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2007/03/14

ヤケクソになって裸で走り回っているうちに

早稲田大学で、相澤洋二さんと三輪敬之
さんが主催する「理論生物学」の
シンポジウムがあった。

 第一日目の最初は、郡司ペギオ幸夫が
しゃべった。

 私はすこし遅れて座って、
池上高志はさらに10分くらい遅れて研究室の
学生たちとやってきた。

 池上は、私の後ろの席に座ると、
論文の校正の内職を始めながら、郡司の
話を聞いていた。

 しばらく立って、後ろの池上が、
「相変わらずぜんぜんわからないなあ」
とつぶやいた。

 オレは後ろを振り向いて、
「お前、内職するなよ〜」
と言った。そうしたら、池上は、
 「しょうがないだろ〜 いそがしいんだよ」
と言った。

 郡司は、「底が抜けたfunctor」の
話をしていた。

 郡司の話は、いつも誰にもよくわからない
のだが、それでも、「お昼にラーメンを
食べるか、それとも天丼を食べるかと迷って
いた男が、やっぱりどっちも食べないで帰って
寝ちまおうと思う」といった、自然言語に
よる発話だけはわかるのが通例であった。

 ところが、昨日に限って、自然言語の
ところも何を言っているのかよくわからない。

 私の友人で、そういうひとは二人いる。
つまり、郡司ペギオ幸夫と、塩谷賢である。

 質疑応答の時間になった。

 池上が、郡司のモデルが、特にセル・
オートマトンのシミュレーションになった
時に、定常状態しか扱い得ず、系の様子が
変わる進化のような問題を扱えないという
ことを問うた。

 私も、郡司のシミュレーションは、それが
どのような存在論的/認識論的な立ち位置に
あるのかということをいつも聞いている。
 そのあたりは、先に『現代思想』に
出た私と郡司と池上の鼎談にある通り。

 しかし、今回は何となく郡司を擁護
したい気持になって、
 「卵割などを見ると、実質的に新しい
秩序が生まれる余地はないから、むしろ
見えない秩序が顕在的な秩序へと変わる、
そんなホメオスタシスを考えざるを
えないのではないか、そのような
視点から、郡司のシミュレーションを新たな
光の下で見ることができるんじゃないか」
というようなことを言った。 

 休憩時間になって、池上と外に出た。

 池上が口を切る。

 「おまえ、なんで仕事しなかったんだよ。」
 「いやあ、郡司の話を聞きながら仕事を
するようになってしまったら、もうおしまいだと
思って。」
 「おまえ、偉いなあ。それにしても、同じ
研究会にオレと茂木と郡司を一緒に呼ぶって、
イミがないだろ〜(笑)。誰か一人を呼んで
うんぬん、というんだったら、わかるけどさ〜」
 
 池上が言いたかったことは、つまり、
「濃すぎる」ということであろう。

 「それにしても、オレとお前の考える
ことはなんでシンクロするんだよ〜
オレも、最近homeostasisとadaptabilityの
関係を考えていたんだ。」

 確かに、池上の手元の論文には、
homestasisうんぬんかんぬんとあった。
 
 「オレはこれからのセッションでは仕事を
するからな。後ろに行くからな」
と言うと、池上は、
 「お前、後ろいくなよ〜」
と言ったが、私は後ろに行った。

 ところが、話を聞きながらあれこれ
考えるのが面白く、パソコンは開かず
ずっと聞いていた。
 お陰で、さまざまな仕事が遅れました。
関係者の方々、ごめんなさい。

 郡司のあとは、早稲田大学の学生や先生を
中心とした
「まともな」科学の話で、私が大学院の
時にやっていた生体運動のモデルや、粘菌の
走電性など、本当に面白かった。

 その一方で、いわゆるconventionalな
科学の内包している、深刻な方法論的限界
も感じざるを得なかった。

 認識の本質、生命の本質をとらえるという
意味では、やはり余りにも狭すぎる。

 セッションが終わり、池上と歩きながら
また話した。
 
 「後半の話を聞くと、郡司の話の必然性も
またわかってくるよな」
 「そうだな。」
 「かといって、底が抜けたfunctorでいいか
というと、そんなこともないしなあ。」

 「困ったなあ」と二人で豪快に笑った。
 それはすこしヒステリックな笑いだった
かもしれない。

 引き留めたのだが、池上は仕事が忙しい
というので先に帰り、私も右に同じだったが、
エイとヤケクソで懇親会に行った。

 郡司や、三宅美博さんや、相澤さん、高野さん、
それに早稲田の学生さんなどと話して
いながら、「Aでもないし、かといって
Bでもないしなあ」という池上との会話の寂しい
気分を、ずっと引きずっていた。

