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2007/03/21

雪が空からの贈り物であるように

 大手町の
 日経サイエンス編集部で、
国立科学博物館の篠田謙一先生と
お話する。
 
 篠田先生のご専門は、分子人類学で、
ミトコンドリアDNA、とりわけ変異が
大きいd-loop領域の分子配列を手がかりに
人類の進化、日本人の起源に迫られている。

 ミトコンドリアDNAは環状で、
16000bp程度である。
 最近は、縄文や弥生時代の骨からも
PCR法によってDNAが抽出できるように
なった。

 だいたい、一つのサンプルから200bp
程度のシークエンスを回収できるという。

 ミトコンドリアは母親の卵子由来なので、
「母系」の系譜がわかるということになる。

 人類の起源については、長らく、多地域で
並列的な進化が行われてきたと考えられて
いたが、
 DNAの配列の変異が思ったよりも
少ないことなどを手がかりに、
 イブという一人の女性を源とする
アフリカの単一起源説が有力視されるに
至った。

 イブと7人の娘たちから始まった
現生人類は、さまざまなルートで世界中に
広がっていく。

 その際、海沿いのルートは、食料を得るための
方法が同じなので、有力かつ安定している
のだという。
 陸路だと、狩りの対象になる動物の
種類や個体数が増減して、不安定になる。

 国立科学博物館の新宿百人町にある
施設は上野のいわば「バックヤード」
で、標本を収集し、調査、研究する
さまざまな活動を行っている。

 昆虫類についても、大変な
数のストックがあるらしい。

 大量の標本に囲まれた生活というのは、
幼い頃から、私の夢が織りなされている
大切な糸の一つである。

 篠田先生に、「ぜひ伺います!」
と再会を約した。

 東京の街をパスモを手に疾走しながら、
「メメント・モリ」の問題を考えていた。

 長い間大切に受け継がれていく
「クラッシック」は、つまり、「メメント・モリ」
の精神によって作られるのではないか。

 生というものは猥雑で、豊饒で、
さまざまな紆余曲折に満ちている。
 そのいきいきとした消息の中に
私たちは毎日暮らしているし、
 そのような浮き沈みがなければ、
私たちの生命も存在しない。

 その命の潮流を、ある限られた
対象の中に、あるったけの思いを込めて
注ぎ込む。
 そのことによって、超越した
ものの姿が見え始める。

 ムダやうろうろやアチャーが
なければ、人生は空しいけれども、
 その一方で、メメント・モリの
精神で、 
 自分の手を離れて流通していっても
一つの確固とした姿をとって人々の
心を動かし続けるような、
 そんな静止した何かに力を
注ぎ続けたい。

 空から降る雪の結晶は、上なる
世界における空気や水分や結晶の
核たちの大変動の結果として成長する
「メメント・モリ」。

 雪が空からの贈り物であるように、
私たちの生命の躍動から生み出される
「メメント・モリ」は、
 世界に対しての掛けがえのない
捧げものになるはずだ。

 死の結晶化原理に正面から
向き合って生きる時、
 私たちはこの地上の生を
その潜在的可能性のありったけにおいて
輝かせることができるのだろう。

3月 21, 2007 at 07:25 午前 |

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» メメント・モリの詩 トラックバック 銀鏡反応 パンドラの函
桜が咲く時 そこからすでに 死の序章が始まっている 我等 月満ちて 母の胎内より生まれ出づる時 死への歩みが始まっている 儚き 脆き 我等 生きとし生けるもの みなすべての 生よ! ただ臨終のことを習いて 生のかけがえのなきを知れ そこにこそ 我等が生を 光り輝かせる 哲理がある 何時命が尽きるか分からぬ 我等生物 そんな我等は 宇宙の片隅の何処かの 太陽系と称する世界で 太陽の廻りを 他の惑星達と一緒に えらい早さでぐるぐる公転し 自分もコマのように 秒速で ギュルギュル廻っている 地球とゐう名の... [続きを読む]

受信: 2007/03/23 22:34:50

コメント

死は誰にも(全ての生物に)訪れるのに、経験した者はゼロなので、「どんなん?」と訊くことが出来ず、不安の究極となっている。海外出張なんかでも、初めての行き先は不安であるが、2回目ともなると楽しみでもある。

「動物に死の不安の意識はない」と書く人もいるが、田舎で牛を出荷するときの大粒の涙を子供の時見たときの記憶からすると、信じられない。猫が体調を崩して弱っているときに私を見つめる目には、不安が感じられる。

一方で、不安がすべての活動の源泉であるということも、年齢を重ねるにつれてよくわかる。死という概念(経験はできない)を紛らわす、解消するために、人間は夢中になれることを探しているという側面は確かにある。あることに集中して「忘我」の境地に入ることが快感なのは、「忘死」の側面が強いと思う。人が急に亡くなって、葬儀屋との打ち合わせから、納骨、役所への届けなどの、家族にふりかかる一連の忙しさも、よく考えられ、歴史的に容認されてきた緩衝期間で、死の悲しみの紛らしに貢献している。

昔、ジャンケレビッチという人の「死」という本を眺めた記憶があるが、フランス哲学者特有の流儀で延々と書かれており、当然「あなたは仏革命時のジャコバンの末裔です」などというような、生前、死後についての、怪しげな記載はなく、「生を考えること←→死を考えること」を漠然と感じた。

演歌によくある「どうせジンセイ一度じゃないかぁ~~」は、究極の深い真理を歌っている。だから、こうする、あきらめる、・・に夢中になる、などの原点である。

カラオケという言葉はカンオケに近く、ジンセイ(一次会)で盛り上がったあと行くべきところである、だからみんなついて行く、という珍説もある。いきなりの一次会カラオケは盛り上がるが、二次会のカラオケはなんとなく沈むことが多い。のかな。

