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2007/04/09

たどり着けない遠いものの方が

写真というものができて、
視覚的イメージはある程度固定、再現
できるようになったがために、
 私たちは過去というもの、
少なくともその一部を、フリーズして
おけるように思っていて、
 そのことが時間の流れという
ものに対する一つの対抗軸となるように
 心の中で担保しているけれども、 
 実際には写真があろうが、なかろうが、
時間というものはどうしょうもなく流れて
いて、
 今目の前にあるものは二度と還って
来ない、そのような覚悟が必要である
ことには変わりがないのではないか。

 「記録」と「記憶」というものは
およそ異なっていて、
 いきいきと想起している時の
「記憶」は、実は「現在」であり、
その「現在」の心的表象が過去の
ある時を「志向」している
だけのことである。

 しかも、この「志向」の対象は、
本来曖昧模糊としていて、
 「確かにそういうことがあった」
という過去の事蹟も確かにないことはないが、
むしろ立ち返る度に姿を変える
 「ソラリスの海」のような存在
として、一部の過去の記憶はある。

 歩きながら、ふと、昔のことを
振り返る時、心理的時間のあり方として
とてつもなく不思議なことが起こっている
という感覚があり、
 それは意識を夢中にさせるような
類のことで、その喜びに比べたら、
現代的な、乾いた機能主義的な文脈で
割り切るテーストのものは全て
色を失って退場していく。

 確か、小学校2年生の時、クラスで
潮干狩りに行ったことがあったのだと
思う。

 その集合写真が、白黒であった
ことも記憶している。

 写真は、印画紙の上の粒子のパタン
として今でもきっとどこかにあるのだろうが、
 その潮干狩りの日は、はるか彼方
の恒星と同じくらい遠い場所に行って
しまった。

 人間の精神の作用としては、たどり着けない
ものを思うことが、本来的なポテンシャル
なのではないかと考える。

 現代に生きている以上、現代に付き合わなければ
ならぬけれど、本当は出家でもしたい
気分である。

 たどり着けない遠いものの方が、
リアリティを持つように感じるのだ。
 
 朝から晩まで現代と付き合い、
デジタルの海を泳ぎながら、
「ほの暗さ」や「かそけきもの」
が心を占めてならない。 

そのうちのいくつかは、
還ることのできない過去に属する。

4月 9, 2007 at 06:05 午前 |

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3月26日(月)「神戸市中央区の商業施設「神戸ハーバーランド・キャナルガーデン」に 「モナリザ」のオブジェが登場、訪れる人たちの足を止めていると、 産経新聞に掲載されていた。 [続きを読む]

受信: 2007/04/09 9:58:40

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受信: 2007/04/09 23:54:26

コメント

写真を学んでいて思うこと。
写真などそこにあるものが映るだけなのだと。
デジタルは情報で、フィルムは郷愁だという。
そんなことはどうでもいい私がいる。
今ここに「ある」ことが大切なんです。

私は全てが「ない」と思っているから。
移り変わってしまうのだと思っているから。
今見えている色も形もないと思っている。
だから形になって、色がついていると
「ああ、あるんだな〜」と感動するのです。

般若心経を唱えた人たちは、
モノやイロやニオイがないと言っていたけれど、
「ない」と唱えると「あること」に驚くんです。
そして、「ない」ということに情熱をかけた人々の
思いが伝わってくるようなこともあります。
だから、撮るのが愉しいんです。
私にとってのカメラは、
般若心経の世界を日々教えてくれるもの。

投稿: | 2007/04/17 18:00:53

真夜中の帰宅中、河原の道沿いを
ボーッと自転車で走っている時に
あれ、何の問題解決にもなっていないし
私は間違っているのではないかと
思いました。

だからコメントします。

私も「澱」を沢山もっていて
その中に、「怒りのスイッチ」と
呼んでいるものがあります。

他者からの不条理な攻撃が
毎回毎回構築してゆくと
どんどんそれが傷になって
どんどん深くエグられていって
ただ触れられただけで条件反射の様に
思考が連鎖してしまい
瞬間的にもの凄い怒りに
支配されてしまいます。

