと、弱点や
短所を指摘されようと、
頑ななままにその価値を信じ続ける
ようなもの。

たとえば、自分の母親が、
しわくちゃのばばあで
あったとしても、他人にとやかく言われる
筋合いじゃねえ、といったような
魂の消息。

ものを知ったふりのやつらが、
「そんなものはねえ」と事情通ぶって
ささやいたとしても、自分の中では
絶対に揺るがないものとして
生き続けるもの。

そのような「聖なるもの」を
どれくらい魂の中に抱き続けられるか
ということで、人生の価値は決まるんじゃ
ないかと思う。

大変な一日であった。授業をして、
議論をして、取材を受けて、
対論し、ご飯を食べてまた
議論した。

ボクのガジェット好きを聞きつけたソニー広報の柳沢晶子さんが、
研究所までmyloの説明に来てくださった。

モニターをすることになった。

http://www.jp.sonystyle.com/Special/Mylo/Enjoy/index.html 


voice over IPなどがサポート
されているガジェットはちょうど興味を
持っているカテゴリーなどで、さっそく
使ってみようと思う。

NHKや幻冬舎などの立ち回り先に、
myloの箱をむき出しで歩いていたら、
みなさん親切で「袋を差し上げましょうか」
と言われる。

「いや、いいです」
と断って歩いていて、
最後にコンビニに入った。

レジで、お金を渡しながら、小脇に
箱を抱えていたら、店員さんが、
「そちらも袋に入れましょうか?」
と言って下さった。

何回目かの「いや、いいです」
を言って、夜の道を歩いた。

おちおちもしていられない
という気がする。

「聖なるもの」について
考える道筋となったのも、
それだけ勝負の時がキタのであろう。

5月 9, 2007 at 05:12 午前 | | コメント (12) | トラックバック (4)

2007/05/08

批評はいつ美になるのか

Lecture Records

茂木健一郎
東京芸術大学美術解剖学講義
『批評はいつ美になるのか』
2007年5月7日
東京芸術大学上野キャンパス

音声ファイル(MP3, 71.2MB, 77分)

5月 8, 2007 at 07:56 午前 | | コメント (10) | トラックバック (4)

プロフェッショナル 仕事の流儀 坂本幸雄

プロフェッショナル 仕事の流儀 第50回

坂本さんの頭脳の中には数字がたくさん詰まって
いて、その数字が生き生きと動き出す。
坂本さんのノートを見ると、
まるで論理学者のように、
記号や数字が簡潔に並んでいた。

NHK総合
2007年5月8日(火)22:00〜22:44

http://www.nhk.or.jp/professional/

5月 8, 2007 at 07:51 午前 | | コメント (2) | トラックバック (6)

『銭形平次』のテーマ

北九州空港で飛行機を待っていたら、
「きんさんぎんさん」のような
おばあちゃんが二人、
車椅子に乗って現れた。

そのうちの一人が、前に進みながら
「お〜と〜こだったあら〜 ひとつにか〜け〜て〜」
(『銭形平次』のテーマ)
と歌いながら押されていったのが
とても素敵で、心の中で拍手
してしまった。

スターフライヤーは、
座席の前に液晶画面がついている。
サルコジ氏がフランス大統領に当選した
ことを伝えるBBC worldのニュースを
見ながら、うとうとと眠ってしまった。

気が付くともう少しで着陸
するという。
液晶の地図によると、東京湾の千葉側にいた。
羽田空港は反対側だが、5分で
東京湾を横断するということになる。

全てのことが、流れていく。
どうしたら、ある一つのものを、手元に
とどめておくことができるのか。
グーグル時間の中で、
ある一つのものを見つめ続ける
ことが、むしろ批評的であるようにも
思われる。

結局はスケールの問題である。
車椅子で押されて「お〜と〜こだったあら〜」
と歌うおばあちゃんの足元の床では、
原子がものすごいスピードで通り過ぎ
つつある。

東京湾を5分でわたるのと同じような
事態が進行している。

結局、人間のスケールに様々なものを
引き寄せる、ということ以外にない。
一方では原子のスケールが存在し、
また一方では全球を覆うネットワーク
構造が存在するということを識りつつ。

