「コングラッチュレーションズ!」
最近、「習慣」ということについてよく
考える。
もし、自由と可能性を強く求める
のならば、自分の人生における習慣
の問題に、より自覚的になるべきなの
ではないだろうか?
日本語を喋るというのも一つの
習慣である。
ものが下に落ちる重力空間に適した
身体運動をしているというのも、
一つの習慣である。
自分の名前が「茂木健一郎」
だと思っているのも、一つの習慣である。
これらの習慣の一つひとつは、「私」
を支える大切なインフラであると同時に、
かのワシリー・カンディンスキーが書いた
ような、色とりどりが虚空に浮かぶ
あのやさしくも激烈なる表現とは
遠い世界に私の魂を囲い込んでしまうのだ。
半ば規則的で、半ばランダムなのが
「偶有性」だが、
自分の人生を半ば習慣的で、半ば習慣的
ではない方向に追い込んでいかねばならない。
そうでないと、生きている甲斐がない。
サントリー音楽財団の佐々木亮さんが、
江村哲二さんのスコアを持って現れた。
おお!
私は感動してしまった。
私の書いた英詩を織り込みながら
マエストロによって書かれた音符たち。
これらの音符たちは、私たち生命を
束縛するあらゆる習慣から自由な場所に
住んでいて、
そして、人間の手によって引き寄せられ、
かき集められ、今まさに
ふしぎなかたちを取った。
江村さんに電話して、
「コングラッチュレーションズ!」と
申し上げる。
精神の川を、小石がたくさん
水に流されごろごろと転がっていって、
今まさにカチン! と当たったような。
表現とは、畢竟「自由」と「習慣」
の境界面のことではないか。
今日もまた、カチン、カチンと当たる
音がする。
4月 21, 2007 at 08:47 午前 | Permalink
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☆世界というものは、半ば偶然、半ば必然に満ちている、と言った人がいる。
☆言われてみれば、なるほどねぇ!と思うことしきりだ。
☆この世は、ラッキーもあれば、アンラッキーもある。当然だ。しかし、人間というものは如何しても、幸福とラッキーを欲する生き物なのだ。
☆幸せとラッキーが欲しいなら、自分はもう、人生のすべてを知ってしまった、と言って、立ち止まるな。
☆おのれの眼前に、まだ見ぬ空白、のりしろがあることを知れ。未だ与り知らぬ世界のあることを知れ。
☆おのれの無知なることを知れ! 無知であるということ... [続きを読む]
受信: 2007/04/21 20:15:09
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コメント
昨日の夜に続いて、再度習慣について。
今年こそ、蓮の花が花開く瞬間を見るために、早起きの習慣をつけているところです。
昨日、あるお店のスタッフとの何気ない会話を思い出しました。 それは、「眠り」について。 私にとっては、いかに心地よく眠るかはとても大切なことなのですが。パジャマも衣がえで、和式の寝巻きのようなものがほしいのに、いつもどこの下着売り場でも取り扱いはありません。 昨日、それに近いものがあったので、とりあえず買ってみました。 眠りの質には、肌触りも重要と考えているのですが、最近はそこまで気を使う人は少ないとか。 眠る前のストレッチや手と足のマッサージも私には大事な習慣です。
昨日買ったラップ式のパジャマは、右前身ごろになっていて、着てから気がつきました。 右前身ごろは、亡くなった方の合わせなのに。 京都にある下着メーカーなのに、がっくりでした。 PLEATS PLEASEの新作のスカーフが、腰紐代わりになりました。 ベルト代わりに買ったので、ちょうどよかったかもしれません。 着物に着るときに使う腰紐よりもやさしく結べるのもいいです。
海外を旅行する時には、いつも習慣の違いを意識しますね。
兄弟の留学中の話を聞くと、私には、語学もないけれど、その前に習慣を変えることの難しさが先に問題となりそうです。
投稿: 藤咲翠彌 | 2007/04/22 6:03:25
「習慣」について。 私は職業柄、生活習慣病をもつ患者様と接しているので、意識にのぼらない習慣については、怖いと思うことがあります。 善いことの積み重ねができるように、気持ちを手帳に書き留めるようにしています。 意識する習慣というと難しいかもしれないですが、私は、下着やハンカチなどの小物の色を意識することが、昔からの習慣です。
先日、たまたま仕事の休憩中に、笑っていいともに茂木さんが出演されているのを拝見しました。「色」については、私も非常に興味があります。シアン・マゼンダ・イエローの3色で、どんな色も作ることができるそうです。しかし日本人は、色を作るというより、自然から色をかりる、自然から色を取り入れる(草木染)という感覚をもっているというのは、前田義子さんの言葉です。私もそう思うことがあります。食事に関しては、彩りよくバランスを考える和食などもそうかなと思います。 漢方も、意外ですが色彩との関わりがあります。 以前に、カラーパンクチャーという色彩学について講習を受けましたが、かなり面白い内容でした。 女性の方が、色に関して敏感なのは、毎日のお化粧など、自分の肌に合わせる習慣があるからでしょうか。 私は、数字から色は連想できませんが、「バラ」と聞くと、白が思い浮かびます。他は香りで色を連想する程度。 色に例えて考える特殊な脳の働きが見つかるといいですね。 私には、事前に着ていく洋服の打ち合わせはしていないのに、いつも、お互いに同じ色を選んでしまう人がいます。 ペアールックみたいで、はずかしい思いをすることもありますが、最近は、相手の色が読めるようになってきました。 同じ色を選んでしまう偶然が積み重なると、不思議なご縁があるのかなぁと、何だか恋をしてしまいそうな気持ちになるのは、どうしてでしょうか?
