お化けが出て、アメンボが
京都で日高敏隆さんに
お目にかかった。
ユクスキュルの「環世界」
は、動物ごとに、それぞれの見る
世界が違うという概念である。
日高さんは、中学の時にユクスキュルの
著作に出会い、共鳴した。
しかし、その思想の中核を、公に
口にすることはなかなかできなかった。
日高さんは、アゲハのさなぎの色が
どう決まるかということを例にとる。
アゲハのさなぎの色は、とまった
枝の太さや、表面がざらざらしているか
どうか、植物固有の「におい」がするか
どうかなど、5種類のパラメータに
よって決まっている。
細くて、つるつるしていて、
においのする枝にとまった場合には、
「緑」になる。
そのようなものは若枝が多いから、
結果的に「緑」と「緑」で保護色になる。
カモフラージュとしての
機能を果たすためには、色のマッチングが
必要である。
しかし、色の決定に関与するパラメータ
は、実はどれも色自体とは関係がない。
「神の視点」から見れば、あたかも、
「環境」の色に合わせてサナギの色を
決めているように見えるが、
実際にはそうではない。
蝶のサナギにとっての「環世界」
の中に、「色」はない。
案外人間も同じことではないか。
たとえば、店に入り、自分が買う商品を
選ぶ。
本来は「商品特性」というパラメータ
をもとに選択が行われるのが合理的だが、
それはあくまでも神の視点から見た
理屈であって、
店の雰囲気とか、店員の態度とか、
その時の自分の気分とか、商品特性に
直接関係のないパラメータを通して
私たちは選択しているのかもしれない。
つまりは、商品選択における「環世界」
は、未解明の無意識的広がりを持っている。
ライフワークの選択、誰が好きか嫌いか、
無限の人生の可能性から、何を選ぶか。
すべて、「神の視点」から見れば
あるアルゴリズムが好都合なのかも
しれないが、
私たちは、自分たちが切り取ることの
できる世界の側面=環世界から、ある無意識的
仮説を組み立てるだけのことである。
日高さんは、いわゆる「環境問題」には
興味がないと言われる。
どんな生物にとっても共通の、客観的
存在としての「環境」などないと
考えるからだ。
人間の考えることは、すべて
そもそも幻想だ、と日高さん。
先日私たちの研究室にいらした時、
お化けの話をされた。
タクシーの運転手が、お化けを乗せた
と思いこんでいた。
しかし、よくよく調べてみると、
何のことはない、合理的な説明が
できるとわかった。
お化けというものはそういうもので、
中途半端な時に現れる。
もちろん、「合理的な説明」ができた
と思いこむその世界観も、また、「お化け」
によって支えられているかもしれない。
しかし、それを言うならば、そもそも
人間の世界認識の中には「お化け」しか
ないのであって、どちらのお化けが
どちらよりもマシである、という
ことでしかない。
日高さんは、「真理」とか「普遍」とか、
そういうものも
お化けに過ぎないと言い切った。
午後の茶室に、もののけが
一瞬現れて、空気がひんやりした
ような気がした。
外に出ると、苔の上をなにかが
動いている。
クモかな、と思って見ると
ああら不思議。
間違いなくアメンボである。
そりゃあ、アメンボだって
水の上だけでなく地面の上も歩く
であろう。
しかし、その様子をわが人生で初めてみた。
横にある池を眺めてみると、
鯉の大群がいる。
大きな口をぱくぱくさせて、
水面下を泳ぎ回っている。
ひょっとするとあの
アメンボ君、「鯉口地獄」から
こりゃあたまらぬ、くわばらくわばらと逃げて
きたのかな。
足の下で自分をいっぺんに十くらい
飲み込めそうな怪物がパクパク動き回って
いたら、生きた心地はしないだろう。
かも川の桜がきれいだった京都。
「現在」から「未来」へと時が進み、
様々なものがあっという間に「過去」
になってしまう現実というものの不思議
な作用の中で、お化けが出て、アメンボが
苔の上を這った。
人生にお化けはいろいろあれど、
我それゆえに、人生を愛す。
4月 14, 2007 at 08:34 午前 | Permalink
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*
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*
いえね…
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(専門としていない、という意味ですが)
hiddenカリキュラムには眼が行きます。
その音、通奏低音のごとし…
*
そうそう、道徳が教科になるということですが。
歴史を振り返ると…
教科になることの是非を十分考える必要がある。
立ち入らざるべき領域だってある。
*... [続きを読む]
受信: 2007/04/14 19:06:50
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コメント
ある本に、書いてありましたが
無意識をもっている人間は
目をあけながら夢を見ている状態だと
いっておりました。
なんとなくその意味がわかるような気もしますが
まだはっきりしません。
無意識がない人、
そのような人はきわめて稀だそうなので
まだそうゆう方にお眼にかかったことがありません。
投稿: sekiya | 2007/04/16 9:56:09
あめんぼは背中の羽で空中をとぶんだよ、
と聞いたことがあります。
わたしは彼らが飛んでいるのも
水上以外のところを歩いているのも
この目で見たことがないですが。
そうかわたしもお化けだったんですね。
「人間の考えることは、すべてそもそも幻想だ」
というところを読んで、
どうしてかすごく安心しました。
投稿: aitqb | 2007/04/15 4:09:58
こんばんは。