自分のスケールに様々なことを引き寄せる
その手管の中に、『銭形平次』のテーマを
うたうおばあちゃんを一人置いておきたい。

5月 8, 2007 at 07:47 午前 | | コメント (4) | トラックバック (3)

2007/05/07

人は変わる

朝一番の仕事のために
九州入り。

博多でレイコおばさんの家に
行き、登山を趣味とする
「やまびこ会」の
五十嵐さん、中村さんとお話しした。

レイコおばさんが、ボクが大学生の
頃吉野ヶ里遺跡に一緒にいった頃の
写真を見つけて出してきた。

あのねえ。(笑)

人は変わるものである。
おお、水平方向の高度成長期よ。

写真の写真を撮った。

小倉に移動して、ヒデカズおじさんの
家にいった。

仏壇にマサミチおじさんの遺影がある。
マサミチおじさんは、喘息のために
二十歳くらいで亡くなってしまった。

絵がとてもうまくて、幾つか
両親が持っていたが、いつの間にか
どこかに行ってしまった。

ヒデカズおじさんの家に
あった、マッチ棒でつくった
とても精巧な船の模型も、
ヒデカズおじさんが家を新築する
時に処分してしまって、
それで私の母親(つまりマサミチおじさんの
姉)にずいぶん怒られていた。

マサミチおじさんがもし生きていたら
どんなことをしていたろうと、
時々想い出す。

亡くなった人は、覚えている
人が忘れない限り、この世にかすかな
存在を残し続けるのだろう。

ヒデカズおじさんの家は、
今は近くに大きな商業施設が
できてしまったが、
ボクが夏ごとに遊びにいって
いた頃は、
たんぼが広がっていて、その中に
小さな森があった。

あれは小学校に上がるか上がらない
かの頃、小倉のマサミチおじさんの家に
遊びにいっていると、
テレビでドラキュラの映画を
やっていた。
とても怖かった。

ドラキュラが出てきた
時のためにニンニクと十字架を用意しておこう
と思った。

映画が終わったら、マサミチおじさんが、
「けんちゃん、あの森の中に、ドラキュラ
がいるんだよ」と言った。
ボクはその話を本当に信じてしまって、
震え上がった。

マサミチおじさんは、その様子を
見てケタケタ笑っていた。
あの頃は元気だったのだけれども。

マサミチおじさんが生きていたら、
あの時のドラキュラの話をして
笑うんだけど。

人は変わる。街も変わる。

眠る前に、youtubeで
moon riverや、try to remember、
学生街の喫茶店のビデオを見ていたら、
切なくなりすぎたので、解毒剤として
BBCのコメディを見た。

5月 7, 2007 at 07:19 午前 | | コメント (13) | トラックバック (3)

2007/05/06

東京芸術大学 美術解剖学 講義

東京芸術大学 美術解剖学 講義

2007年度第一回

茂木健一郎 
「美と文脈」を巡って
Beauty and context revisited

2007年5月7日(月) 
午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室(2F)

http://www.geidai.ac.jp/access/ueno.html

聴講歓迎!

5月 6, 2007 at 10:16 午前 | | コメント (5) | トラックバック (1)

夢見ることに似た

夢は、昼間に体験したこと、
蓄積された記憶が整理されるプロセス
である。

 それがあたかも「私」という
自我の全体にかかわるような形で
進行することが面白い。
 記憶を整理するだけならば、
純粋に情報論的な理屈に基づいて
自我と無関係に行えば良いようなものを、
あたかも自分がその中に包み込まれて
しまったような感覚を伴って
全てが進む。

つまりは、体験というものは、「自分」
というものに関係して整理しなければ
意味がないことという
ことなのであろう。
常に、「私」が関与する形で
世界に関する知識を調えることで、
初めて「生きる」ことに資する。

知識というものが、「私」という
存在にかかわる形でいかに整理
されるか?
これは、インターネット上に大量の
情報が蓄積されるようになった
現代において、特に大切な命題になっている。

