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2007/04/15

精神のニキビ

日経サイエンス編集部で
理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター
の上田泰巳さんの話を伺う。

 上田さんのご専門は、システム生物学、
特に体内時計。

 「環境に存在している何らかの情報、
パターンが、生体内に取り込まれていく
プロセスが存在し、その際に起こっていることは
脳の認識のプロセスに似ている」
 上田さんとの話の中で、そのような
描像が浮かんできた。

 細胞レベルの時計にかかわっている
遺伝子として、約20の要素が同定
されているとのこと。
 「24時間というタイムスケールを
生化学反応系で実現するのは大変
なのではないか?」
と伺ったところ、
 そのためにターンオーバーの遅い
酵素が見つかっているということ。
 
 興味深いのは、通常の24時間の
生体時計の場合でも、gene regulation
が関与しているということ。
 朝型、昼型、夜型の発現パターンが
あり、それぞれ、ある特定のシークエンスが
認識されて転写される。

 遺伝子という「インフラ」が、生体時計
という日々繰り返されるリズム生成に
関与しているという事実は、生体にとって
遺伝情報とは何かという問題を考える
上で興味深い論点を提起する。

 ここまで生物学が進んだのは、
計算過程の要素が不均一な
生体高分子であるため、
ある生体高分子がどのような役割を
果たしているかということが、その
分子構造という「自己同一性」
でかなりの程度確定できるからである。

 その一方で、生体高分子の
時空間的なパターンが計算に
どのようにかかわっているかという
研究は、様々な理論的、実験的
困難によってあまり進んでいない。

 一方、脳の計算原理は、分子構成的には
ほぼ均一な神経細胞のネットワークに
おける時空的パターンそのものが
まさに問題になっており、
 生体内の化学反応系についての
現在の議論と、ちょうど「dual」
な関係になっている。

 脳を扱うことの難しさ、面白さは、
生物学における時空的反応パターンの
意味の解明の難しさ、面白さと
通底している。

 そんなことを、上田さんとのエキサイティング
な対論を終えての移動中に思った。
 上田さんとじっくりお話したのは
初めてだったが、大変excellentな人だった。
 しかも、フランクで気持が良い。
 今後の生物学のリーダーの一人
であることは間違いないだろう。

 お台場に移動し、仕事の合間に
散歩にでかけると、みんなが商業施設や
「自由の女神」が見えるボードウォークの
上で太陽やキラキラ人工照明を受けて
笑っている。

 「特に目的もなくぶらぶら歩く」
という時間がほとんどなくなっているので、
Plazaの売り場などをぼんやり眺めている
と、なんだかとてつもない贅沢を
しているような気がして、
 ドキドキしてしまった。

 シネコンの切符売り場の前で、列を
つくって「何の映画を見よう」などと
品定めしている。
 あいつらいいなあ、
と思いながら階段を下りていくと、
なんだか浮ついた調子の若者の一群と
すれ違った。

 歩道を歩き始めて、脈絡もなく、
「ああ、そうだ、バカになるんだ!」
と思った。
 無知であるということは偉大なことである。
だって、それだけ多くのことを、これから
学ぶことができるのだから。

 賢い人は呪われている。
 なぜならば、頭の中にもはや空白が
ないのだから。
 
 もちろん、賢い人でも、大いなる空白を忘れない
人もいる。
 たとえば次のような言葉を残す人。

 I do not know what I may appear to the world, but to myself I seem to have been only like a boy playing on the sea-shore, and diverting myself in now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me.

 ニュートンのように、「私は無知だ。
無限の空白が、私の前に広がっている!」
と思うことができれば、
 人生はいつまでもティーンエージャー
である。

 自分の中に空白があるゆえに、
精神のニキビなんかができてしまって、
 照れくさくてニヤニヤ笑っている。
 そんなやつは実にいい。

4月 15, 2007 at 09:32 午前 |

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モーツアルトが天才であったというのは、よくいわれること。 それを表すエピソードがある。これも、有名なお話。 [続きを読む]

受信: 2007/04/15 13:39:55

コメント

こんばんは。はじめて投稿いたします。
先日、少し前に目にした体内時計に関する研究結果の報道をふと思い出し、自分なりに再び情報をチェックしていたところ、こちらの日記の記事(2年以上前のですが)に辿りつきました。

そもそも、私はいまだかつて‘時差ぼけ’になったことがなく、体内時計はどうなっているのだろう??と、周囲が時差ぼけを話題にするたびに疑問に思っておりました。日常生活に支障はないので、おそらく体内時計は普段正常に機能していると思うのですが…。他にも時差ぼけ知らずの方もいらっしゃると思うので、いつか何故なのか調べて教えていただきたいです。

自分の身体ひとつとっても空白がいっぱいで面白いものですね。
またお邪魔いたします。

投稿: | 2009/08/15 0:09:52

こんにちは、茂木先生。都内で働く者です。
日記を毎日楽しく読んでいます。

上田先生のPDFファイルをいくつか読みました。
とても面白いですね。でも私は実験結果が
目指す結論に左右されやすいので、
イメージだけを捕らえられるようにできたらと
思っています。