先日、京都に行ったと書いてあったのに、あれ? 又行かれたのですね!(^-^)
色々な所に出没して、今日もTUTAYAで雑誌を見ていたら、坂本龍一が表紙の雑誌に「リトル・ブリテン」の俳優の方と載っていたので
遂に、「リトル・ブリテン」のDVDを借りてしましました。
所が、まだそれは試作品なのかタダで、謝って日本語吹き替え版を借りてしまいました。残念! やっぱり英語版が良いですね。
人間の考えることは、全て幻想なんですか? 脳の中で、映像の記憶は
全てファイルされていて、何らかの脈略で、ふっと唐突に映像が現れることがありますが。神の視点からみれば、この世は過去かもしれないですね。今見ている火星が過去の星であるように・・。
引っ越しをしてから、おかしなことがよく起こって、今日は映画を見に行っている間に、壁に先日打ち付けた鉄の金具(アジアン家具屋で買った)がなくなって、クイだけが床に落ちていたのですが・・・。
最近もののけがよく現れます。
投稿: tachimoto | 2007/04/15 1:27:32
車窓から流れる風景をぼんやり見ているうち、
ときどき、不思議な気持ちになる。
さっき見た町は、もう過去になって、今、見ている町は、
見ているつもりで部分的にしか見ていないんだろうな、
とか、私には、なんだか分からなくなってくる。
今日、ユクスキュルの「環世界」を検索して少しだけ読んで、
なるほど、と面白くて、ちょっと安心した気持ちにもなれました。
「未解明の意識的広がり」、この言葉を覚えていたら、
自分でも分からなくて、不安なとき、とても、心強い。
今日のクオリア日記を拝読しているうち、
不思議な世界が、ますます広がってきました。
投稿: フミ | 2007/04/15 0:49:34
きょう(4月14日)、林試の森公園に行ってきた。
そこにあった池に、無数のオタマジャクシと亀がいた。
彼等はそれぞれの環世界の中で、自分が如何なる運命を背負って生きているか覚知できないのだろう。
彼等にとって、真理とか普遍というのは我関せずの世界観だろう。
真理とか普遍とか言っているのはもっぱら人間のほうだけである。
しかしそんな人間もオタマも亀も、みんな生命の法則によって生きている。
幻想・お化けでないのは、もしかしたら、その法則だけなのかもしれない。
投稿: 銀鏡反応 | 2007/04/15 0:34:30
全ての動物にとって共通の、客観的
存在としての環境は確かにないかもしれませんが、
生態系のバランスという面では多大な影響を及ぼしている現状がありますよね。
その点については茂木さんはどのような感想をお持ちになりましたか?
投稿: ウエダヤスフミ | 2007/04/14 20:24:27
こんにちは。
時空の外にあるもの。
もしくはその何かの中に時空があるのかもしれないけれど、
お化けの事を考えるのは楽しいものですよね。
僕は人間の無意識というのは、
そもそも自然のというか宇宙の識なんじゃないだろうか、
と思う事があります。
個人的な無意識とその自然が持つ識、
無意識というのは幾つにか分けなければいけないんじゃないか、
と感じます。
日高さんの言葉を深く理解する力があるとは思わないけれど、
自分の無意識を考える時、
自然の識と連動する世界として考えないと面白くない、
という事につながるようで、励まされました。
投稿: hayashi | 2007/04/14 18:18:16
日高さんのいうように、我々が考えているような「真理」とか「普遍」というのは所詮、たくさんいる「お化け」の仲間にすぎないのかもしれない。しかしそういう「お化け」の中に入って私たちは日々生きているわけであって、・・・もしかしたら、我々自身も「お化け」そのものかもしれないではないのか。
人間が考えているのはすべて幻想だとしたら、我々の存在は結局は幻ということになる。しかし、実際はそういうことを全く意識してはいない。
まぁ、死んでしまえばそれまでの自分の存在など夢・幻のようなものになるのだろう、だからその意味で、我々人間の存在も、その人間の考えることも、すべては幻想だというのだろう。
しかし、その「幻想」の中で、我々はいろいろなことを実感して生きているのだ。夢も浪漫も実感して生きている。幸せも不幸も実感している。如何でか幻・幻想と言い切ることが出来ようか。言い切ることは私には出来ない。
人は幻想の中を生きているとは思っていない。
有限の生の中で、すべてを実体的・具体的なものとして受け止め、また手応えを感じて生きている。己の価値創造をせんと、懸命に生きている。
人が作ったものはすべて幻・幻想だとしたら、なぜ、人はそれを信望し、己の生きるかてとするのか。
ユクスキュルの考察は的を得ている。確かに私たちは自分にしか感じることのできない環世界の中で生きている。
しかし、私たちは日々を幻想と思って生きてはいないのだ。ましてや、お化けとは思っていない。たとえ本当に我々の人生が幻想であり、我々自体の考える「真理」「普遍」がお化けなのだとしても。
人生には罠がたくさんある。それは、苔に乗っかったアメンボが危うくはまるところだった鯉口地獄のような無数の「落とし穴」だ。
私たちはその地獄にはまらないように、真理をもとめ、普遍の中に人生の指標を見いだそうとするものなのだ。
投稿: 銀鏡反応 | 2007/04/14 12:43:09
人間にとってアルゴリズムはとても理解しやすいため
どうしても計算しやすい思考に変換してしまいがちですが
確かに、それは分かりやすいものの寄せ集めそのものな気もします
「真理」も「普遍」もオバケ
いやはや、まさにまさに
あまりに一心に「真理」や「普遍」を追い求めていると
自分は何か謎の神様を信仰しているんじゃないのか
と妙な疑問が沸いてくるときがあります
それらを唯一絶対と考える危うさも
神を妄信する危うさも
それほど遠からじ・・・
投稿: 後藤 裕 | 2007/04/14 11:35:27