大抵制御できないし、
落ち着いてから気づけばいいほうで、
実際30年間ずっと気づいていませんでした。

まるで、いままでの過去全てに
怒っているかのように
相手に当たってしまうのです。
相手に攻撃性がなくても
そうなるのです。

よく色々な人に
「相手にはそこまで悪気が無いのに
過剰反応しすぎだよ。」と諭されました。

確かにその通りだな
我慢しなければと思うのですが
だからといって制御はできませんでした。

私の家族は残念な位戦闘的なので
「愚か者には口論で勝ち返せ!」と
煽るばかりで敵は増える一方でした。

ちょっとずつ楽になれたのは、友達が、
私の爆発的な怒りを見ても責めずに
受け入れてくれたことでした。

そして「酷い事言われちゃったね。」と
毎回同情してくれました。

へえ、優しいなあ、嬉しいなあと思うと
スルスルっと楽になってゆきました。

だからといって直ぐに治った訳では
ありませんでしたが、
以来スイッチが入ると友達の
ところに行って、
「怒っちゃったのは仕方ないよ」とか
「悔しいね」とか
「ダイジョウブ?落ち着いた?」とか
言ってもらって
どんどん楽になってゆきました。

おかげで今は幾つか塞がっています。

先生の澱が私のスイッチと
同じ種類かどうかはわかりませんが

肩の傷がある人に、
肩を叩いて、痛いと叫ばれて
「悪気がなかったからいいでしょう」と
言う人はいないと思います。

だから触れてしまって
ごめんなさい。

いままで先生の澱みを聞いていると
ああ、間違った事を言われてきたんだな
確かに彼らにはデリカシーが無いなと
思いました。

先生は攻撃性を振りまくタイプではないので
先生の怒りは、本当は勘違いされたことへの
悔しさの悲しみなのではないかと思いました。

多分一緒に悔しんでもらって
悲しんでもらうと
どんどん楽になれるのでは
ないかと思います。

いつか心が落ち着けるといいですね。
澱が塞がるといいですね。

いつかきっと澱は消えると思います。

方法や理論というよりは
おまじないだと思ってください。


それではお休みなさいませ。
初夏の夜の草いきれが
優しいお香になりますように。

投稿: | 2007/04/11 4:18:44

<本当は出家でもしたい気分である>と書く脳科学者はやはり面白い人物やなあ。仏門に入って、厳しい修行をする中で、アハが連続するかもしれない。あのcrazyな哲学者は絶海の孤島、小学校、僧院へ本当に行きましたね。 などと書き始めたときにラジオ深夜便ではタンホイザー、巡礼の合唱が流れた。

ソラリスのラストのロングロングロングショットは神の視点ですね。

写真、メージ、言葉。もう帰らないあの夏の日。フロイドの「子供時代はもうない」。

投稿: | 2007/04/11 2:32:59

写真が凄いと感じることは
視覚で捉え 記憶に残る画像では捉えきれていない
物、影、風景に新鮮さを覚えるときである。

見ていなかったのか?
眺めていたのか・・・
視覚に入っていても 記憶に残っていない物たち。
今さっきの情景で、しかも自分で空間を切り取ったのに・・・

最近のデジカメはすぐに画像が見える楽しさもあるけど
現像という時間を経て・・
自分の脳に残る撮影時の記憶の残像と写真の実像のGAP。
そんな胸弾ませる瞬間が懐かしくて
時々 フィルムで写真を撮ってしまう。

投稿: | 2007/04/10 20:47:34

昨日はたどりつけないものはと
写真ではないものはと
延々と作品描きに没頭しておりました。

よし完成!と思いきや、
既に朝、
外はとっくに晴れていました。

春雷は終わり
気持ちの良い青空です。

三寒四温のめまぐるしい変化に驚きながらも
あわせて長時間の作品作りをしてきましたが
今回は既に昇華されておりました。
あれ、これはどうしよう。

10kbの大作(笑)ですが、
もはや青空なのだし、
雨雲を延々綴る作品などまあいいかと
デジタルの海にポイと捨てました。

一晩の澱みよ、さらば!


