自分が持って生まれた天分などというものは
昨日に続いて、新潮社から今度発売
される小林秀雄の講演テープに心を
動かされたから、そのことを書く。
ジャン=ジャック・ルソーは、
『社会契約論』や『エミール』などにおいて、
個人と社会の関係をいわばパブリックな
視点から論じた後に、最後に『告白』
を書いて自分がいかにダメな人間か、
情けないやつであるかを赤裸々に
語って、死んでしまった。
そんなことを話した後で、
小林さんは、ゴッホの書簡集が
いかにすぐれた告白文学であるかという
ことを論ずる。
弟へ宛てた手紙が、弟がゴッホを
尊敬していたので、紙切れ一枚に
至るまですべて丁寧に
保存されていて、そのおかげで
ゴッホという一人の類い希なる
資質をもった人間の魂の成長の過程を、
丹念にたどることができる。
その手紙から見えてくるゴッホの
生涯は、つまり自分の「個性」という
ものとの壮絶なる闘いであると
小林さんは言う。
自分が持って生まれた天分などと
いうものは、いわば偶然の産物であって、
普遍などとは関係ない。
いかに自分の個性を克服し、
普遍に至るかということが、
芸術家としての本懐であると。
その過程でゴッホは三十数枚の
自画像を描き、耳をそぎ落とした。
普遍に至る道とは、自分の個性との
壮絶なる闘いであるという
峻烈な思想が、私の心にずしんと
突き刺さった。
世の中に、個性が痛々しいほど出て
しまって、その「クセ」のようなものが
鼻についてなかなか普遍に至れない
人というものは多いものである。
それを心やさしく「その人らしさだから」
と言いくるめることはもちろんできるが、
芸術とは確かにもっと厳しいものである。
これは自分の個性だからなどと
開き直っていては、とても大成できる
ものではない。
小林さんの「批評とは無私を得る道である」
という有名な命題も、そのような峻烈な
自覚があって初めて生まれて来たのであろう。
ゼミの後で話している時に、野澤真一に
上の話をして「お前はどう思う?」
と聞いたら、曖昧な顔をしていた。
野澤は修士1年だし、まだまだ
これからであるが、彼が「サンドバック」
的な資質を持っていることは得難い
傾向だし
うまくすれば伸びると思う。
そこにぼうと立っていると、
何となく何か言いたくなる。
そんな資質は、賢くまとまっているように
見えるよりも得である。
最初から賢くまとまってしまうと、
のびしろが少ない。
ゴッホも小林さんも、きっと、
のびしろたっぷりの、ゆえに時々
ばかなこともやる巨きな人たちだったに
違いない。
3月 24, 2007 at 08:06 午前 | Permalink
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コメント
何年か前にゴッホの種まく人の絵に出会い、動けなくなって
美術館の人に声をかけられて、離れたことを思い出しました。
想像以上に大きくて紫色だったことは、強く、覚えています。
種をまく人の表情が不可解で、興味が湧き離れられなかった。
☆生涯は、つまり自分の「個性」というものとの壮絶なる闘いである
嫌な自分、けれど離れられない自分・・どうにかしたいです。全く。
新潮社から今度発売される小林秀雄の講演テープ。私も聴きたいな♪
真似て、遠い駅で降りて夜の街を講演を聞きながら歩いてみたいと
思いました。 真似られるのは不快かも知れないけれど・・・
真似るは学ぶに繋がる。という事でどうか真似る事をお許し下さい♪
投稿: tomo | 2007/03/25 5:24:37
昨日の「つまらないからこそおもしろい」に勇気付けられ、今日、「その人(自分)らしさだから」と開き直っていては、伸びないよ、というお話で、私の中で、うまいこと気持ちのバランスが取れたような。
地元の博多弁でいうと、よかよか、それでよか、と言われた後、しゃーんとせんか、なんばしよっと、と気合いをかけられたような感じです。
今日、ゴッホの画集を開いてみました。その中で、弟テオ宛てに「美しいものを描くには、私たちの内部からではなく天上からの光が、いくぶんかの霊感が必要だ」というゴッホの言葉が目に留まりました。
のびしろ、は、向こうからやってきて、のびしろになってくれるもんなのかな。そのためには「壮絶なる闘い」があるのでしょうか。私には、想像も及ばないような・・・。
小林秀雄さんの講演テープが聴ける!
