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2007/03/27

きっと迷妄なんだよ

数年前から、
学士入学で法学部に行ったという
話をする時に、時々ふと
思いついて「今思えば仏文にでも行って
おけば良かった。その方が今の生活に
役に立っただろうに」
などと付け加えることがある。

 仏文の方が法律よりも圧倒的に
「役に立たない」というのが世間の
常識というものだから、
 今の私の生活はきっと何らかの意味で
尋常ではないのだろう。

 もっとも、勝手にそんなことを
やっているわけだから、仕方がない。
 オペラの上演で、感動して、
スタンディング・オベーションを
自分がやったからと言って、
 他の観客にも「お前も立てよ」
と強制するような気持は私にはない。

 帰りたい人は、とっとと立ち上がって
帰れば良い。
 きっと、電車の時間があるとか、
早くビールが飲みたいとか、そのような
実際的な必要があるだろう。

 自分のような酔狂なことを考えている
人が社会の構成員の多数を占めるように
なってしまったら、きっと世の中は立ちゆかなく
なると思う。

 体育館のようなところで、ある人が
仏文を専攻したと聞いて、
 「よくそんなに役に立たないことを
専攻しましたなあ。はははははは」
と豪快に笑う自分の声にびっくりして
目が覚めた。

 今となっては、なぜあんなに
豪快な気持になったのか、とんと
思い出せない。

 もっとも、自分にとってエッセンシャル
だと信じる問題について考える時に、
 時代との距離をたくさんとらなくては
ならないと感じていることは事実だから、
 そんな状況が心理的に作用したのだろう。

 長い進化の過程や、一生をかけた
学びのプロセスにおいては、
 何か実質的な変化があったり、
無から有が「創発」する余地があるように
思えるかもしれない。

 しかし、一個の受精卵が卵割して
多細胞生物になるその発生の過程
においては、何かが実質的に
付け加わるということはないだろう。
 
 だから、基本的にその変化は実は
恒常性(ホメオスタシス)の表れ
と言うしかあるまい。

 生命と非生命、意識と無意識の間に
絶対的な差異を見いだそうとするのは
おそらく迷妄である。

 「動く」ということの不思議さを、
現代物理学は後付けでしか整理できないが、
万物が動くということの中に、生命
の基礎があることは疑いない。

 一見動いていない石ころだって、
中を見れば電子雲がにょろにょろ動いて
そして収縮している。

 意識は特別なようだが、「私」
という免疫作用もまた、間断なき動きの
中に更新されていく運命にある。

 その後生大事な「私」が死によって
解き解れていってしまうことは
確かに哀しいことではあるが、
 実体として見れば一連の終わりなき
動きが続いて行くというだけの
ことに過ぎない。

 だから、意識と無意識の区別、
生命と非生命の区別は、きっと迷妄なんだよ。

 意識や生命といった、人類に
とっての謎にかかわる問題を
考える時には、
 今世間で流通している価値観、
概念セットから思い切り離れて
考えなければ、何事もなしえない。

 少なくとも、自分の書いたものが
200年後、300年後も真剣に
読まれることを志向するならば、
 今のベタな世界に付き合い過ぎては
だめである。

 こんな精神運動がうごめきだす
きっかけになったのは、レオナルド・
ダ・ヴィンチの『受胎告知』という
一枚の絵なんだから、 
 つくづく芸術というものは
恐ろしい。

 石ころでも空でも空き缶でも、
とにかく万物は生きているということを
 描くことができれば、きっとそれは
名画になるであろう。

3月 27, 2007 at 07:23 午前 |

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» 桜もそろそろ五分から七分咲き。 トラックバック 銀鏡反応 パンドラの函
@うちの現場近くの桜も、そろそろ五分から七分咲きになってきた。満開までもうすぐ。本格的な春の到来に、心うきうきわくわくする時期だ。 @でもこんな時期に北陸では、能登半島を直撃した震度6強の地震の被害ゆえに、復興の動きは始まっているものの、余震の連続に市民は眠れぬ夜を過ごしている。 @いったい、いつもの平穏な日々は何時訪れるのだろう…しかし、朝の来ない夜はないように、平穏な時がもう2度と訪れないということはない。何があっても希望を持つことは、だから大切なんではないか。 @爛漫の桜が、今回の地震の被災者... [続きを読む]

受信: 2007/03/27 23:57:06

コメント

のまれる。

前回と同じ要素ですか?

