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2007/04/06

ボクが小学校の時には

朝起きてから、ずっと仕事をして、
『プロフェッショナル 仕事の流儀』
でNHKに着いてからも、
ずっと仕事をしていた。

 空き時間に筑摩書房の
伊藤笑子さんに西口玄関で
江村哲二さんとの対論本
『音楽を「考える」』の
ゲラをわたした。

 最後の方は終わっていなかったので、
伊藤さんに待っていてもらって、
その場でペンを入れていった。

 急いで部屋に戻り、着替えて、
メークをしてもらい、
 スタジオに入って、仕事を
始めた。

 そのような移動の時に、
量子力学の非局所性と、意識の
それがどのようにかかわっているのか、
そんな問題を考えていた。

 スタジオの椅子に座ってさあ
これから、と思ったときに、
 そうか、オレは最近小学校の
時のことばかり思い出して
いたけれども、
 今の人生の状況は、
小学生のようなヤケクソな
エネルギーがないと乗り越えられない
ということなのかと合点がいった。

 今自分がどのような文脈に置かれているか
ということを忘れてしまうような
「集中」。

 頭の芯がかっかとするような、熱い
時間の流れ。

 自分のふるまいがみっともいいか
悪いか、そんなことを気にしないで
ただ手足をバタバタと動かしている。

 そんな小学生でいいと思うよ。

 分別はもちろん大事であるが、
同時に分別は敵であると思う。
 人間、もっともらしいことばかり
言うようになってしまっては
おしまいだ。

 逸脱こそが、生命の本質だからだ。

 思うに、生命体というものは、どんどん
逸脱しようとする傾向をなんとか丸め込もうと
四苦八苦しているうちに、いつの間にか
それが創造性とかポジティヴな価値に
結びついた、そんなプロセスだったの
だろう。

 どうやら、そのあたりに、
インターネットというメディアの
躓きの石があるのでは
ないかという直覚がある。

 ネットは、囲い込みではなく、
逸脱のための装置
にならなければ、きっと反生命的作用
をもたらすようになってくるだろう。

 ボクが小学校の時には、
インターネットはなかった。

4月 6, 2007 at 07:45 午前 |

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<桜盛り・神戸・須磨寺公園> 商店街にながれる「琴」の音、初めて須磨寺へ こられた方が、ゆったりとして癒されますねと 言っておられた。 [続きを読む]

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        昨日は、珍しく主婦業だけを終日やっていた。   PCをちょっと開いて   新聞以外、活字というものから離れて…   いつ以来だろう…こんな生活。   *   音楽を友に、何も考えないで   一日を過ごしてみようと思った。   実際、何も考えないとか思わないとか   そういうことはあり得ないのだけれど   せめて、身体の動きだけでも   家事に埋没させてみようとふいに思った。   *   リビングに出窓があって、   その網戸は内側についている。... [続きを読む]

受信: 2007/04/07 7:10:56

コメント

コメントを読んでいて、「逸脱」への言及を批判しているあたりは、ある種の逸脱(誤解も多少は伴っている)のようで、興味深い。妙な分析でしかも総合・統合がおかしいとも思ったけれど、それでいいのだ!とも思う。正しい逸脱とは?というどうでも良いような課題を思いつけたから。「人間の創造性や豊かな感性を開かしめるための逸脱」という解答が本文にはある。

投稿: | 2007/04/11 22:06:46

「ポジティブな価値」が「創造性」と並んだときに
物凄く、心がすーっとしました。
ほっとするような、
心が静かになるような。

これが「水を飲む」というものなのかしらん。

今週驚いているのが、
あらゆる人のかけらを
輝かしい宝石にして返してくれる
先生の凄まじい能力です。

以前からではありますが
今週はとかく輝いてます(笑

やっぱり先生はありえない。

呆然として、
見上げると共に
微笑まざるを得ない。

これは新しい喜びです。

たいていの人は、
ネガティブは言いくるめ、
ポジティブは言い直しで
理解の確認の為のそこどまりですが、

凄い人は、更に発展して、
また別の美しい形で引き上げられるんだ。

桜の花見の、韻の、
素晴らしい甘美もさることながら

知の贈り物であるこの輝きは、人生において
物凄く価値ある瞬間であり経験だと思っています。

確実に今後も他では経験できませんね。
どうしよう。
今年の桜は凄すぎる。

投稿: | 2007/04/08 17:37:38

HogeHoge様、
科学が科学者の浪漫を殺すのは、戦争など、科学(理論や技術も含めて)を醜い欲望の魔性を満たす為のツールとして使った時のみです。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/04/07 20:55:41