梅田望夫さんとの共著『フューチャリスト宣言』
の中でも発言したように、
現代の最高学府はケンブリッジ大学でも、
ハーバード大学でもなく、インターネット上にある。

入試もない。試験もない。学ぶ意欲がある
人には、誰にでも、最先端、最高の知識が
無尽蔵に用意されている。

入試という中途半端な知の遊戯で
「クラブメンバー」が決められていた、
「談合社会」は崩壊しようと
しているのだ。

ただし、それらの知見を有機的に生かす
ことができるようになるためには、
ある程度の準備がいる。

人生の機微を知らずして、
カントの哲学を読んでも仕方がない。

アインシュタインの一般相対論
にかかわる論文を読むのに、微積分や
テンソル解析に関する素養が必要なことは
言うまでもない。

ネット上に可能無限の学びの場が用意
されたがゆえに、かえって、
人格の陶冶、総合的な世界への向き合いの
力が必要とされているゆえんである。

夢の中で、自分が世界に向き合う形
でしか、知識が整理されないとの
同じように、ネット上の一つひとつを
とれば
断片的な知識の体系に向き合う
時にも、自分がそこに関わり、
様々なことを引き受けるかたちで
体験していく以外に道はない。

ネット上で様々な情報を識り、
漂い、移ろうことが、夢見ることに
似た体験をもたらす傾向があり、
またそうでなければならないのは、以上のような
理屈による。

5月 6, 2007 at 07:24 午前 | | コメント (11) | トラックバック (4)

2007/05/05

日経中編小説賞

日経中編小説賞

http://www.nikkei-bookdirect.com/st/index.html 

2007年12月1日受付開始

5月 5, 2007 at 10:40 午前 | | コメント (2) | トラックバック (1)

自分の中の植物

自分の中の植物

プロフェッショナル日記

2007年5月5日

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/professional/

5月 5, 2007 at 09:59 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

生きものであるのに

何事にも終わりがある。

 永遠に続くと思われる現在の地球の
環境も、現在45億歳の太陽が、これから
数十億年後に太陽が赤色巨星になって
しまえば終わりになる。

 学校でも、仕事でも、いつかは
終わりがくる。
 旅行にも、休暇にも、終わりがくる・

 終わりには、積極的な終わりと
消極的な終わりがある。
 地球から見て、太陽が赤色巨星に
なるのは消極的な終わりであるが、
 時には、生命のいまだ盛りにおいて、
一つのフェーズの積極的終わりを
自ら考えてみるのも良いのではないかと
思う。

 一つの文脈だけにはまって、
その中で最適化するというのは居心地の
良いことだが、一方で精神を弛緩させる。
 あるライフスタイルがずっと
続くと思えば、どうしても精神は弛緩する。

 いや、これがずっと続くわけではない、
次には、全く新しいフェーズが来るのだ
と思えば、自ずから精神は緊張するし、
それに備えて様々な準備をしようと
思う。

 そんなひんやりとした感覚は
生きる上で誰にでも必要なのではないか。

 石ころを見ていると、
ずっと動かない。
 その中心にある原子は、私が
穿って取り出さない限り長い間
そこにあり続けることだろう。

 生命は違う。常に変化の中にある。
じっととどまっていることなど
できない。
 生きものであるのに、石ころの
ように振る舞ってはいけない。

 常に前のめりで、一つの生の中で
いくつもの新しいフェーズに入っていく。
 そのように時間を過ごして、
初めて潜在力を発揮することが
できるのだ。

 一生のうちに、何回も「終わり」
がある。
 太陽系の誕生から消滅までも、
何回も経験する。
 そんな人生が良い。

5月 5, 2007 at 09:13 午前 | | コメント (12) | トラックバック (2)

