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2007/04/24

消し去るほどの深い

武者小路千家の次期家元、千宗屋
さんのお招きで、京都武者小路の
官休庵を訪ねる。

アレンジしてくださったのは、橋本
麻里さん。

上田義彦さん、永井一史さんが
同客。

橋本さんが「お詰め」をしてくださった。

官休庵は新緑や苔が目に美しく、
座っているだけで現代とは違ったところに
心が飛んでいくような気がする。

まずは、控えの席に座っていると、
千宗屋さんが座敷を箒で清める音が
聞こえてくる。

「正客」をつとめさせていただいた
私が、門のところで千さんと御挨拶。
すべては無言のうちに。

いったん控えに戻って、それから
茶室に入った。

ほの暗い茶室に上田さん、永井さん、
橋本さんと一緒に座して待つ。

千さんがいらして、炉をあらためる。

掛け軸は、千利休の手紙。
新茶が採れたから・・・
というような内容。

「こうして、最初に火を
皆で囲むという時間が設けられている
ことに、意味があると思います」
と千さん。

「まずはお参りを」
ということで、千利休の
像に拝礼する。

座を改め、お料理をいただく。
ご飯、汁物、先付け、酢の物、
お椀、香の物、おこげの入った
お湯、お酒。

「緊張と弛緩のリズムが、茶事には
うまく取り入れられています」
と千宗屋さん。

全ては、クライマックスである
「濃茶」へ向かって高められていく。

茶室に戻る。
掛け軸は花にかけ替えられている。
千利休が自ら切り出した、竹の花生け。

千宗屋さんが入って来られて、
「濃茶を差し上げます」
と言って、所作が始まった。

千さんが半眼に入る。
凛とした緊迫感が走る。
目に見えない刃が
やりとりされている。

戦慄した。
千利休その人が、そこに甦って
いるのではないかという錯覚に囚われた。

長次郎の赤楽茶碗でいただく。

生命そのものの源であるところの
濃い緑色をした、泥状のもの。

それまでに味わった全ての
食事、お酒、お菓子を消し去るほどの
深い一撃があった。

「そうでなくては困るのです」
と千さん。

ほの暗い茶室に身を寄せる
4人の客と亭主が、母の胎内で
息をひそめる兄弟姉妹たる
胎児の群れであるように思われてきた。

官能を通して歴史が継続していく
とは、何たることだろう。


2007年4月23日。武者小路の官休庵にて。

4月 24, 2007 at 07:01 午前 |

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受信: 2007/04/24 14:03:44

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挨拶文を知っているといざと言うときに役立ちます。 季節の変り目、時候、就職、退職、結婚式、転勤、歓送迎会、など色々な場面で挨拶は欠かせないです。手紙、メールでも、挨拶の書き方を知っていると、受け取る相手にも喜ばれます。挨拶の知識を深めてみては? [続きを読む]

受信: 2007/04/24 16:29:39

コメント

おはようございます。
会社で爆睡しまして今目覚め。
肌カッサカサー。体重ブックブクー。

最近英語無いですね。
ホッとするような寂しいような。

次期家元から直接お茶を立ててもらえるなんて、
羨ましい限りです。
いいなあ、いいなあ。
そんな機会があったら、即飛びつきます。

何故そんな経験が可能なのでしょう。
先生自身もお茶の作法を学んでらっしゃる?
多彩ですね。

通常では味わえない緊張と作法の世界は
たまに飛び込んでおかねば、身を晒さねばと
思ってはいるのですが、

一種劇的な濃茶に迄到達したことは
一度もありません。
たった二度の経験も、
おそらく、「こう」では
ないのだろうなと思うのです。

それは、スケーラビリティーの問題にも似ていて
自分の想像を越えるような
緊迫感を得られる場にゆけるほどの
存在にならねばということですが

経験したことの無いはずの、
まるで全員の呼吸が合うような
部屋の中の空気の一体感を
何故人はうっすらと知っているのでしょう。

以前タイに行ったときに、ある寺院で、神仏に対し
正座をしまして、礼をゆっくり丁寧にしましたら、
現地の人やお坊さん達が大喜びしてくれまして、
聖水をビシャビシャに浴びせてくれました。
グッショグショー。

緊迫感が敬意として伝わって、
自分たちの大切な神仏を大切に扱ってくれているようで
とても嬉しかったんだそうです。

お茶の作法は一種不思議な
芸術なんだなと思いました。

絵画や踊りや音楽の様に
世界共通で伝わる「型」がまたここにもある。

何故だろう
何故かしらん。

世界共通で喜んでもらえるなら、
学ぶに越したことは無いと思いきや、
未だに礼しかできません。
もはや礼も忘れかけ。

先は長いな
長いかな。


投稿: hirugaeru | 2007/04/26 15:03:41

しつこく考えてます。継承や意思の疎通や何か一つをつくりあげたり、
残そうとする行為について。

世襲制の職業についてなのですが、日本や他の国もいろいろありますが
非常に強く世襲製が残っているのをみると、「回路の強化」かなと思いました。
国や地域によって違う、風習や風土、習慣、etcそういったものは
人間の脳の進化の仕方が違ってそうなったのか、と思うと脳科学って
歴史、世界史と切り離せないのでは?

