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2007/03/22

初めてであるはずだから

 赤瀬川源平さんにお目にかかる。

 「初めて会ったのに、初めて会ったとは
思えない」方。

 赤瀬川さんは、「ハイ・レッド・センター」
のような前衛芸術からそのキャリアを
始められたが、当時の自分たちの活動が
もはや伝説と化し、歴史的研究の対象に
なっていることにある時気付いて愕然と
したと言う。

 赤瀬川さんの言われていたことで
印象的だったのは、「言葉になってしまっては
もうおしまい。あとは「営業」の領域に入る」
ということだった。

 赤瀬川さんは、何かの本質がわかったと
思うと、もうそこで興味を失って、
 次の活動に移ってしまう。
 わかった後でも続けるのは、
「営業」に過ぎないからである。

 赤瀬川さんは
 「老人力」という言葉を流行らせたが、
世間ではネガティヴにとらえられている
概念が、ポジティヴな文脈でとらえられる、
その最初の一撃は面白いにしても、
二回目からは「営業活動」になってしまう。

 「まあ、世の中には営業活動の方が
向いている人もいるし、それは生きるためには
必要なことですからね」と赤瀬川さん。

 何しろ、「最初」「はじめて」というのが
良いといのである。

 初めての時に、よろよろふらふら
みっともない。
 そのような脆弱さの中にこそ、生命の
本質は顕れるのであろう。

 脈絡なく思い出したこと。

 学生の頃、死の苦痛のつらさと、
死後自分が存在しなくなってしまうという
無の恐怖と、どちらが恐ろしいかという
議論をしていた。

 その頃の私は、そりゃあ絶対
不存在の方が恐怖だと答えていた。

 しかし、最近になってつらつら
考えるに、死ぬ前に痛いのはやはりイヤ
だなあと思う。

 美しいものや、やさしきものも
感じられる一方で、苦しいこと、
恐ろしいことも認識できる。 
 「意識」というシステムは、なぜそのような
トラップを用意しているのか。

 歩きながら考えていたら、ああそうか、
私たち一人ひとりが、キリストなのだと
気がついた。

 人類の罪を全て背負って、大変な苦痛の
中で死んでいったキリストと同じ苦難を、
私たち一人ひとりは経験する。

 輪廻転生でも信じていない限り、
生きるのも初めて、
 死ぬのも初めてであるはずだから、
そりゃあよろよろ、ふらふらもするさ。

 しかし、それが地上にささやかな
生を受けた私たちの価値というもんだろう。

 脈絡なくそんなことを考える
私は、きっとバカであるが、
 桜の季節、生命の気配が横溢する時には、
案外そんな連想が浮かぶんじゃないか。

 新潮社から今度小林秀雄さんの講演の
新しい音声記録が出るが、
 それを聴きながら歩いていたので
そんなことになったのかもしれない。

3月 22, 2007 at 07:04 午前 |

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» 人の意識の特性。 トラックバック 銀鏡反応 パンドラの函
@桜の花もそろそろほころび始め、お花見シーズンまでカウントダウンの始まった感の有るきょうこのごろ。仕事の現場へと通う路地の片隅に菫の咲くを見る。 @青紫のアメジストのように輝く菫。汝はしかし、決して自分が美しい、とか、可憐だ、とかいうことを考えてはいない。美しいとか可憐だとか思うのは、汝を見ている人間のほうだ。 @天に枝を伸ばして、花開くを待つ染井吉野も、アスファルトの路地に枝をたらす枝垂れ柳も、汝自身が美しいとか、たおやかだとか、しなやかだとか、という意識は持ってはいないのだろう。 @汝等を見つめ... [続きを読む]

受信: 2007/03/22 20:33:49

» Ready-made トラックバック 日々是点々(Nioさんの独り言)
題 「バランス」 Ready-made・・・レディ・メイド 英語で「既製品」。反 [続きを読む]

受信: 2007/03/22 20:57:47

コメント

イエスは死んでしまうけれど、復活しますよね!
聖書の中でも一番好きな美しい場面です♪
マグダラのマリアはイエスのことを
ひとりの男性として見ていたのではないか?
アヤシイ~。
と高校生の時に話合っていたことがありますが、
「それはそれで、いいじゃないか」という結論に(笑)。