2007/05/04

Tea

Tea

The Qualia Journal

4th May 2007

http://qualiajournal.blogspot.com/ 

5月 4, 2007 at 03:43 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

それより600年ばかり古いだけだよ

非成文憲法に依拠する
イギリス的精神に則って言えば、
constitutionを「憲法」と訳すのは
必ずしも適切ではない。

constitutionとは、「国の成り立ち」
のことであり、必ずしも具体的な条文とは
限らない。

国の成り立ちには、様々な暗黙知
に相当するものも含まれる。
その全てを、条文で書くことが
できるわけではないし、書くことが
できると思いこむことが望ましい
わけでもない。

イギリスでは、「首相」を
誰にするかということについて
明文規定があるわけではない。
その時々の議会に説明責任
を果たすことができる人が
選択される。
多くの場合、それは議会における
第一党の党首であろうが、
必ずしもそうであるわけではない。

そもそも、首相
(prime minister)という職位自体が、
慣例(convention)に過ぎない。
様々なミニスターの中で、首相に
当たる人が存在するという
習慣が、徐々に積み上げられてきて
今のような形になった。

一方、
独立戦争に勝つという一種の
「革命」を経て、自分たちの
立場をはっきりと示すことが
必要だったアメリカ合衆国憲法は
成文憲法であるし、
やはり一つの「革命」であった
明治維新を経てできた大日本帝国憲法、
現行の日本国憲法も言うまでもなく
成文憲法である。

成文憲法には固有の利点もあるが、
イギリス流の徹底した非成文憲法の
精神にも学ぶべき点が多いと思う。

イギリスでも、条文が参照されない
わけではなく、たとえば1215年制定の
「マグナ・カルタ」は現在でも有効な
イギリス憲法(国の成り立ち)の法源の
一つとされる。

それを言うならば、日本には
604年制定の聖徳太子の「十七条憲法」
がある。

イギリス流の非成文憲法の精神に則る
ならば、この十七条憲法は未だ有効な
法源であると見なすこともできる。

英訳
参照してみればわかるように、
現在読んでも国際的に通用する、大変立派な
思想を含んでいる。

第一条の有名な

和(やわら)ぐを以て貴(たっと)しとし
Harmony is to be valued

はもちろんのことであるが、

第十条の

人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。
Nor let us be resentful when others differ from us. For all men have hearts, and each heart has its own leanings. Their right is our wrong, and our right is their wrong. We are not unquestionably sages, nor are they unquestionably fools.

などは、現代の為政者にとっても耳に痛い
ところであろう。

私は、少数意見として、十七条憲法
は現代の日本においても有効な法源で
あるという立場を取る。

イギリス人に、「君の国の憲法の
最古の法源は、マグナ・カルタなんだって
ね。日本? いやあ、それより
600年ばかり古いだけだよ。」
などと言ってみたい。

非成文憲法の精神においては、
最終的に大事になるのは
個々の条文よりも、
これから国をどのようにして行きたいのか
というプリンシプルである。

条文にこだわると、かえって
プリンシプルが見えなくなることもある
だろう。

上に引用した
十七条憲法の第十条などは、現代において、
大いに参照すべきプリンシプルであるように
思われる。

5月 4, 2007 at 09:28 午前 | | コメント (8) | トラックバック (5)

2007/05/03

ホーム・イリュージョン

理化学研究所の谷淳さんの
ホームパーティーにお招きいただいた。

毎度お馴染み池上高志、
岡ノ谷一夫さん、それに
若手が何人か。

指定された最寄り駅で降りて、
地図の方向に歩いていくと、次第に
ネオンがまばらになって、
沢山歩いていた人の数も減り、
やがて通りが暗くなった。

明るいものが次第に暗く、
まばらになっていくという経験は
郷愁をさそう。
自分という存在が、別の役割を
担って、家路についているような、
そんなゆらめきを覚える。

谷さんの家の
近くには小川が流れていて、
鴨がいるという。
暗闇の中をうかがっていると、
パタパタパタと羽音がして、
河端の手すりにちょこんととまった。

暗闇の中を、池上高志とふざけあいながら
しばらく歩いた。

何やら獣の匂いがする。
「ここは都内最後の牧場で、牛がいるんですよ」
と谷さん。

バーベキューで焼かれた
肉をほうばり、
床に座って、
身体性の話をした。

果たして、embodimentは要るのか、
それとも要らないのか。

自然のインテリジェンスが身体性を
背景にしていることは否定しがたい
事実である。
しかし、その本質を理論的に抽出する
ことは難しい。
たとえば、nonholonomic constraintが
介在すると、それだけで扱いが
格段に難しくなる。