死を思う一瞬を描く姿を
否定したわけではありません。
メメント・モリはふわりと芸術を彩ります。
そして、私の見解では
箱書きの一筆には辿り付けません。

しかし私の見解で奇妙な事実には辿り付くという
数々の不思議もあるのです。
気づいたのは10歳の頃。
相対論どころか、読書すら知りませんでした。
私の心脳問題への出発点です。


ところで今日は気分転換に初夏を思わせる
ベルガモットのフレグランスをつけてみました。
香る度に、みずみずしい気持ちに満たされます。

手首に一滴、そっと乗せる。

そんな大切な一瞬を
ゆっくりと想いを馳せながら味わいました。
小さなエッセンスで、とても幸せな気分になっています。

投稿: | 2007/04/10 17:55:42

ソラリスの海、
とても懐かしい。
「タルコフスキーは、いいぞ。
いずれは、お前も、惑星ソラリスを
ちゃんと見ろよ」
と笑って、まだ若かった頃の父が
すぐそばにいた。
父が他界してから、
ときどき 昔のことを思い出す。
うすらぼんやりと
あの頃に過ごした茶の間が見えてくる。

映画「惑星ソラリス」を見たのだったか、
まだ見ていないのか、さっきから
思い出そうとするけど、
どちらでもないような感覚になってきた。


投稿: | 2007/04/09 22:37:43


現在が乾くほどに過去や未来への「志向」が強くなって、
いつかそのひずみで茂木さんから
何か生まれるのではと期待するのは
人間味のない仕草でしょうか?

自分にとってリアリティのある確かなものは、現在にはないということが、
現在を生きるポテンシャルになるというのは、
皮肉めいてるけど気高い気がします。

投稿: 西永 昌代 | 2007/04/09 20:26:36

自然界の圧倒的なダイナミックレンジ。
写真で撮れるのは、そのごくごく一部です。
Mac等のモニタで再現できるのは、さらに範囲が狭まります。

撮るなんて、できないです。感覚としては、
「形骸を残す」または「メモ程度に記録する」という
感じです。そもそも記録のための道具だったんですよね。

あと、福祉系に進んだ事で偶然
ものすごく貴重なカメラが山盛りの古い店に
偶然出くわす事ができました。ラッキー。

個人的には現在オリンパス(過去ソニー)を使ってます。
SP-350 Cyber-shot F717、W5という
わりとしょぼいカメラでがんばってました。
いや、F717とかは今でもけっこう使える
画質なんですけどね。カメラはPCみたいに
陳腐化が早くないのが良いです。

これってウイスキータイム?

投稿: HogeHoge | 2007/04/09 19:55:41

過去の事柄は、映像だけなら
写真というものが出来てから、
フィルムや印画紙に定着出来るようになったが、

映像以外の全て、例えばその時の風のにおいとか、草花のそよぐ様子とか、友とカワした会話の内容とかは、
何万光年の遠さに匹敵する、記憶と言う名の「ソラリスの海」の中に流れてしまっている。

しかも記憶は“ソラリス”なのだから、振りかえるたびに「印象」が変わる。

たしかあんなこともあった、こんなこともあった、と思い起こすたびに
カタチが変わるものだ。

今まで生きてきた過去の日々の記憶は、
もはやたどり着けないソラリスの海の上で浮かんだり沈んだりしている。

しかし、実はそのソラリスの海は、脳の中に潜んでいる。
しかも、思い起こすたびにリアリティをもって表れる。

過去という、脳の中のたどり着けない遠いものに思いを馳せ、
思い出のソラリスに身を任せることも、
現代と密着してばかりいて、草臥れ、
衰えゆく私達にとっては、何にもまさる良薬だろう。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/04/09 19:39:28

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