今回はとてもわかりづらい。
またも勝手に不安になっています。


私の興味は行き当たりばったり
好奇心の猫。

先生みたいに200年後300年後ではなく

目の前のカケラを見つけては、
100年前、200年前の学問と
答え合わせをして喜んでいるところです。
発見が正しければ今はよし。

以前も話ましたが私は相対性理論が
世の中のあらゆるの視点を変えたことに驚いて
以来「パラダイム」という観念にとらわれて
そのうちに「色々なロジック」と「俯瞰」の模索。

私が一時期夢中のなった判例も
ドストエフスキーと川端の作品も
グローバリゼーション政策とその失敗も
旅行も料理も恋愛も仏教もキリスト教も
何も知らなかった私にはとても面白く

最近で言えば、とてもモノロジですが
「優等生だからこそいたたまれなくて暴走する」
を全てに当てはめてみていました。
一昨日にようやくフカンフカン、タヨウセイと
自分自身に囁いていたところです。

結局何を探しているって
現代社会で得られたものだろうと
学問で得られたものであろうと

ロジックを探しては
いずれ先の遠いものをぼんやり眺めながら
順に当てはめていっているだけなんです。

言うまでもなく社会の大多数はこちらでしょう。

このタイプと先生の方法論とを
普通に比較したら、
先生の方がはるかに計画的で
それは当然真っ当で

だって先生みたいな能力が無ければ
選択権すらないわけで。

でもこれを言うのは今更。


世の中には必死になって、
現代のパラダイムに耳をすまして

鬼の首を取ったように
これが正解論だと大主張をする人もいます。

そこから少しでもズレたら噛んで含めるように
「思考センスが無い」と延々
説教を受ける羽目になるということも
一度経験して、よくよく理解し
ほとほとウンザリしました。

これも以前に話ましたが
ある大きな観念を理解した上で
「利用」ではなく次に「展開」した人に
出会ったのは先生が初めてで
ものすごいショックと嫉妬で呆然としました。

でもここで問題となるのは
反論との戦いというよりは
現代の概念の拒絶感との戦いだろうなと。

少しでも間違えたら永遠に牙を向けられそうで
間違えながらの模索という自由は
とても許されそうにない感じ。

だから一人上手で戦っては
敗北しておりました。

でもこれも既に述べたこと。


では何故私が先生に
あえて外に向いた心を求めるかというと

私の好きな自然の中から
先生が私の欲しいカケラを簡単に
拾ってきてくれるからです。

海もそうだし
太陽もそう。

だから桜を見てください。
これは小さな願いです。

投稿: maya | 2007/03/29 5:59:52

例えば塩の結晶、ウイルス、細胞。生身のヒトとマネキン。私はこれらは別物と認識しています。判るためには、しっかりした前提と、結果のイメージが必要と思います。この点で、私は素朴派です。

モノのレベルと思考のレベルは時として混同されて、お互い悪影響を及ぼすと思います。変な相対主義は何も生み出しません。徹底した相対主義も時として噴飯ものであることは、例えば『知の欺瞞』が教えてくれました。
しかし、『知の欺瞞』を読んで、例えばラカンを全否定するようなことは素朴すぎます。とてつもなく大きな深い洞察であるのに、現時点では表現方法に、使える材料に、また、使える手法に限界があるために超難解となっている例は少なくないと思う。専門家をキョトンとさせるような数学的アナロジーも、そうせざるを得なかったと考えれば、自然なこと思う。やはり、天才にとってこそ、人生は短かすぎる。

なんかやややこしいことが仕事で続いて、今日は疲れた。
茂木さんがモーツァルトのコンピアルバムで挙げておられる「ラクリモサ」(ムーティ・ベルリンフィルであったことが、なんとも共感できました)を聴いて、今日の仕事はおしまい。

