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2007/03/03

雑草ぼうぼうの場所

ボクは、朝から夜まで追い立てられる
という生活に身体が慣れてきて
しまっているのかもしれない。

 走る。読む。書く。話す。考える。

 心を込める。だけど、手応えはきっと
ずっと後になって来る。

 このところ、移動中などに
ぼんやり考えるのは、子どもの頃
やっていたへなちょこな遊びに浸って
みたいなあということ。

 紙と鉛筆。
 十円玉二個。
 原っぱと石ころ。

簡単な準備があれば、工夫して、ずっと熱中する
遊びを考案できる。

 ルールの決まったゲームもいいけれども、
本当の醍醐味は、自分でルールを面白く
していくことだ。
 
 この前、取材か何かでどこかに行った
時のこと。
 空き地に棒が一本落ちていて、
それとちょうどいい感じの枯れ草のかたまりが
あって、
 思わずそれでゲームを始めてしまったのだが、
悟られるとなんともまずい光景だった。

 だいのおとなが、空き地で夢中になって
へんてこ遊びをしているところは、どう
考えても尋常ではない。
  
 だから、アクションとアクションの間に
時間をおいたりして、通行人や、ショッピング
センターに入ってしばらく出てこなかった
同行の編集の人に気付かれないようにした。

 思えば、あの時間は昨年の一番楽しかった
ことの一つだったのかもしれない。

 一日のうちに、とても楽しみなことが二つあった。
 
 一つめは、入来篤史さんが
研究所に来て、みんなの前でトーク
してくださったこと。

 もう一つは、中沢新一さんとの
対談。

 二つの機会とも、ボクに人生の
喜びの源泉について思い出させてくれた。

 入来さんが延長されたボディ・イメージの
先に見ているものは、
 中沢さんが野生の思考の中で感じて
いらっしゃることときっと同じだろう。

 どんなにシリアスな仕事でも、
それが最良の表情を見せるときには、きっと
間違いなく「遊び」へと化している。

 だから、仕事に追い立てられていても、
それは、子どもの頃、夕暮れまで夢中になって
遊んだあの原っぱの風景につながっている
はずであるが、
 その一方で、時には一切の社会的文脈から離れた
雑草ぼうぼうの場所に身を投じてみたいとも
思うのだ。

3月 3, 2007 at 01:43 午後 |

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昨日、お話した「グレゴリー・コルベールさんの写真」は 最近では、いちばんのオススメといえるくらい素晴らしいと思っています。 ほかにも、私のまったくの「個人的な楽しみ」がいくつかありますので そのお話を、してみようかしら〜と思っています。 [続きを読む]

受信: 2007/03/07 21:46:02

コメント

少年時代に自然にはいる。
草に肌を切って痛いんだけど棒切れ片手にぐんぐん進む。
本当に何もかもが黄金の時代だと思いますね。
今飛び込んだらどうなるだろう。考えるだけで楽しい。
しかしもっと勇敢になる必要があるかもしれませんね(笑)。

蛇の抜け殻に大騒ぎする。何気なくどかした土くれの下に
ピンクの体をすり寄せて震えるモグラの赤ちゃん達を見つけハッとして
隠すようにまた土をかぶせる。遊び方も楽しみ方も自分達でつくった。

馬鹿であれ。ハングリーであれ。
もっと尊大で強欲で野蛮だったはず。
仕事に没入しながら原っぱに突入する隙をうかがう人生も楽しそうです

原っぱで遊ぶ大人の姿を発見するのも子供にとってもいい事かもしれません(笑)。


投稿: 宏 | 2007/03/05 0:55:46

仕事も遊びも、真剣に本気で打ち込めば面白くなるという共通
の本質がありますよね。また、しっかりと働いていないで遊ん
でいると、どこか不安で純粋に楽しめない…という表裏一体の
関係でもあります。

だとすれば、仕事には、真面目な中にも遊び心を常に忘れない
…、それが仕事に傾注し、また共同作業でもお互いが愉しんで
やれる大事な心の持ちようなのかもしれませんね。

投稿: コロン | 2007/03/04 5:35:49

雑草ぼうぼうの場所で遊んだ記憶があるって、素敵なことですよね。
私は、なぜだか、そういう経験に人間を感じてしまう。
最近の子どもの遊びの場面で、そういう雑草ぼうぼうの場所は、
ないようであるのか、あるようでないのか。ないようで、やっぱりないのか。そういう場所が大人にはなさそうでも、どっかに見つけているのかも。
まあ、とにかく、自分を解放できる自由な時間は、
とても大切な気がします。
そうだよね!って思いながら、茂木先生の言葉に共感しております。