「人は全く恥のない表現はできない」という文から考えました。

だからこそ、人は逸脱しないように表現しようとする癖があるのでは?
逸脱というのは、発想の逸脱、ということでは?
つまり、「お笑い」の発想にも似たものではないかと。

逸脱、という言葉を「精神」とか「笑い」に結びつけるのは
個々の話だと思います。何に結びつけるのかというのは、
それぞれの環境に影響されたものかも。

私は、インターネットの囲い込みの話を大変面白く拝見しました。
人は囲まれることが好きなのではないでしょうか。
それが精神的逸脱であっても、社会的逸脱であっても、
お笑い的逸脱であっても、自分の発想の仕方からの逸脱であっても、
囲まれているという感覚があってこその逸脱。
囲まれている、という感覚も人それぞれのもの。

ゲージュツもそうですが、逸脱はその時代「恥」として
評価されたりしました。しかしながら、その後どうなったか。

言うは易し、行うは難し。
歴史に耐えうるものとは、時間と現代的価値観からの逸脱を
繰り返さないと難しいと思います。

私は科学の現場にはいないのでよく分かりませんが、落語は
茂木さんの語る「逸脱」的感覚を持ち続けた人が積み重ねたもの
だからこそ、残ってきたのだと思います。

現代社会での囲い込みについては、養老さんや北野武さんも
語るようになってきました。「ブロイラー」や「牧場に放し飼いされた羊」
などと。考えさせられます。

投稿: | 2007/04/07 15:11:36

廣末→廣松 でした。失礼しました。

投稿: | 2007/04/07 13:25:25

夢中になってしまいたい。集中して、何処かへ行ってしまいたい。
土まみれに今でもなれるはず。ちょっと位 服が汚れたって破れたって母さんが怒るだけで関係なかった。
今だって道をむやみに走っても いいはず。
そんなことをして変人と呼ばれてしまうのは悲しいけど、みんな変人なのが普通になればいぃのに!

投稿: | 2007/04/07 11:13:28

例外無く科学は最終的に、科学者の好きなロマンを惨殺しますよ。

投稿: HogeHoge | 2007/04/07 5:55:01

>人間、もっともらしいことばかり
>言うようになってしまっては
>おしまいだ。
>逸脱こそが、生命の本質だからだ。
いつの間にか、結構過激な思想になっていますね。

だとしたら、この上なく厄介で
扱いにくいシロモノだという事になりますね。

同時に人間は不完全な存在であるわけで・・
全ての人は未完成ゆえに「全く恥の無い表現はできない」
わけでもあって・・。

むしろ、逸脱するほどある意味恥をさらす
事が多い事すらあるわけで・・。

その逸脱を「推奨」するべきか、というのは
難しい所です。危険が伴いますからね。

しょせん我々の意識は認識の海に浮かぶ氷のような
ものだと私は思います。

そういう意味でインターネットは革命でした。
おそらくは、その氷を一斉に溶かして
しまいかねないほどの。

コンピュータとインターネットは、
人を認識の海の中へ叩き込みます。
逸脱にも崩壊にも適しています。
まさに諸刃の剣です。

だから、人に勧めていいものかは
難しいところがあります。
もう既にスラム化してますしね。

いっその事みんなその海に溶けてしまえばいい・・
その答えが例えばエヴァンゲリオンの
エンディングだった気がします。

それ以上の解答を今のところ私は
見つける事ができません。
いや、誰が見つけられましょうか。(笑)

人から概念を奪い去ったら、
一瞬にして人格は崩壊するのですから。

インターネットは精神の逸脱の装置であるべき?

