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2007/04/30

「神の涙」

重松清さんとお話する。

宝島社の田畑博文さん、西山千香子さん
がお目付役。

「茂木さんが、この前、ブログで、
ボクが原稿書き専用のハイヤー
を手配していると書いたでしょう。」
「はあ。」
「あれで、困っちゃったんですよ。さる
大物作家に会った時に、シゲマツ君は
最近そうなんだってねえ、と言われて。」
「ははは。どなたですか?」
「それは言えませんよ。」
「それにしても、当時は月産600枚
でしたが、最近はどうですか?」
「最近は、800枚ですよ。」
「800枚。うわあ。」
「何でもないですよ。」
「しかし、書かない日もあるとして、
30枚くらい書く日がかなりないと、
達成できませんね。」
「30枚くらいだったら、何てこと
はないですよ。ちょちょいのちょい」
「ひええ。」

あな恐ろしや。
重松さんは、あのパワフルな身体から、
がしがしがしと猛スピードで完成原稿を生み出すのであろう。

今までの流れを受けて、
涙について話し、やがて感情教育の
問題に至る。

どのような時に涙を流すかということは、
文化的に条件付けられたことである。
赤ちゃんが流すような涙もあれば、
聖書に「ジーザスは泣いた」
とあるように、神の子が流す涙もある。

どのような時に涙を流すか。
これは、感情教育の問題である。
知的な笑いがあるように、
知的な涙もある。

涙のしきい値は、高い方が価値がある。

簡単に涙を流さない、nil admirariの
精神にも涙を流させること。
たとえば、この宇宙で起こることは
およそ全て知ってしまっている
はずの、創造主たる神その人に
涙を流させること。

「神の涙」こそが、全ての表現者の
究極の目標ではないか。

お話の後、中華料理屋でご飯を
食べる。

作家論になる。

「本当に偉い作家はね・・・」
と重松さん。

「作品を書いていないのに、あの人は作家だ、
作家以外の何ものでもない、と思わせる人
ですよ。
あの人はあの作品とこの作品があるから、
立派な作家だ、というようでは、まだまだ
ダメだ。
あれ、あの人どんな作品があったっけ、
と思い出すことができないのに、
誰が見ても作家以外の何者でもない、
そう思わせるようになったら、
それは本物の作家ですな!」

そんな話をしている
重松さんの様子を記録しておこうと、
写真をパチリと撮ったら、
鏡に、カメラを構える私の姿も映っていた。


重松清さん

帰り道につらつら考える。

最近の私の人生の課題は、実に、いかに
集積度を上げるか、密度を濃縮していくか
ということにある。
もし、全ての仕事が原稿用紙の枚数に
換算できるならば、
原稿用紙換算月産600枚、800枚の
仕事を、ずっと続けなければなるまい。

様々な要素が、ぎゅうと濃縮することで、
不思議な反応が起こって新しいものが
生まれるはずだ。

そして、
夜の間に、脳の中でせっせと記憶の整理を続ける
小人たち。

今朝もまたヴィヴィッドな夢を見た。

4月 30, 2007 at 09:36 午前 |

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コメント

世間にはしきい値の低い涙ばかりがあふれている。もっと高尚な崇高なものに涙を流して欲しい…。
茂木さんが涙を流す時は、きっとそんな高尚で崇高なものに対してなのだろう。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/05/01 21:01:30

実は私も、先生はそれで沢山
経験をしているのかなと思いましたが、
また怒られるかなーと
不安で言いませんでしたw

いつか進化するのかしらん。
もの凄い変化をするのかしらん。
ドキドキしますねw。
おそらくこの人はそんな変化だ、という人も
いるのですか?

私は先生の日記を読んだら
直ぐに眠くなって、
目が覚めたらだいたい感想が
決まっているから不思議なんですよ。

小人さんが寝ている間に
新しい曲を作ってくれて
いるのかしらん。

毎日そんな作曲に夢中です。

今日も先生に
楽しい経験がありますように。

投稿: tukifukurou | 2007/05/01 5:50:12

「神の涙」それがどれ程のモノか想像も付きませんが
しきいの低い涙は巷にあふれすぎていて面白いモノではありませんです

この前読んだ本に
「真実に愛し愛される人がごく僅かなように、本当に大きな感動に出会える人もごく僅かである」
(多少ねじ曲がっています、本が手元にないので)
というのがあって、愛はよく分かりませんが
感動というモノにも何か必要なモノがあるのだろうと思います
全てを知った上で、そうなるとすら分かった上で流す
「神の涙」はまさに普遍ですね

投稿: 後藤 裕 | 2007/04/30 15:48:34

「何も書いていないのに作家だ!作家以外の何者でもないと思わせるのが、本当に偉い作家なんだ」…重松さんの御意見に、う~ん、そういう見方もあるんだ…凄い作家とダメ作家の見分け方というか、見破りかたというか…。

のべつ矢鱈に作品の存在がハッキリしている作家よりも、あれ?あの人、何の作品があったっけ、でも、あの人は作家以外の何者でもない!と傍に思わせる“おーら”を発するのが本当に偉い作家というわけか…。

彼の残した作品の存在は忘れられても、作家その人の存在は忘れられるどころか、強烈なインパクトを傍に残すほどの、作家としての“おーら”を放つ作家が偉い作家…というなら、かの有名な美容師・吉行あぐりさんの夫で、吉行淳之介・和子・理恵3兄妹の父である吉行エイスケ氏がそんな存在なのかと、フトに思った。

あとこれは私個人は嫌いな作家だが、菊池寛もそういう存在なのかな、と思った。菊池の作品は「父帰る」くらいしかその存在は忘れられているらしいが、作家としての存在感は没後もまだまだ残っている。

神の涙…何事にも動じず、何にも感動しないというような人でも、ひょっとしたら、不意に涙を流す事態が訪れるかもしれない…。

最も素晴らしいことは、この宇宙で最も崇高な存在…崇高なステージにいる者に多く涙を流させること。それがきっと全ての表現者の共通の至高なる目標なのだろう。

宇宙を作り上げた創造主というのは、本当は宇宙を生み出した壮大なエネルギーのことに違いない。

そのエネルギーが“感動のあまり涙を流す”ほどの素晴らしいものを作り上げられたら、至高な目標は達せられるだろう。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/04/30 10:37:40

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