むしろ、身体的な拘束から逃れて、
高密度で情報を集積、融合した方が
良いというのが時代の趨勢である。

身体性ならば、わざわざ人工的に
つくらなくても、我々が持っている。
何も好んでもう一度つくらなくても、
という考え方もあり得る。

もっとも、「ロマンティック・サイエンス」が
根絶やしになるわけではない。
意識の本質は圧縮、統合作用であり、
身体性を一度経由しなくても、
昨今の趨勢を延長していくことと
深くかかわる形で意識の問題に
向き合うことはできるだろう。

現代において陽の当たっている場所
から次第に遠ざかっていくと、
ネオンは消え、人通りも絶え、
やがて暗闇の中に自分ひとりになる。

それでも
そこが故郷であるように
感じるのは、
つまりはそれもホーム・イリュージョン
というものだろうか。

5月 3, 2007 at 09:12 午前 | | コメント (8) | トラックバック (2)

2007/05/02

『感動する脳』4刷

茂木健一郎
『感動する脳』
(PHP研究所)
は増刷(4刷、累計18000部)
となりました。

ご愛読に感謝いたします。

amazon 


5月 2, 2007 at 08:39 午前 | | コメント (3) | トラックバック (3)

その帰趨は

プリンストン高等研究所の
Piet Hutが研究所に来て、
ゼミのメンバーの前でトークして
くれた。

Pietの専門は天文学だが、
何しろ好奇心旺盛で、いろいろな
ことに興味を持つので、どんな話に
なるかわからない。

今回Pietが話してくれたのは、
インターネット上のvirtual reality
空間を通したcollaborationの可能性
についてで、
東京と、カリフォルニア、そして
スイスを結んで、一つの「空間」
を共有してのやりとりをデモンストレーション
してくれた。

セカンド・ライフを初めとして、
ヴァーチャルな空間における
活動が再び注目されている。

インターネットというメディアは、
今のところ文字や映像が中心だが、
ブロードバンドになるにつれて、
次第にヴァーチャルな空間を共有する
というような方向に行くことは
間違いないだろう。

しかし、空間や時間といった、
もともと私たちが住んでいる物理的条件に
根ざしたメタファーが、果たして
どれほどエッセンシャルに新しい
何かを提供するのか、その帰趨は
明らかではないと思う。

古くからある「知性に身体性は
必要かどうか」という議論は、本当の
ところがどうなのか、きちんと
考え抜こうとすると難しい。

制約から来る不自由と、制約ゆえの
自由の関係については、身体性や
物理的時空についての常識的
思いこみを一度取り払って、
じっくりと考えてみるべきなのではないか。

グーグルのように、基本的にはテクスト
に特化することによって抽象的な
情報空間における機能を実現し、
身体性や空間制約性はそれを使う
生身の人間側に「丸投げ」するという
アプローチもあり得る。

インターネットに限らず、コンピュータを
考える時に大切なのはスケーラビリティ
の問題だと思う。
ヴァーチャルな時空は、果たして
スケールを興味深い形で使うことが
できるか。

朝の雨は気持が良い。
一日が降雨とともに始まり、
太陽が上がるとともに次第に
青空が広がっていく。
そのような時の流れを心地よい
と感じるのは何故なのだろう。

5月 2, 2007 at 08:36 午前 | | コメント (7) | トラックバック (3)