投稿: fructose | 2007/03/29 1:38:10

以前、小林秀雄の美、という展覧会を見に行った後、渋谷の松濤美術館という小さな空間に静かに、でもぎっしりと展示された鉄斎やルオーらの溢れるような熱い生命力に圧倒され息苦しくなったことを思い出します。
生きている事をこのように描き出している作家に共鳴していた小林。
勾玉のもつ植物的曲線と質感。また朝鮮白磁の静謐な力強さにも打たれていた、小林の美に対する感受性。エランヴィタール。
作家の文章を容易に重ね合わせ納得することの出来た良い展覧会だったことを思い出しました。

投稿: 魔女 | 2007/03/29 0:41:27

意識は特別に思えても、
「間断なき動きのなかに更新されていく運命」で、
死は終わり、じゃなく、
「一連の終わりなき動きが続いていくというだけ」、
動いていたんですね。ずっと、動いているんですね。
なんだか、とても安心できました。
かなり眠たくなってきました。安眠できそうです。
教えてくださって、ありがとうございました。

投稿: フミ | 2007/03/28 0:23:16

“意識と無意識の区別、生命と非生命の区別は、
きっと迷妄なんだよ。”

石や空や空き缶や紙切れは、一見すると、
生きて動いてはいない。それは非生命・無生物だから。

が、それぞれの中をミクロの視点で観てみるならば、
「陽子」の廻りを「電子雲」がにょろにょろ
蠢いていて常時収縮し、
中間子が原子を互いにくっつけ分子をつくり、
素粒子レヴェルでみれば常に生成消滅を繰り返している。

そしてそうやっていくうちに
石は風化し、空は変化し、空き缶は錆びつき、
紙切れは黄ばんでくる。

そしてそんな非生命も、我々生命体も
同じようにミクロ・量子レヴェルでみれば、
常に素粒子は生き死にを繰り返し、
原子と原子は中間子によってくっつき分子となり、
それらは遺伝子からひいては皮膚細胞、髪の毛1本に至るまで、
肉体の全てを構成しているが、

時間の流れと共に、新陳代謝なるものを
繰り返しつつ、やがて死を迎え、
もとの原子、素粒子に帰ってしまう。

そして意識というものも、
「(時間という名の)間断なき動きの中に更新されていく運命」から
逃れることは出来ない…。

そんな意識と無意識は本当はワンセットと
みなさなくてはならない。当然乍ら
「私」の意識も無意識も、
「私」という一つの「個体」の脳から
立ち上がるのであるから。

そして個体の死と共に、どちらも宇宙空間に
とけこんでしまい、万物を貫く生命リズムと
ひとつになってしまうのだろうと思う。

実は私自身も、生命と非生命、
意識と無意識との厳密な線引きなんて、
そもそも“迷妄的”でナンセンスだと思うほうである。

茂木先生の言われるように、
世間に広まっている価値観やベタな概念から
一旦離れてものをみないと
生命、そして世界の本質が見えないものだと
いつも思っている。

そこに既成概念・思想を大きく超えた
万物を動かし、また貫いている生命の律動もしくは
深淵にしてダイナミックな生命哲学が
見えてくるのだろうと思うから…。


投稿: 銀鏡反応 | 2007/03/27 22:07:12

ところでわたしの送った「石ころ」はちゃんと届いたのかな...。
気にしつつ日々は過ぎて、「まぁ、いいか」に変わりつつあった。
締め切りも過ぎていたし、何しろキカイに弱いので、
ちゃんと URLとやらになったのか、心許ない。
それにレディメイドという呼び方にもいささか抵抗があった。
そんなポップなもんじゃぁないと、尻込みして戻ってきたのかも
しれない。