 現代の学問のいけないところは、
ヤケクソのバカエネルギーが足りないことで
はないだろうか。
 荒削りでも何でもいいから、一見結びつかない
ようなものどうしをえいやっと関係付けること
以外に、先に進む道はないように思う。

 ヤケクソになって裸で走り回っているうちに、
きっとなんとかなるだろう。

3月 14, 2007 at 07:03 午前 |

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コメント

みんな科学者は、ツルツルして固いものに孔を穿つような仕事がしたい。今回茂木さんがコメントされている郡司先生もその雰囲気は判るが、私には理解できるような文章やモデルではない。

年齢とともに、文章の大切さがよくわかる。例えば最近、松野孝一郎先生の、遺伝子についてのお考えを「現代思想」のゲーデル特集で読んだが、私には「もっと要約できるんちゃうんか!!」と叫びたくなる文章でした。

結論:でもヒステリックな科学者は好きです。なぜなら、彼らは真剣だからです。

投稿: fructose | 2007/03/15 2:00:59

茂木センセイ。ご無沙汰してました。
ホワイトマジック講演依頼です@@@@@
ところで、ことしは雪(ホワイト)が降りませんでしたね(東京)

最近、アハ体験にはまっておりまする@@@@@
ところで、ヤケクソになって裸で走りまわる(?)
これからも元気で走り回ちゃってくださいね。

センセイのmp3の講演はまだ全部聞いていませんが、共鳴する部分が多々ありました。ありがとうございました。

追伸:うちの庭にいる新芽たちは、ただいま光合成中です。新芽の時間です。

投稿: Emi.W. | 2007/03/15 0:15:58

セル・オートマトンの限界は私も少しかじり勉強をしたときに
感じていました。とはいえ、意識がニューロンの発火現象と捉
える今の脳科学ではその発想に依存しなければならないのも仕
方ないのかもしれない…なんて思うこともありました。

一見結びつかないものを結びつける…それは例えば粉体工学の
世界で感じたことがあります。粉体を粒子として捉えるのか、
はたまた集合体として捉えるのか…その解釈によって、数式の
立て方は違ってきます。

いずれにしても量子論の量子のように、あいまいの中に合理性
を求めていく…そんな発想が私も必要だと思います。

投稿: コロン | 2007/03/14 21:19:36

今日はホントに楽しそう。
生き生きとしてますね。

先生が美術や哲学の話をするときに、
「要素」から「本質」を得る行程を与えてくれますが
でも最初に式を立てることそのものが
センスとヒスったものです。

先週LINUSさんとお話したときに
オシラサマの話になりまして、
ああ、オシラサマは
式を立てる天才なんだなと思いました。

生気論にも同じイメージがあります。
解くことはできなくても
式は立てられるのでは?
式は立てられなくても
点は得られるのでは?。

鳥が人間と共通する愛情表現を持つこと
魚が社会認識すること
桜が綺麗なこと

これら不思議を覚える感覚の妙を
更に分解して具体的な言葉にするのは私の得意分野で
(少なくとも、このHPに来るまではかなり
優秀だと思っていましたが)

こういった要素を点にして連続してゆけば
線になるのではないのかなと思ったのです。

自分の感覚が実験結果。
悪くないなあ。
まあ私なりの方法で。
言葉遊びじみていますが
中学生の自由研究レベルってことで。

今まで思っていたベクトルを捨てて
とりあえずは純粋に経験から
点を集めてみようと思いました。

早速、山を愛してジープを乗りこなす
最強のカンを持つ友達にこれらのなんとなくを
話をしましたら面白がってくれました。

そこで自然の中にいて美しさが不思議なものを
教えてくださいなといいましたら彼女は
「蝶」と即答。

ああ、もう混乱。
蝶は変態するもんなあ。

仕事時間をそんな風に使っているので
はかどるわけもなく、
昨日の進歩は最低でした。

今度是非オシラサマを講義にお呼びしてください。
一度お目にかかりたいです。

投稿: maya | 2007/03/14 19:53:21

きょうのエントリーを読むと、
極めて知的で濃くて、
なかなかに面白い、シンポジウムだったらしいですね…!