大腸菌の話はとても不思議な事実ですね。
私も非現実世界を通して、
私とは離れた現実世界がどうなっているのか
理解することに挑戦しようと思います。
何かがきっと何かな様子で、わかるまでは
静かにゆっくり耳を澄ましてみます。

考えていることも感じていることも山の様です。
語学がもっともっと上手にできたら、知りたいことも
わかるかなと思っていますが、難しいですね。
知は好奇心からで、心は単純に変らないものですし
なにより自分が心を見つめていた時間を思うと
本当に好きなんだなあと、笑ってしまいます(笑

基本せっかちですが、好きなことにはとても気長です。
先生が脳を解析する日を一緒になって眺めて
いるようで、そんな日々の一歩一歩が
とても楽しいです。

ではでは、
明日の日記も楽しみにしています。

投稿: | 2007/04/16 22:48:13

一時期(昔話ばかりやなあ)集中していた、血液凝固・線溶系を今回の日記で思い出しました。

凝固・線溶系は比較的閉じた世界ですが、その進歩は遺伝的変異と症状の発見によって多くがもたらされた。電気工学がいくら精密になっても、その根っこのオームの法則にもどるように、古典的な凝固カスケード反応の考えは不動である。

まともな計算速度が得られてからは、コンピューターシミュレーションも流行ったが、現実(治療)への応用には程遠かった。

私が知る限り、凝固・線溶についての画期的な考えはPATENTに出ていて、基礎医学とはことなるところで蠢いている。

生物学が生物ビジネスに負けている。

投稿: | 2007/04/16 8:55:36

本当に空白、未熟さって幸福感に繋がってますね。
新たな知識を得た時、難解な問題の答えを見つけたとき
出来ないことが出来たとき
日ごろの風景に新たな発見をしたとき
何とも言えない達成感や心が満たされる感じになる。
これは 無知、未熟だから なし得ることなんですね。
偶有性? 無知、未熟っていいことなんだ。

今日もひとつ 幸せになった。


投稿: | 2007/04/16 1:13:27

追伸 

都合がつかなくなり、今回で、私は失礼いたします。
とても楽しい時間でした。ありがとうございました。
茂木さんのご活躍を、祈念申し上げます。

投稿: | 2007/04/15 20:36:02

とても個人的なことで、申し訳ないのですが・・・、
私は生まれつき、心臓に病があって、子供の頃から
虚弱体質で、友達といっしょに遊びに行くとか、
若い頃のキラキラした思い出は、ほんの少しだけで
あまり残っていません。ずっと、両親には心配ばかり
かけてきました。受験の負担がないようにと無理をして、
中高一貫のお嬢さん中学に入学し、受験勉強をしたら、
成績が上がって、周りから将来を期待されるようになり、
結局、身体をこわして私は、高校には進まず、自宅で、
大学検定の資格をとるため、一人でテキストを読んだり、
体調の良いときには、図書館まで出掛けて、いろんな本を
読んだり、ただ窓からの景色を眺めたり、そんな日々を
過ごしていました。子供の頃から、詩を作っていて、
周囲の方々のおかげで物書き業につきましたが、ここ数年は、
父の介護生活で毎日を過ごしてきました。心身とも疲れ果て、
もう死んでしまいたいと、何度か思いました。
こんな、私みたいな人も、きっと、多くおられると思うし、
もし、十代だった当時、pcが普及して、一人でも、
いろんな勉強が自由に出来たり、人とおしゃべりできたら、
どんなに、よかっただろう、と思うのです。
長々と、お話してしまいました。おゆるしください。


投稿: | 2007/04/15 15:03:57

“無知”と“バカ”は違う。

無知はシバシバ「バカ」と同義に語られることが多い。しかし、きょうのエントリーで茂木さんも言われているように、無知の人は、それだけ大いなる空白に恵まれている。したがって、何時も何かを学ぶチャンスが沢山ある。

本当の「バカ」は「自分はもう世界の全てを何でも知っている」と多寡をくくって安住し、自分が知っている範囲以外の領域に未知の世界、無限の空白があるということを知ろうとしない人のことだ。

仮令賢くなっても、自分の眼前に大いなる空白が広がっていることを知っていて、それを絶対に忘れない人は、死ぬまで若々しいだろう。

少なくとも私自身、空白を知ろうとしない本当の「バカ」にはなりたくないし、この先には自分の知らない空白世界がまだまだ広がっていることを信じていきたいと思っている。

ニュートンや茂木さんは幾ら賢くなっても空白があることを忘れない人だし、自分もかくありたいと思っている。

ネットサーフィンをしていると、自分はコレだけのことを知っている、だから自分はエライんだ、というニュアンスが滲み出ているサイトやブログにあたることがある。

その手のサイトやブログの書き手は、もはやこの世界が自分の知っているだけの範囲以外にも、未知の空白が何処までも広がっていることがもうわからなくなっているのだろう。

無知である事、幾ら賢くなっても空白がある事を知っていることはそれだけ尊いことなのだ。そしてそれを自覚できるということはさらに尊い。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/04/15 11:21:25

子ぱんだパンダマンと申します。

ただいま『教授を探して3000里』
と言う企画を応援して、グッと来た
ブログに書き込みをしています。

宜しければこちらもご覧下さい。
http://8.pro.tok2.com/~piece/

投稿: 子ぱんだパンダマン | 2007/04/15 9:53:12

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