時間、空間、すべての尺度を違えてみれば、
確かに万物は動いている。
そこに生と死という線引きをするのは、
人間の(おそらくは現代の)意識なのですね。

投稿: Bergquist Rica | 2007/03/27 16:41:14

>意識と無意識、生命と非生命の区別は、きっと迷妄なんだよ

とのことですが、同じような生命観を柳澤桂子さんもしています。
しかし、そういう話を聞くたびに、ぼくは疑問に思うのです。
では、自殺するかしないかは、各人の自由なのかと。
自殺しても、自分の体が、生命ではなくなっても、それはたいしたことではないし、そもそも、生命と非生命を分けることが迷妄なら、自殺してもかまわないという結論に達するはずです。
このような、見方には、常識的な倫理観に反するところがあると、個人的には考えています。
生命と非生命の区別が、意味がないのなら、ぼくが、人殺しをしたって、それはたいしたことにはならないのですから。
だから、生命と非生命の区別は明確につけるべきだと、個人的には思います。

投稿: サイン(koichi1983) | 2007/03/27 15:39:16

 僕が僕であるために勝ち続けなければいけないという尾崎豊の詞を
思い出しました。
デカルトが著作を死後に公表するように。
ウィトゲンシュタインが建築にうちこむように。
クリプキが自身がメインの講演でも平然と遅刻するように。
死なない事と発狂しない事と自分の時間感覚を持つ事が
エッセンシャルな問題に立ち向かうための前提になりますね。
なかなか難しいと思いますがお体に気をつけてがんばって下さい。

投稿: 宏 | 2007/03/27 13:44:42

「迷妄」辞書でひいてみました。道理がわからず、事実でないことを事実だと思い込むこと、とあり、英語で illusion とでていました。とこんなふうにクオリア日記で勉強させてもらう毎日です。先日、毎年新聞に載る高校入試の問題を、何十年かぶりに解いてみました。それは国語の入試問題(長文読解)だったのですが、その時、このクオリア日記で勉強する習慣が私の経験になっていくんだなあ、とじわじわ実感し、嬉しくなった次第です。 ご報告まで。

投稿: とんさと | 2007/03/27 11:25:24

意識と無意識の関係については分からないのですが
生命と非生命の区別は迷妄というのには諸手を挙げて賛成であります

かく言う人間も、
我々は意識を一つしか捉えられていない為
単一生命体と思っていますが
体の中や外の凄まじい数の微生物と共存している身であります
それを考えると人間を一つの生命体と見るのもあやしいもので
逆に人間というモノは肉体で完結しているのではなく
環境と、まさにそれによって引き起こされるホメオスタシスとも
一つにして考えねばならぬのだとしたら

石ころとその周りに広がっている生命世界(微生物の共存世界)
を生命と言えないなどと誰が言えるでしょう

投稿: 後藤 裕 | 2007/03/27 9:50:28

物理の教授が、物理学へのきっかけを語ってくれたことがある。
高校の時、万有引力の法則(F = mg)に従い、
万有引力は、瞬時に無限大の速度で伝わると学び、
道に転がっている石が持つ、巨大なエネルギーに感動したことだったと。
今はニューラルネットワークなんかを研究されている。

こうやって 書いている間にも
私の神経細胞は
先生の顔の画像と話していた時の画像と
文章の組み立て、入力動作と様々なことを一度に処理し、
ニョキニョキしてんのかなぁ
凄いCPUだよね。

万有引力の数式って 見えないもの、
あるべき可能性を見る力って気がしてきた。
ニュートンは、科学者であるけれど
表現方法が数式であるだけで  
芸術家と同等なのかもしれない。

投稿: hi | 2007/03/27 9:20:20

諸行無常。なんだか、枯れた響きで解釈されちゃうことが多いけれど、無常、って、すなわち、世界はダイナミック、ということではないか?
自分は一度も死んだことがないのに、「メメント・モリ」を信じて疑わないのは何故なんでしょうか。
今ある私は、偶発的な両親の衝動により生成されたことが関係者(両親)の証言によって明らかになっています。私自身、意図して生まれたんではない、はず。いつ、どこから、意図がインストールされたのか、それはまったく覚えていません。

投稿: 無碍 | 2007/03/27 8:53:01

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