このような文章が延々と続けられるように、死を考えるということは、生について考えることに、私にとっては、なります。

投稿: fructose | 2007/03/22 1:51:06

先ほど、ふと ラヴェル ボレロが耳に入ってきました。

「あれ、茂木さんのリズムではないか・・・。」と
感覚的に勝手に思ってしまった。

あのゆるぎないリズムが。
絶対にゆるがない、っていうそういう感覚。
力強さを感じました。

先日訪れた、京都醍醐寺、三宝院の庭、
「あっ、あれもレディ メイドの集結だなあ」と思いました。

投稿: 平太 | 2007/03/21 21:26:50

イブの7人の子たちが始りなんて?ほんとに信じていいの?途惑う・・。
だって冥王星だって急にいなくなったし・・。知るってことも、身勝手だったりして。   
それからすれば、絶対的なものなのでしょうね
「メメント・モリ」昔、どなたかの写真集でオペラピンクのショックをいただいたので、そのお色のじゅばくから放たれずにここまで。色も有無を言わせず絶対的なところがあるので・・・。色はコワイ。
人類最古の物語?詩?楔形文字の粘土板に刻まれていたのは、王ギルガメシュの死生観ともとれるのでしょうか?
こどもの時を生きている「ひと」にも気づいた大人が伝えていければいいな・・。生は限りアルこと。昨日には戻る事が出来ないし、あしたは不確定。生は崖っぷち。確かに知って信じられる事だけも充分なのかな?

投稿: 井上良子 | 2007/03/21 15:22:50

死と向き合う。
これは人間の宿命かもしれません。
未来を予期し必ず滅することを知るに至ります。
様々な死生観がありそれに対する態度がある。
何かを残そうとする人も人生そのものを一個の芸術とする人も
沈黙する人も揺らぎつづける人も自ら向かう人も捧げる人もいる。
他人の死があり身近な死があり自身の死がある。
キラキラと降り注ぐ輝く雪のような「メメント・モリ」たち。
限りあるが広く、此処ではないが間違いなく今此処と繋がってるどこが
へ行くための契機になる。降り積もった雪で何しよか。
まずはぐしょぐしょになるまで雪にまみれてみようか。
いろんな形の結晶にみとれてみようか。
最近自分がよく感じるのは型が邪魔になってきたということ。
「完成もタブローもない、解釈がある」と自分の中のピカソが
怒ってる。自分がいるのは大空が繋がる世界。型の中ではない。
創造的破壊は飛翔のための何気ない予備動作にすぎないかもしれない。
傷ついた羽でも大空で降り注ぐ雪とダンスしたくなった。

雑文すいません。蠢動の中で極めて誠実に書いたものですので
見苦しいかもしれません。


投稿: 宏 | 2007/03/21 11:13:33

この記事とはあまり関係ないコメントで恐縮ですが、
キッズgooってありますよね。
そのフィルタリングに僕のところのサイトが
全部引っかかる事が分かった(Appleの
MacをはじめようとProのページも)ので、
他にも色々試してみました。
茂木健一郎 クオリア日記もフィルタリングされていました。

どうやら、アダルトな内容だけではなくて
「哲学的な言葉」もフィルタリングしているようです。
子供には哲学は有害という事なのでしょうか。

確かに、一部だけ見て「お母さん、生きる事って猥雑なの?」
と訊かれたら困りそうです。

ちなみにキッズgooはじかれサイト同盟バナーなるものも
存在するようです。

投稿: HogeHoge | 2007/03/21 10:43:59

猥雑にして豊穣、紆余曲折、試行錯誤まみれ、
ときには迷妄すらきたす…
それが「生」のありのままの姿だ。

その「生」の躍動をある対象に結晶化して
封じこめると、超然とした「美しいもの」として
体現される。

その『美しいもの』を生み出すにしても
いろいろなスタイルがあるが、
なかんずく崇高なものを生み出そうとすれば、
如何せん死の結晶化原理に真正面から
向き合わざるを得なくなるのではないか。

ダヴィンチやワーグナー、ニーチェ、ゲーテといった
後世に名を残す藝術家や哲学者、文学者は、
死というものの内包する結晶化の原理に
嫌でも真正面から向き合ったからこそ、
後世に名を残す作品や著述を残したのではないか。

死者というのが、その人のこれまで生きた生の軌跡が
凝縮し結晶化した姿だとするならば、
「美しいもの」を産み出すということは、畢竟、
死の結晶化原理=メメント・モリと
生身で向き合うことに相違ない。

人生そのものにおいても、メメント・モリに
真正面から向き合って生きる時、
「私達はこの地上の生を、
その潜在的可能性のありったけにおいて
輝かせることが出来るのだろう」。

メメント・モリと向き合い、
凝視することが地上の生を光輝なるものに
変える原動力となる。
他者の生も、己の生もひっくるめて。

そうしなければ、私達は地上の生というものを
“かけがえのないこと”と受け入れることは
出来ないだろう。

最近多い、生命がないがしろにされる
数多の社会的事件は、
死の結晶化原理なるメメント・モリと
向かい合うことを忘れたが故に
起こるのではないか。

いまこそ!現代人は、メメント・モリを
意識の片隅において、
それと向き合うことを心がけた方がよい。
人生をかえって豊かに出来ると思う。

人生の全軌跡の「結晶」なる死と向き合わずして、
輝く豊穣なる生を生きることは
出来ない。

所詮、誰も死から逃げられないのだから。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/03/21 10:00:26

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