投稿: しーさん | 2007/03/04 2:19:23

 昨日の中沢新一先生との対談に参加させていただきました。
中沢さんのお話を直接伺うのは初めてで、質問のお答えでおっしゃっていた芸術のお話など素敵でした。以前ほとんど同じようなことを武満徹さんの文章で読みました。茂木さんの朝のブログで対談を知り、おかげで当日申し込み、参加できました。
 茂木さんのお話を聞く度、知的好奇心をかき立てられ、もっと勉強しなければ、もっと勉強したいという気持ちになります。素敵な時間をありがとうございました。
 また、いろいろお話を伺うにつけて最近思うのは、茂木さんは高校までの教育についてはどうお考えなのかな、ということです。教育の現場に携わっている私は、時々、生徒にとって何を教えることが大切なのかわからなくなってきます。ぜひそのうちお考えをお聞きしたいです。

投稿: ウエタ | 2007/03/03 22:07:53

茂木さんはじめまして。
NHKのプロフェッショナル私の流儀を観て、茂木さんのファンになりました。

私は現在ブラジルに住んでいるのですが、先日アマゾン流域に行って来ました。


忙しくしていると同じくらい失うものも多い。

ゆっくり生きていると、失うものが少ない。

でも実は「そう感じるだけ」。

ゆっくりと生きていると、失っているという感覚に出合わないだけ。


人は皆 生きたいように生きていてる。

そして全てそれでよく、全ての生き方がイコールだと私は感じています。

プロフェッショナルこれからも楽しみにしています。

茂木さんの大ファンより♪

投稿: 塚本昌子 | 2007/03/03 21:18:28

中沢新一氏との対談、mp3化が難しいようでしたら、是非何らかの形で文章化を希望申し上げます。竹内薫氏との対談もそうですが、やはり私にとって特別な物です。

投稿: icons | 2007/03/03 21:08:39

内容とは全く違うことですが・・・

走る。読む。書く。話す。考える。
心を込める。だけど、手応えはきっと
ずっと後になって来る。

これを見て、自分の場合の仕事の手応えは、はるかかなた何十年も先のことだなぁと改めて思いました。
自分の職を通してしか考えたことはありませんが、今私達が仕事としてしていることは、目の前の人にはもちろんだけど、その人を通してその子、孫に対しても影響してくるのだと聞いたことがあります。目の前の母と子をを通して、今見えていない未来の子供や親になっていく人達にもケアしているんだと。
今、手応えを感じようとは思わず、自分が見れないかもしれない未来を見通して(というか、私の場合は夢見ながら?)物事に取り組んでいくというのもいいことなのかもしれないと思います。

投稿: 俊 | 2007/03/03 19:36:49

へなちょこな遊びなら、自分もよく子供時代にやった。ただし自分の場合は、茂木博士のような一種少年らしいものとはちがう。

たとえば、こうである。

私の昔住んでいた近くにも、それこそ雑草ぼうぼうの空き地があった。その中に分け入って入っていくと、いろんな粗大ゴミが転がっていたりする。そのいわば「雑草の大草原の中のゴミで出来た遺跡」に学研の付録の顕微鏡を持って入っていって、いろいろのぞいてみる。
そうすると、いつもみていた世界がえらく巨大化して、なんだか異次元の世界に自分が入ったような気分になれた。

あと、家の中で、鏡を持ち出し、それを量目の下に当ててものを見ると、いつもの家の中がたちまち鏡を通して異次元の世界になった。鏡に映った天井が、実際見ている光景と合体して、えも言われぬ不思議な世界を作り出していた。

そのほかにもいろんなへなちょこ遊びをしていたが、覚えているのはたいていこの二つである。

茂木さん、変人と見られるのを承知で、棒切れと枯れ草で遊びを思いついてしまうなんて、やっぱり皆さんが茂木さんを「少年のような人」というのもうなづけるなぁ。

「ゲームの本当の醍醐味は、自分でルールを面白くしていくこと」か・・・あらかじめルールが決まっているゲームよりも自分で面白いルールを考えて遊ぶゲームのほうが、それだけ創意工夫が出来て、楽しいものね。

それにしても本当にお忙しい茂木博士、たまには一切をなげうって、雑草ぼうぼうの場所に身を投じたい、とお思いになる気持ち、よく、わかります!

私も今より忙しかったら、そう思うに違いないですから。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/03/03 14:20:39

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