投稿: 藤咲翠彌 | 2007/04/21 21:35:23
生命を束縛するあらゆる「習慣」から自由になった場所にすんでいる、音符という姿で現われた生命の響き。
人間の手で集められ、みごと一つの不思議に美しい芸術作品に昇華し、いま、若き脳科学者の手許にある。
そして、再び、音楽としてその響きを四方に鳴りわたらせる日を、いまかいまか、と待っている。
自然の音、魂の響きは、時に習慣の束縛から放たれなくてはならない。その役割を担うのが音楽という、芸術なのだ。
投稿: 銀鏡反応 | 2007/04/21 16:54:07
おはようございます。もう午後ですね。眠いです。
小川の小石の白昼夢がとても怖いです。できればせせらぎを聞きたいのに。
飯場君が昨夜はゆけなくてすみませんでしたと言っていました。
失礼な表現があったらすみませんでした。
夢の無い話ですが、飯場君しか持っていないアクセス権あるんだそうです。場合によっては億単位のロスになるんだそうです。昨日は調度そのタイミングで、結局未だ何度も更新であと1時間は食事に出れないそうです。
アクセス権という最強の呪縛はその契約を結んだ過去の自由選択との戦いみたいです。
マックスはアガーテの為に魔弾を選びましたが、飯場君は当時、もう人生には、自分に影響を与える程に恋する人や、興味を引くことは現れないと思っていたみたいです。だから何の迷いもなくデータを引き受けまくったそうですよ。恋するまでは何の束縛でもなかったみたいです。元々怠け者の引きこもり気質なので、好きな仕事だし、仕事という刺激が自分を自動的に動かし、考え工夫させてくれるから、調度良かったみたいです。あと1月もしたら、1日5時間程度の拘束になるので、そしたら、恋する人のところや好きなことの為なら、何処にだってゆくそうですよ。英語だけは悩ましいらしいです。
隠者が現れてくれないかなあ。
隠者に恋した場合はどうなるのかなあ。
ところで先生は外見で人を判断しちゃいけないといいますが、好みというのが生命本来に存在する感情ということにして、ぽっちゃり女性と、スリムな女性、どっちが好みですか?
女性が忙しいときに会いたくないという真の理由は、なんだかんだ言い訳しても、ホントは、ベストを保ててないからですよ。
投稿: koisi | 2007/04/21 15:22:43
精神の川をたくさん流れる小石たちのぶつかるカチン!音は、鈴の音のような澄んだ音がするのかな?茂木さんの英詩と江村さんの音楽とのコラヴォレーション、とても聴いてみたくなりました。
表現とは、畢竟「自由」と「習慣」の境界面か・・・。その境界面の中で、優れた芸術家たちほど己の“すべて”を賭けていると思うのは僕だけか。
ダヴィンチは「受胎告知」や「モナリザ」や「最後の晩餐」を描くとき、己の全生命を賭けてその境界面を宇宙の哲理で満たしたに違いない。
茂木健一郎博士の姿のように、「芸術」という「自由」と、「科学」という「習慣」の境界面に於いて、己をめいっぱい光らせている科学者の姿ほど、生き生きと輝いているものはない。
「習慣」という「蛸壺」にのみこもっている人は、ある意味、人生の輝きを見失っているのではないか。このエントリーをみてこうコメントを書きながら、ふと思う。
「偶有性」に満ちたこの世界でせっかく生きるんだから、半ば習慣に従い、あと半ばはその習慣とは逆の世界に自分を投げ込んで、生きていくしかない・・・。
そのためには中途半端な姿勢は許されない。己の全生命を賭けて、限りある生を自分のあり方で何かを表現しつつ、精一杯に生きるのが、今の自分に欠けている一番の要素のような気がする。
精神の大河で、石ころをカチン!カチン!といわせて、時には火花が散るくらいに、最後に何かを残していきたい。
投稿: 銀鏡反応 | 2007/04/21 13:14:52
最近、思考が迷走している日々で
強く断言できる思想の芯をもっている茂木先生をうらやましく思います
(つまり、未だに甚だ学が足りない証拠です)
それとは別にカンディンスキーの後の作家ですが
ジョアン・ミロが大好きで
実は一番好きな画家であったりします
ミロの絵や彫刻を見ていて
(とくに星座シリーズ以降)
何処か遠いところに連れて行かれる感覚は
何とも表現しがたく
確かに石ころ何処かでカチン、カチンとぶつかり合う様な
妙な快感があります
これが特殊なクオリアでしょうか
この感覚に出会うことが
自分にとって生き甲斐の様な気がします
投稿: 後藤 裕 | 2007/04/21 12:07:15
重要無形文化財「紬織」の保持者である志村ふくみ氏は、「不規則の中の規則」ということを仕事の中で強く感じるようになったそうです。湯川秀樹氏も電車の中から外を眺めていて、この自然界には曲線が多いが、人間界では直線が多いとことに気づいたそうです。これは、「曲線のなかの直線」ですね。見えるものは、見えないものに触れている。ある方向性に自覚することによって直線を意識する。それが習慣という物ではないでしょうか?直線は人間にとって便利であるという習慣ですね。しかし、創造とは曲線の中にもう一度入り込むことではないでしょうか。例えば、アントニオ・ガウディーの建築に見られるように。それは我われの見ている「習慣」ではないからこそ、何かしらの創造性に触れているのではないでしょうか。見えるということは見えないものに触れていることである。見えないもの、それは「非習慣」でしょう。其の「習慣」と「非習慣」が統一されてこそ、真の創造性に向かう自覚が生まれてくるのだと思います
投稿: とーます | 2007/04/21 11:09:34