世界地図=人類の脳、生物の脳の進化の分布

と、同時にほんとに面白いな、と思いました。

縄張り争いから、戦からなんやかんや全て人類の脳の進化がもたらしたことなのかな、と。

投稿: 平太 | 2007/04/25 17:47:40

すみません。今、「官能」と言う言葉の意味を調べたところ、
私の言いたい事とちょっと違っていました。でも、そのことで、
見落としていたことに気づきました。
脳科学を学ぶって本当に大変な量が待っているような気がして、
とほうにくれています。最近、こちらに寄せていただいたばかり
ですが、よろしくお願いします。毎日、楽しみにしています。

投稿: あすか | 2007/04/25 9:15:38

初めてまして。あすかと申します。
官能を通して歴史が継続していく・・・。この言葉で、自己の内面で起こったあるシーンを思い出し、閃きがおきました。
それは、自己の内面で作用している意識作用も同じなのでは、、と言うことです。
官能についての先生の論文やエッセーなどありますでしょうか?

投稿: あすか | 2007/04/25 8:43:05

先日 上京した機会に茂木さんのお勧めの
「受胎告知」を鑑賞しました。

本物のもつ迫力に圧倒されました。
絵を見て こんなにも心を揺さぶられるなんて。。
「受胎告知」の素晴らしさを
告知してくださって 本当にありがとうございました。

ダビンチの科学者としての姿勢にも感動。
自然を人間を追求し、
そして、人間が物をどのように捕らえているのかをも

そして 研究結果を絵画で表現されていますよね。
真実を追求し、わずかな線、影さえも見逃さないんですもの。
ありのままに、あるがままに。
ダビンチに少しでも近づきたいと
目に入るもの全てをきちんと正確に
捉え、感じたいと
しばらく上野の森に佇んでると
不思議なくらい 世の中が輝いて見えてきましたよ。

本物の中には、一種の緊張感が漂っていますね。
息をも忘れる、安息。

武者小路の官休庵の茶席にも本物の持つ
緊迫した安息があったのでしょうか。
そんな貴重な時空の経験は
魂が揺さぶられるのでしょうね。
うらやましい限りです。

投稿: hi | 2007/04/25 4:12:40

「官能を通して歴史が継続していくとは、何たることだろう。」
官能を分けていただきました。芸術、文化を通じて、まさに歴史が紡がれているともいえますね。私たちが認識している歴史の何と薄っぺらなことでしょうか。考え込んでしまいました。ぴ

投稿: マツノジ | 2007/04/25 2:05:46

武者小路千家の、茶の湯の席で、茂木先生が見た千利休の幻影。

戦慄を覚えるほどの、亭主さまのたたずまいに利休の姿が現われたか。

見えざる刃の光る緊迫感。わび・さびの本質はこうなのであろうか。茶の湯に疎い私には、よくはわからないが、引き締まった空気の中に、利休が求めて止まなかった、精神の錬磨のありようが現われるのか…。

今まで召し上がられた食事のすべてのあじわいを消し去るほどの濃茶の一撃。全てをリセットするほどの苦味の衝撃。

今までの生の体験のもろもろを、全て消し去る…濃茶は、きっと次の生のための「死」というリセットの「表現」なのかもしれない。

生命の源は濃茶の色、そこから我々は生まれてきた。

官能を通して歴史が継続していく、それを一つの藝術と昇華したのが利休の茶の湯であるのだろうか。

茶室という名の胎内で、他の3人の胎児とともに、息を潜めつつ身を震わせる
独りの胎児。

わびさびの本質というものに、彼はきっと触れたのに違いない。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/04/24 19:52:37

茶室の経験は少ないが、太閤の醍醐の花見の宴が、例えばRシュトラウスなら、利休はさながらウェーベルンと思う。茶の開始から終了までの時間の流れが、まるで一つの構造物に見えたような記憶が甦りました。時間の前後と空間のアチラ・コチラの近似を感じました。

投稿: fructose | 2007/04/24 14:00:04

利休の世界観を表現、あるいはつくりあげるのに、

空間や庭や、料理やお菓子どれも不可欠なもので、
それを作り上げる職人がそれぞれいるはずで、いくつもの技が合わさって利休の完璧なる世界観にばっちりと、あわせてつくりあげていくのがすごい、と思う。それが伝承されるという、この力というか思いという言葉は軽すぎて・・・
これはなんだろう。

その意思や価値観をどう伝えてひとつのものにしていったのか、その事に興味があります。

ちょうど、先週末、平等院をみて、きっといろんな職人がいたであろうに、その技がよりあつまって、完璧なる世界観、死後の世界を表現したあの寺のすごさに、意思の伝承というか、中心があってそれにむかってつくりあげた、それはなんだったのか、強大なる渦というか、世界観の中心がなんだったのか、強く思ったところでした。それに向かって技を磨いた人間の意思ってなんだろうって。

あの創造的世界観はほんとにすごいと思った。

投稿: 平太 | 2007/04/24 11:39:24

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