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2007/03/11

芽をぴょこんと出す草のように

ぼんやりとシャワーを浴びて
髪の毛を洗っていたら、
なんだかアタマのあたりが痛い
気がする。

 おかしいなあと思って触って
みると、やはり痛い場所がある。

 それでやっと思い出した。前の晩に
米本さんの打ち上げの飲み屋で梁にごつんと
やったのだった。

 これも一つの「アハ体験」ではあるが、
忘れていたことが情けない。

 渡部昇一さんに初めてお目にかかった
時、one shot learningの話をしたら、
渡部さんは、即座に「ああ、それは、ゲシュタルト
心理学で言うAha-Erlebnisじゃないですか」
と言われた。

 あの世代の人たちは教養が違う。

 日本テレビの「世界一受けたい授業」
の収録のために汐留に。

 竹下美佐さんに、一目見るなり
「先生、前髪がヘンですよ」
と言われた。

 「それはですね、きっと、昨日
ゴツンとやったからです」
 と説明した。
 しかし、いかにたんこぶがあると
言いながら、それほど髪型が変わる
わけがない。

 「あと、シャワーを浴びたのが、
約50分前だ、ということも関係
しているんじゃないでしょうか」

 竹下さんがヘアメイクの人を
呼ぼうとしたので、あわてて、
いいです、いいですと言って
トイレに行って鏡で自分で直した。

 髪の毛を気にして鏡の前で直したのは、
過去5年、10年記憶のないことである。

 小学校の頃、髪の毛を夜洗うと、
次の日必ず春になって芽をぴょこんと
出す草のように、あちらからもこちらからも
飛び出してそれはさすがにまずいと
押さえつけてもまたぴょこんと戻った。

 髪の毛は朝以降に洗うものであるという
方法論は、あの苦い経験から生まれた。

 もっとも、小学校の時はお風呂に入っても
本を読んでカラスの行水で、髪の毛を
洗わずに出てくることも多かった。

 一週間くらいは洗わなかったことも
あったように思うけれども、今思うと
なぜそれで済んでいたのか、不思議だ。

 真冬の体育集会で、半袖半ズボンで
校舎の陰で寒風に吹かれてぶるぶる震えて
いたのも、今考えると不思議だ。

 時間が経過すると、常識は変わる。
 今当たり前だと思っていることも、
そのうちとんでもない非常識と相成る
のだろう。

 新潮社の金寿煥さんと歩きながら
話した。

 「ボクは、知的な成果というものを、
説明的な散文としてではなく、何か
もっと直裁的な形で感性に訴えかける
ように表現できないかと思っているんですよ」
と言ったら、金さんは、
 「南直哉さんもまさに同じことをおっしゃって
いました」と言った。

 金さんは南さんの『老子と少年』の
編集を担当した。

 南さんと恐山で話したことは大切な思い出
としてある。
 
 表現における常識を非常識にしてみたい。

3月 11, 2007 at 10:02 午前 |

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みなさんこんにちは! ワンポイントストアドットコムスタッフブログ へようこそ! 今読んでいる本の冒頭に、 とても面白い記述がありましたのでちょっとご紹介。 イリノイ大学で行われた有名なラットの学習実験の話。 2匹のラットを用意して、それぞれをカゴに入れて飼育します。 1匹目はオモチャや遊び相手もなく、一匹で育った。(刺激が少ない) 2匹目はオモチャや遊び相手と一緒に育った。(刺激が多い) この2匹のラット�... [続きを読む]

受信: 2007/03/13 4:27:26

コメント

            常識ー非常識

             信じてた

   うさぎ跳び ・ 母原病    完全排除 ?

  ☆ 母性本能 ・・・  母性は本能では 無い

 


 

投稿: 一光 | 2007/03/12 7:58:08

科学の反証可能性をも揺るがす可能性がある表現方法の追究…
おもしろそうですし、その可能性を茂木先生は芸術に見出して
いるんですね。そして先生は、非対称性の思考を排除して、無
意識の世界を開放する…、その中で1つ1つの存在を規定せず、
全体的関連性の中で個体性を浮き彫りにすることに挑戦されよ
うとしている。学問の総合化を目指す上では必要な取り組みだ
と思いますし、その試みが心を豊かにしてくれる方向へと進む
ことを期待しています。

投稿: コロン | 2007/03/12 5:44:47

こんばんは。

茂木先生、よほど強くおでこをうったのですね。
お大事にして下さいね~。(^-^)
最近、子供の頃のお話が多いですが、大人になると、あまり
転んだり、頭をうったりしなくなりますよね。
私は小学校の頃
家の階段を上る所に低い所があって、しょっちゅう頭をぶつけていました。
それで、あまり賢くないのかもしれません。
それにしても、茂木先生が小学校の思い出を書くときは
なんだか、かわいいなぁ~、って思います。

投稿: tachimoto | 2007/03/11 23:12:27

日曜出勤、会社から拝見しています。
ああ、部屋を掃除したい。
ベランダの草木の手入れをしたい。

今年は暖かいので花が早く実が散乱しています。
掃除をしなければいけないのですが
その実を求めて今日小鳥が集まっていたので
まあいいのかな。

今日の日記は哲学の道を散策しながら思考に耽いる感覚に似ています。
最近通勤時に歩く時、色々思い浮かぶのが楽しくて。
思考が情動と名づけられる前の喜びの心を積極的に
受け止めようとしているからではないかしらん。