よろよろ、ふらふらして、
感情も、一人称のささやかな死と復活を
繰り返しながら生きていて
これが脳が傷つくというヤツなのでしょうか?
落ちる椿の花に例えられたカタストロフィのように
その「死」には大きいも小さいもなく。。。
死んだときに泣きながら待っていて、
復活したあとも引きとめようとしてくれるマリアみたいな存在が
都合よくいてくれるわけではないところが寂しいです。

寒さがぶり返した日、駅のプラットフォームを
翅を震わせながら淡い黄色の小さな蛾が這っていました。
うっかり踏み潰してしまうところだったのですが、
懸命に歩き続ける痛々しく、けなげな様子に、
犬や猫を見たときのような感傷的な気持ちになりました。

中沢新一さんとの対談で中沢さんが
「ライオンの高貴さに勝るハイエナのいじらしさ」と仰っていましたが
ハイエナや蛾のいじらしさまで感じながら生きている
人間って一体なんなのだろう?「人間」はひょっとしたら、この世で一番
いじらしいことをやらかす生き物かもしれない、などと
一匹の蛾が原因でイロイロ考えてしまいました。
暇ですね、私。。。
(ホントは蛾は苦手です。あのヘアリィな質感が不気味なんですが、
もし天然パーマの蛾がいたら、ちょっとカワイイ(笑)。
でもメンガタスズメとか飛んできたら泣きます。)

投稿: まり | 2007/03/24 22:25:49

茂木先生の優しさが滲み出ていますね…。

「脈絡もなく思い出したこと」…と書かれていますが、私にはそうで
はないような気がしてなりません。

ただこれは推測ゆえ…ただ改めて生きることの価値を見直すことが
できたように思います。

1人1人がキリスト…自分の生の上にいろいろな方々との交わり、
関係があり、それを背負って生きていく私たちの生の一瞬一瞬を大
切に生きていきたいものですね。

投稿: コロン | 2007/03/23 5:58:04

中学生の時、激痛を伴うある病気で入院した。激痛で3日間眠れなかった。3日までは覚えているが、後は朦朧とした状態になったようで、とんでもない幻覚が色々来た。病院のベッドから人の手が何本も生えていて、それらを避けるような姿勢で寝た。また、そのころから興味があったストラビンスキーが、青白い顔で付き添い人用のベッドに出てきてくれて、色々話をしてくれた。リアルにストラビンスキーが見えた。そのときはまた、強烈な甘味の味覚に襲われた。

苦痛のささやかな記憶であるが、苦痛の話題に遭遇すると今でもはっきり思い出す。

幻覚を見るときと、覚醒時に物を見るときの、脳の状態の違いを知りたい。

投稿: fructose | 2007/03/22 22:47:33

桜の季節は、生きること死ぬということ、生命について、淡い花びらがどうしてこんなにも深く刺激してくるんだろう、と思います。「脆弱さの中にこそ、生命の本質は顕れるのであろう」という言葉が、とても印象に残りました。ところで、小林秀雄さんの講演の中で、日本人は桜が好きだが、自分は嫌いだ、というようなお話をされていたような。私の記憶違いかもしれませんが。そのカセットテープが自宅にあったかどうか、今晩これから探してみようと思っています。
「初めてであるはずだから」、とても素直に心に響いてきました。私でも分かり易かったというか。歩きながら、考えられたとのこと、そのおかげかな。実は、茂木さんのクオリア日記、つい先日「初めて」知り、「よろよろふらふら」しながら拝読、これからも心待ちにしています。

投稿: フミ | 2007/03/22 21:36:05

冬に戻ったような寒い日々からやっと解放されて、
徐々に暖かくなっていき、
染井吉野の蕾を次第にほころばせていくきょうこのごろ。

フラワーピッグこと茂木先生も、
私達一人一人がキリストと同じ苦難を経験して生きる、
という一つの真理に思いをはせている。
(勿論それは、釈尊もマホメットも
同じだったと思うのだが!)