ペギオさんのお話は、1度拝聴したいものです。

それにしても近年の科学界は
茂木さんの言われるように、
ヤケクソバカパワーが足りないと思う。


普通の「マトモな」科学の捉えかたでは、
粘菌の走電性などの「説明」は
出来ても、人の認識・生命の本質を捉えるには
あまりにも狭過ぎる・・・。

科学に疎い私でも、普通の科学が、
生命や認識の本質を捉えるには
やはりムリがあると感ずる。

それはやっぱり、そのマトモな科学自体に
何か凄まじいバカエネルギーが欠けているから
なのではないか。

生命や認識など、いまの科学が捉えきれない
難問をしっかり捉えるには、
もっと新しいパラダイムというか、
何か大きい新たな“潮流”を引き起こさなくては
ならないのかもしれない。

その為には
茂木さんの言うように、科学者たちが
なりふり構わず「ヤケクソ」になって
バカパワーを
引き出すしかないのでは、と思う。

茂木さん、池上さん、郡司さん、
何卒、ご奮闘を!!

投稿: 銀鏡反応 | 2007/03/14 18:38:57

初めて投稿致します。

「ヤケクソのバカエネルギー」に賛成です。

と、文面から推測するに「現代の学問そのもの」について仰有っている訳ではなく、おそらく、学問に携わる人(研究者・学生・教育者など)の「姿勢」についてのことだと思います。

その「ヤケクソの~」は、学問の枠だけなく、「社会」に対して、と置き換えても差し支えないように思います。

ただ、この「現代社会」は「破天荒さ(ヤケクソの~)」を許さない風潮があるように感じます。

一昔前(近代)でしたら、そこに意気込みなどがあれば「荒波」を受け入れてくれ、なんとかなった、と顧みますが、現代では全般的に「スマートな」とか「スリムな」といった人間性が求められているようです。学生、教員、社会人……、つまり、破天荒な人間が「登場しない(現代の学問のいけなさ)」のは、「制度」としてそうなってしまっているファクターが大きいのではないでしょうか、ということです。

教壇に立つ側から、脳科学者の立場から、なんらかの「アクション」ができないものだろうか、との視点からコメントさせて頂きました。

投稿: 久路毬(くろかさ) ゆう | 2007/03/14 17:00:10

お二人の会話が楽しいです。
現代思想を読んだとき、郡司さんのところがものすごく難しく感じたんですが、
そのわけがいまわかりました。
茂木さん方にも難解なお話だったんですねえ。
文に起こされたかたもすごいですね。

わたしには見えない世界ですが、身近なところと同じく、
やはりはめをはずせないというか、レールのうえに載って進んでいる世界なんでしょうか。。

茂木さん、お体にはくれぐれも、気をつけてがんばってくださいね。

投稿: M | 2007/03/14 15:51:13

ヤケクソのバカエネルギーですか。名言ですね。
人間、かなり追い込まれないと火事のバカ力が出てくれないですが、
それを何回か繰り返しているうちにやりたい時に
バカ力が出せるようになる気がします。

毎度の事ながらとても共感できる&勉強になるブログ
ありがとうございます。
僕もえいやっとやってみたいと思います。

PS.
MacBook DPが200枚になりました。

投稿: HogeHoge | 2007/03/14 12:47:08

 どうでもいいけど、どうでもよくないし、どうでもいいやと、どっちでもいいやも、どうやらこうやらで、へったくれもないな
あなたは誰ですか、わたしです。ヘロン。

投稿: haru ichibann | 2007/03/14 12:23:30

私も普段、絶対に口に出さないぞと決めてる言葉に「疲れた」と「忙しい」があります。特に忙しいのは、現代病みたいなもので、忙しいのが美徳というか、かっこいいとされてる風潮がある気がします。
でも「忙しい」ことを言い訳にし始めると、とっておきの「楽しみ」や「気づき」が消えていく、しかもそのことに自身が知らずに過ぎていくのが、もったいないのです。

茂木先生のように、やけくそ!これ大事です。どうにでもなれ!は不思議とどうにでもなるものです。

現実、仕事のしわ寄せがきたりはしますが、それで充実した夜が持てたなら、乗り切る元気も出るってものです。

(もちろん茂木先生とは、スケジュールのレベルが違いますが)
私も偶然、本日、週で一番多忙な水曜日なのに、3日前になって友人が北海道より上京(しかも1日だけ)との知らせがあり、「忙しかったら、無理しないで」の言葉に「ひまだから朝、空港まで行くよ」と約束しました。しかし、午前の飛行機は欠航。結果、夜にゆっくり会うことになりました。

都合のいい考えですが、忙しぶらない人間に神様はちょっと味方してくれるような・・?
こういうことって、わりと頻繁にあります。

やけくそで、全てを受け入れる茂木先生にも、きっと神様は味方していますよ!

投稿: 菫 | 2007/03/14 11:05:02

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