最近頭がフル回転でなにかなものを受け止め様としているみたいです。
言語中枢は動いてないのに、頭の奥が加速していてボーっとする。
美や愛や喜びが優れた創造性を生み出すのはこのためではないかしらん。
言語中枢を失った脳が別の場所にそれら情報を受け止める場所を作るのも
なんだか似た作用な気がします。

このなにかなものをクオリアと言ってもいいのですが
自分の言葉から離れるのは怖いものなのです。
自分が言っているものに含まれるものとそうでないものがあって、
それが共通の言葉で語られた瞬間にそれぞれの人の
共通経験に一気に収束させられる。

文脈が流れを作ってくれますが、それでも、
言葉単体の意味って良くも悪くも強すぎる。

でも、まあ、ここならそれも大丈夫な気がしています。
だから居心地が良いのかな。

生気論と魚の論文についての感想は
クオリア入門と生気論の本を読んでから改めて書くとします。
今書いても感覚的にまだ足りなくて、
無理やり自分の経験内に収めて変なベクトルを生んでしまいそう。


「知的な成果というものを直裁的な形で感性に訴えかけたい」

また、さらりと、
物凄いことを言う。

物凄く険しい道ですよって、
またも私が言うまでも無いですね。

色々な人が先生を見守るわけだ。
期待するわけだ。応援するわけだ。
ふと、心に思い浮かんでも、何の足がかりもないまま
ただ心過ぎ去るのを待つものに、
面と向かって進む人がいる。

嬉しくなります。

この日記を訪れて1月と10日間。
ようやく先生の人と為りが見えてきた気がします。
私はなかなか鈍いですね。

あ、そうそう髪型の話、
竹内先生との対談の時に、モソモソって直してましたよ。
竹内先生がその時、妙に先生を見ていたのでよく覚えています。
珍しかったんですね。きっと。

さて、またも長話ししました。
そろそろ仕事に戻ります。


投稿: ゴースト | 2007/03/11 16:36:19

草といえば原っぱを思い出します。「子供の頃遊んだ思い出の草原」はなかったと思っていたのは思い込みだったことについ最近気づきました。団地と団地の間に必ずあった芝生のスペースは、とても人工的だったけれど、バッタもいたし花も咲いていました!そこで「人工衛星、人工衛星飛んでった!」と輪になって歌いながらくるくるまわって(最後はみんなで一斉に手をはなしてとんでいきます)いた遊びは、何だかとても象徴的だった気がしてきました。

投稿: とんさと | 2007/03/11 13:17:14

長くなりますが堪忍してね。
昨日、911の遺族と話す夢を見ました。←この辺ですでに異常。英語話せないのに。
二年前位の情熱大陸で、菊地成孔の回を観てないんだけど、後からhpで、“音楽で平和になれるか!??”という質問で、“それはお金があれば幸せになれる、と同じく甘い考えだと思う”という激烈な回答をしていて、とても驚きました。さすが!!!見た目だけじゃなくカッコイイ〜。
“華氏911”とかで見た気が、“ニルバーナ”を聞いて道徳心を捨てた。という様な事を言っていたのを思えばそうかもしれないし。ニルバーナ案外好きだけど。
個人的にラブ&ピースって言葉が大嫌いなのです。それは阿呆な若者が音楽だけで平和になれると言って盛り上がっておきながら、行動に移さず適齢期になって、これが現実だと開き直るのが許せないからです。身近かな人にもそういう人が沢山居ます。
でも馬鹿らしく見えても平和的な事って、芸術面でしか言えない気がするし、続けてゆくしか無いのかなぁ。美輪さんみたいに。
ということを無意識に寝ながら考えてしまい、寝た気がしません。御嶽廻りに行ってきます。ユタムニィ(ユタの偽物という意味です)。無意識にも思春期。とりあえず投稿。

投稿: kinadesu | 2007/03/11 12:42:29

常識というのはある意味、可変的なもので、
時が経てば、それまで常識とされていたのが、
あっという間に非常識に変わってしまう。

例えば、「男女7歳にして席を同じうせず」
という昔の「常識」は、
いまや、完全に「非常識」の類いとして
「化石」化してしまっている。
(みんな男女席を同じうする時代に
なってしまったからだ)

ある時代にはあたりまえとされていた考えかたが、
時代が変わればあたりまえでなくなるのは
歴史の必然事項かもしれぬ。

しかし、中には時代がいくら経過しても
なかなか変化しない「常識」もある。

障害者や外国人など、
自分達とは異質な人々に対する差別感情は、
その最たる例だ。
女性に対する古い考えかたも
まだまだ残っている。

もう21世紀だ。そろそろこれらのような
考えかたは、
非常識になって好い筈なんじゃないか。

茂木さんは、
「表現における常識を非常識にしてみたい」
とおっしゃっているが、
「差別」のような社会にくすぶる頑固な「常識」も
「非常識」に変えてみたいものだ。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/03/11 11:33:23

髪の毛、平安時代の貴族の女性なんていう
厄介な身分ではなくて良かったですね♪

投稿: まり | 2007/03/11 11:07:28

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