よくよく考えて見れば、覚者たちもわれわれも
同じ人間であり、
だからこそ、生きて居る間に
いろいろ苦難を経験するようになっているのだろう。

それを引き受け、クリアしていくうちに
人生の軌跡は描かれ、少しずつ死へと近づいていく。

いまわのきわに、痛みなくして
死ねるならよいのだが…。

何故人間は美しさややさしさを
感じると同じように、
苦難をも感じてしまうのか?

…ということを、
ふらふらよろよろしながら考える時、
それが最も高等な意識を持ってしまった
人間のサガというもので、
この地上にささやかなる生を受けたからこその
かけがえのない一つの価値なのでもあるわけか。

赤瀬川源平さんといえば、
(御存知であられると思いますが)
たしかどこかの雑誌で
「アカイアカイアサヒアサヒ」
と題して、
「朝日新聞」をパロッたイラストや、

マンホールのフタなどを観察する
「路上観察」ものなどで
名前を知っているが、
本来は前衛藝術家で、
その為に当局からにらまれたこともあったという。

その赤瀬川さんが、
「言葉になってしまっては、もうおしまい。
あとは営業の領域に入る」といわれていたことは、
いうならば「物事も本質がわかると
なーんだ、こんなもんか、と
つまらなくなることがある」
ということなのかもしれない。

そうなれば、あとは「営業の範囲」
ということになるのかもしれない。

物事の本質がわかってしまった後というのは
そういうものなのかもしれないけれども、
もしそうだとしたら、何とも味気ないような
気になってしまう。

ともあれ茂木先生も我々も、覚者たちのように苦難に出会い、
苦悩し、突破し、前進し、歓喜する。
それは人間誰もが大なり小なり
経験することなのだ…。

みんな、ふらふらしながら、よろよろしながら、
人生の道程を歩んでいる。そうやって
人は成長と進歩、創造を続けているものなのだ。
そこにこそ人生の価値と醍醐味があるのだと思う。

覚者たちのように苦悩・苦難を感じつつ、前進と進歩と
歓喜を味わう人生は畢竟、
価値創造の連続なのではないか。

人生の道程に有る苦難を避けていては、
苦悩もないかわりに、
成長と進歩の醍醐味も
価値創造の手応えも味わえまい。

苦悩と苦難は当然乍ら
誰しも避けられないものだ。

私はふらつきよろつきながらも
それらを乗り越え、大いにおのれを拓いて、
生きていきたい…と思う。


投稿: 銀鏡反応 | 2007/03/22 20:07:26

夕方、自転車で買い物に行った帰り、でこぼこに舗装された道路を走り家へと向かいました。道の両側にはきれいとはいえない家々の外壁が連なっていました。しかし、一本道の先には夕暮れの空が広がり、寒くもなく、暑くもなく、自転車を漕ぐには最適な時間で,自分と自転車、その場の大気が一体となっているような感じです。やがて、見慣れた通りに出た時、街路樹として植えられた辛夷が白い花をつけて、ぽん、ぽん、ぽんと見えました。ああ、なんて美しいんだろうと思いました。世界はあるがまま、そのままで完全なんだと。私の母は20年前に肺がんで亡くなりました。小学校でお世話になった先生は千葉にいますが、卒業以来お会いしたことはありません。そのようなことを含めて、人の営みにいとおしさを感じます。勉強したり、学問をしたりして、世界の構造がほんの少しわかるようになることと、上記のような感動とはどのように関係しているのでしょうか。きょうは、努力や勉強があってもいいし、なくてもいい、どちらでもいいや、世界はそれらがあってもなくても、それなりに美しいと感じました。

投稿: kasumisou | 2007/03/22 18:59:16

クリスチャンでもない自分が『受胎告知』の表現に心惹かれるのは、私たち人間の一人ひとりの中に存在する「キリスト」を感じる事ができるからなのかもしれませんね。

投稿: うすだ | 2007/03/22 11:31:50

教えていただき、ありがとうございます
小林秀雄講演CD買います

僕も痛いのはイヤです
癌などの難病にかかると麻酔(薬?)をつかって意識をもうろうとさせてでも痛みから遠ざかろうとするみたいですし
その瞬間に不存在の苦しみは忘れるほどに痛みが前に来るのかもしれません
それにしても幸福の死というものがあるのかどうか
僕には分かりませんが、できればそういうもので死にたいモノです

投稿: 後藤 裕 | 2007/03/22 10:02:56

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