さらに、茂木さんの解説が読める!発売、とても楽しみにしています。
投稿: フミ | 2007/03/24 20:34:57
よく、個性的なことはけっこうなことだ、という風に平素は語られがちなのだが、
こと芸術(美術・文学・音楽などすべてをひっくるめて)に関しては、
個性とは芸術家としての「本懐」を遂げるために
壮絶なほどに戦わなくてはならない厄介な「相手」だというわけか・・・。
周りを見ると、「個性が際立っている」というのはわかるけれども
「普遍」を感じさせる芸術作品はまことに少ない(気がする)。
昨年七月だか、初台のICCセンターに茂木先生らによる
シンポジウムを拝聴しにいった際、
一見して面白いメディア・アート作品に巡り会った。
ゲーム感覚で遊んで楽しめるものがほとんどだったそれらの作品は、
しかし、今思えば、見手の、魂の奥深くを大きく共鳴させるほどの
つまり、見手を大きく「響かせる」ほどの、
「普遍的」なものが何もなかったように思える。
これらの作り手は、要するに自分の「個性」との壮絶な戦いをしないで、
作品を作ったのかもしれない。
「自分が持って生まれた天分などというものは、
いわば偶然の産物なのであって、
普遍などとは関係ない。
如何に自分の個性を克服し、
普遍に至るかということが、
芸術家としての本懐であると。」
本当の「芸術」を生み出すのだったら、
癖のようになってしまっているおのれの「個性」と
仮令ゴッホのように耳をそぐほどの
(自分には到底そこまでできないが)
壮絶なる死闘を繰り広げないと、
「無私」を得る道に到達せず、
本物を生むことなどできはしないのにちがいない。
私のような者がこう言うと生意気のようで申し訳ないが、
自分が周囲から「個性的」といわれてふんぞり返っているアーティストや、
これが自分の個性や!
と開き直っているそれは、本当の意味での「芸術家」ではないと思う。
それはいわゆる「没個性」になることを恐れるあまり、
自己の「個性」と向き合い、真っ正面から戦い、普遍に至るまでのことを
していないからだ。
普遍へ至る道とは、己の個性との壮絶なる死闘という言葉は、
なんと峻厳、かつ峻烈なのだろう!
そうしなければ芸術家として本物になれない、大成できないというのだから、
芸術家への道は生半可な気持ちでは貫けない・・・。
そんな思いがいよいよ強くなってきた。
そして、きょうのエントリーで、
そのことに気づかせてくれた茂木先生に、心より感謝している。
投稿: 銀鏡反応 | 2007/03/24 15:15:21
>普遍に至る道とは、自分の個性との
壮絶なる闘いである
勉強させて貰います
個性的な人間というのは恐らく個性的であるが故に
他を寄せ付けず、受け入れず
そう言う中で自分の生きるスタイルというか
自分のフィールドを作ってその中で
(ある意味)安全に生きようと願うのではないかと思います
しかし、普遍に至るには自分の唯一の誇り、唯一の価値観である
その個性すらを打ち砕く覚悟が必要なのでしょう
過酷な道であります
一度か二度か分かりませぬが苦労して作り上げた
価値観、また身につけた能力からの自信
それを全て否定して
白紙の状態から、また個を作り上げていく
あまりの恐ろしさに足を踏み出せない事ばかりですが
その人が普遍や芸術に魅入られたなら
行かねばならぬ道なのでしょう
投稿: 後藤 裕 | 2007/03/24 8:49:43
今日の記事を読ませていただいて、
芸術とは、いかに自分の個性を克服して、普遍へと至るかなのだ、というふうに解釈したのですが、
そのことを思うと、
急に、漱石の「則天去私」が思い出されました。
もしかして、漱石もゴッホや小林秀雄さんと同じような考え方に至っていたのかな…と。
投稿: サイン(koichi1983) | 2007/03/24 8:33:38