2007/05/01

Intensity

Intensity

The Qualia Journal

1st May 2007

http://qualiajournal.blogspot.com/ 

5月 1, 2007 at 09:49 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

プロフェッショナル 仕事の流儀 仕事術スペシャル

プロフェッショナル 仕事の流儀 仕事術スペシャル

明日から使える"仕事術"スペシャル Part3


〜ベンチャー企業経営者・南場智子、建築家・隈研吾、ライティングデザイナー・内原智史、
ベンチャー経営者・秋山咲恵、料理人・徳岡邦夫、バレリーナ・吉田都〜
番組に登場したプロフェッショナルたちの独自の仕事術を、住吉キャスターが現場に出向き徹底取材する「明日から使える"仕事術"スペシャル」。今回は、その第3弾。 携帯ネットビジネスで破竹の勢いで業績を伸ばすベンチャー企業経営者・南場智子の部下とのコミュニケーション術。世界をまたにかけ、40のプロジェクトを同時に進める建築家・隈研吾、その超多忙な日常の中で編み出した「時間活用術」など、知られざるプロの仕事術を一挙公開。

さらに今回は、大型連休のための特別企画として京都・嵐山の高級料亭の総料理長・徳岡邦夫直伝の「おもてなしの一品」、世界的バレリーナ・吉田都が指南する、美しい姿勢を保つ「ストレッチ術」など実り多き休日の過ごし方までを網羅。
明日からすぐに使えるとっておきの"仕事術"を一挙公開してお送りする。

NHK総合
2006年5月1日(火)22:00〜22:44

http://www.nhk.or.jp/professional/

5月 1, 2007 at 07:37 午前 | | コメント (4) | トラックバック (8)

「石のつくりかた」

私がときどき見る夢の一つは、
どうやら高校生の私が、ふと気付くと
ずっと学校に行っていなくて、
 「まずい、このままでは
落第してしまう。出席日数が
足りるだろうか」とあせって、
一生懸命計算するというもの。

 実際には、高校の時は真面目に
学校に行っていたから、フラッシュバック
というわけではなく、
 なんらかの心的真実を表すもの
らしい。

 きっと、人生のあり方
についての自省であろう。
 大学には11年いたし、
その後も研究職についていたし、
 朝ちゃんとどこかにネクタイと
Yシャツをして出かけていき、
真面目に働く、
 そのような生活とは違う人生を
歩んでいることに対する内的良心の
違和感を、無意識が表明していたのでは
ないか。

 それはそうと、夢の中では「その気」
になっている。
 自分がすっかり「高校生」に戻って、
窮地に追い込まれたように感じている。
 そのような脳のメカニズムが面白い。

 すっかり「その気」になって信じている
という状態を、冷静になって外から
見ると奇妙である。

 小学校2年生の時、私は、石のつくりかたを
「発見」したと思いこんだ。
 
 泥遊びをしていた。
土を水で捏ねて、ぎゅっと圧縮して、
固めて家の前に置いておいた。

 夜になって、空気はひんやりとして、
適当な湿り気も降りた。

 翌朝になると、捏ねておいた
土が、きれいな模様の石に変わっていた。
 叩いてもへこまない。ごく普通の石で、
私は昨日の土のかたまりが石になった
のだと本気で信じた。

 その石を、引き出しの中に入れて
大切に保存した。

 それだけではない。「石のつくりかた」
と称して、詳細なレポートを書いた。
 図入りで、土をどう捏ねて、どのように
放置しておくと「石」ができるのかを
説明した。
 それを、学校に提出した。
 先生は苦笑したに違いない。

 今思えば、土を捏ねて一晩おいて石が
できるはずがない。
 もっと圧力が必要だくらいの
ことが、小学校2年生の私に
何故わからなかったのか?
 首をひねる。

 それでも、「石のつくりかたを発見した」
と信じていた時の、不思議な世界観の
感触はまだ覚えていて、
 中に入っている時は人間はそう
思いこんでいるものだとつくづく思う。

 夢の中の自分しかり、
「石のつくりかた」しかりである。

 現在の人類の公式的世界観の中にも、
「石のつくりかた」のような、
気付いてしまえばとんでもない思いこみ
がきっとあるんだろうと思う。

 そうでなければ、心脳問題が
これほどの難事になるはずがない。

 思いこみから逸脱すること、
目覚めることが肝心である。

5月 1, 2007 at 07:34 午前 | | コメント (9) | トラックバック (1)