それは明らかに危険思想ですよ、茂木さん。
気持ちはわかりますけれどもね。
そのテのヤバいサイトもたくさんありますから。

あぁ、確かに僕はよくこんな感じで
先端系の人に嫌われる事が多いですよ。
でもそれが僕の一つの役割なんでしょうね。

あなたはこうもおっしゃっていましたね。
「このままくるくるくるくると、虚空に
向かって行く事はできないものだろうか。」

初歩的なパラドックスですが、無は存在しえない
んですよ。架空の概念なんです。

この世界事態が無責任に産み落とされた孤児で
あるわけで、その欠片というかフラクタルである
われわれはその「自分と他人の後始末」
に日々四苦八苦するはめになっているわけです。

反吐が出るでしょう?しかし残念な事に、
僕は嫌味で言っているのでも何でもなくて、
冷静に分析しているだけなんですよ。

どこぞの本で、一定の水準にまで科学が
達するとその文明は消滅してきたなんて事が
書かれていますが、なかなかどうして
あり得そうな話だと思いませんか。

「救いは退化にあり」なのかもしれませんよ。

科学の根底には、どこまでも禍々しいものが
横たわっているのは、もう知っているはずですよね?

このコメントをブロックするくらいなら、
個人的に一種の見限りをつけたいと思います。

投稿: HogeHoge | 2007/04/07 5:17:50

久しぶりにコメントします。(^-^)

逸脱こそが、生命の本質って、いい言葉ですね!

日本人はそもそも規律正しい民族で、電車のホームでもちゃんと自然に並んでいるし、規律を守ることと、横並びが基本系になっているような気がします。(中国では全く並びません。我先にです)

近頃逸脱している人と言えば、犯罪者の逸脱は著しいですが・・。
逸脱も人に迷惑を掛けない逸脱だったら、OKですよね。

「明日から使える仕事術」の雑誌の中の写真で、茂木先生が本を読みながら電話しているものがありましたが、逸脱しているなぁ~と思いました。(笑)

私も以前、元気がある時、同時に3つのことをやるようにしていて、結構逸脱していました。子供の頃だったら、親に行儀が悪い、と絶対おこられていたと思うのですが・・・。


投稿: | 2007/04/07 0:53:33

言われてみれば…茂木先生や私達(からもう少し下)
ぐらいまでの世代が子供の頃は
インターネットなんて影も形もなかった。
TVとラジオくらいだったなぁ。


子供の頃って、一つの事に集中して時が経つのを忘れたり、

自分の振る舞いなんて気にしないで、とにかくジタバタと
動きまわっていたっけ…。とにかくヤケクソじみていた。
が、それがよかったんだ。

今の若い人で、やけに分別くさいことを言っている人が
いるらしいが、あまり若い頃から分別くさくなり、
もっともらしいことを言っているのは、
こう言っては悪いが、
人間として内面的に、早くも終焉を迎えているのではないか。

そーいえば、このごろ、自分のブログを去年の分から読み返しているが、
あの頃はどーも、こんなえらそーな事書いていたなぁ、なんて
何とも恥ずかしくなる事が多い。

なんとか逸脱しようとするのを丸めこもうとするうちに、
創造性などのポジティヴな価値に結びついたのが、生命体の
進化のプロセスならば、人間はもっと逸脱しつつ、
うまくまるめて、今よりもっと創造的な方向に
進化してもいいはずだ。


それなのに、何故、分別くさくまとまろうとするのだろう。

今のインターネットは如何言う訳か「囲いこみ」
に偏向していて、
人間の創造性や豊かな感性を開かしめるための
逸脱の為のツールになり得ていない。

そうしなければ、反生命作用をもたらし、
硬直した世界になってしまうだろう。


自分はヘンに分別くさくなって、
“終わった”人間になりたくはない。

インターネットなどに転がっている
躓きの石には躓かないよう
注意しながら生きていきたい。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/04/06 19:24:56

茂木さんの日記を毎日拝見するようになってから、意識というものを改めて意識するようになった。

そこで、かなり前に読んだ本を読み返したくなる。
例えば廣末渉が「意識は自己の外にある」と(多分)書いていた、『哲学入門』という岩波新書を書棚と押入れで探したが、見つからない。
廣末さんは茂木さんと同じく物理出身なこともあり、読み返すと面白いと思う。

インターネット辞書からのcut&pasteに頼ってナリワイ仕事して、すっかり「ゲーム脳」となっている私に、クオリア日記は考える機会を与えてくれている。

サンテグジュペリはある小説に「努めるべきことは、自分で考えることだ。試みるべきことは、それを伝えることだ」と書いたが、今のインターネットの、特にブログは、考えずに試みてばかりで、うんざりさせるものが殆ど。

投稿: | 2007/04/06 9:39:09

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