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2007/03/20

つまり、そこに現出しているのは

機械学会のオープンフォーラムに
参加するために、東工大の大岡山キャンパス
に行った。

 照り焼きマックバーガーとコーヒーを
買って、
 学生掲示板の前でぼんやりと
張り紙の数々を眺めながら食べた。

 ぽかぽかと太陽が差している。
朝から疾走して、やっとひといき
ついている私にとって、何よりのご馳走。

 トランペットを練習している
学生がいる。
 そうだ、大学というのは、このような
ゆったりとした時間が流れている場所だった
んだと思い出した。

 まずは小泉英明さんのお話をうかがう。
 小泉さんの強調される、「俯瞰的」
ということは、脳科学を含めた
諸学の将来を考える上で最も
重要なポイントであろう。

 私の話で強調したのは、神経経済学における
多くの問題は、「学習」という命題と
関連づけなければ扱えないということ。
 ニューロマーケティングは、すなわち、
消費者の学習の問題でもある。

 その際に、オープンエンド性や、
偶有性が重要な概念となる。

 俯瞰的な視点は、脳科学内部で
すでに必要とされている。

 フォーラムには、私の研究室の学生たちも
何人か参加していた。
 彼らは、懇親会で小泉さんとお話ししていろいろ
教えていただいていた。

 小泉さんのところに連れていって、
「こいつはナニナニをやっているナンて
やつです」
と紹介するところまでが、指導教官の
役割。

 ひとりの人間から学べることは、
いかに多く、深いことか。

 感化力はこの世で一番強い力の
一つである。

 土曜日に『受胎告知』を見て以来、
ずっと「メメント・モリ」のことを
考えている。
 
 絵というものは、筆で色をの
載せた瞬間に、そのまま止まっているもの
であり、
 その後は、画家あるいは他の人間が
何か手を加えない限りそのままでいる。

 つまり、そこに現出しているのは
「死」そのもの。
 画家は、生身の肉体として
息づきながら死に向かい合っている。

 一方、例えば人形浄瑠璃の太夫の芸術は
違う。
 自分の身体をもって、何ものかを表出
させる。
 音楽も違う。ディオニソス的な
噴出が、時間という不可思議なメディアの
中でのたうち回り続ける。

 レオナルド・ダ・ヴィンチの芸術が人を
惹き付け続けるのは、
 命を描いていながら、一方で
死に捧げられているからであろう。

 走る時間がないので、移動中に走っている。

 パスモの登場で、走りの動線が
スムーズになった。

3月 20, 2007 at 08:14 午前 |

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受信: 2007/03/21 6:30:09

コメント

絵画における”死”の現出…おもしろい考え方ですね。

ただそれは1つ1つの色、一筆の重なりが1つの作品を作り
あげるという点で、マッハの原理の表出として見れるかもし
れませんね。

投稿: コロン | 2007/03/21 5:14:49

意味という客観の世界にはまず基準が必要で、
何を基準にするかにより捉え方は変わるのだろうと思います。
何を第一原因とするのか。
こだわりの無い眼で世界を観ずることのできる、
観自在のパースペクティブを持ちたいところです。

山の中にいては、廬山の真面目はわからんぞ、
というとうば先生の言葉を思い出しました。

投稿: pteron | 2007/03/21 1:12:00

照り焼きマックバーガー、ボクも常食です。
旨いですよね、あれ。

投稿: HogeHoge | 2007/03/20 22:25:02

東工大・すずかけ台のキャンパスには
桜はそろそろ咲き始めたでありましょうか…。

きょうは昨日までとちがって、
私の職場でもあたたこう御座いました…。

メメント・モリ…死を想え…。

筆で色を載せた瞬間、その痕跡は止まったまま、
静止している。
筆を動かしている時は生きているが、その痕跡は
死そのもの、というわけか…。

自分も絵を描く事があるが、出来上がったものは、
生の痕跡をとどめたままの死の姿なのだろう。

このエントリーを読むまでは、そういうことを
あまり意識してこなかった。

そうか、私も
絵というものを描く時、生身で「死」に向かい合っている
というわけなんだな…。

これから絵を描く時は、画面に現出するものは
一つの死の姿なのだろう、と想うかもしれない。

死は生命の生きた「痕跡」のようなものでもある。

化石、足跡、屍、…ついこの間までの
生きて居るものの全ての機関が止まって、
2度と動かなくなった姿、
あるいは生きた軌跡は全て「死」の具体である。

死者を見た時、慄然とする想いと、悲哀とともに、
厳粛なるものを感じる。

初めて身近で死者をみたのは十数年前、
近所の知りあいだった。

その知り合いが、2度と動かなくなって床の上に
横たわっているのをみて、

これが“死んでいる”という状態か、
これが“死”というものなのか、

と想い、一種厳粛な気持ちになったことを
今も脳の片隅で覚えている。

絵画を見る時は、あれは「死」が現出しているんだという
意識が、これからは捲き起こるであろう。

あの知り合いの死の姿を見た時のように。

またも長いコメントになってしまいました。
きょうは、これで失礼致します…。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/03/20 18:58:30

絵画とは、実は鏡で、作品と接している間、様々な情報を入力しながら、実は自己と対話しているのですね。

自分のメタファーでもある。

出来る限り、誤解の無いよう、作品に関する様々な情報や文脈を得て、現時点での自分の総合的知性を総動員して、作品と接する時間は、自己にとって、とても重要なものになりますね。

茂木先生を存じ上げてから、私の人生は大きく変わりました。
これからも、先生の様々な作品に丁寧に接していきたいと思っております。

どうかお体に気をつけて。

投稿: icons | 2007/03/20 13:28:28

東北芸術工科大学の院生です。本学での卒展シンポジウムでお話を聞かせていただきました。絵画が「死」ばかりを内包しているのではない、と私は思っています。未来に向かう絵画のあり方があっても良いのではないかと。そんなことを自分のブログに書いています。貴ブログからの引用等、させていただいておりますのでお許しください。

投稿: うすだ | 2007/03/20 13:19:17

>絵というものは、筆で色をの
載せた瞬間に、そのまま止まっているもの
であり、
 その後は、画家あるいは他の人間が
何か手を加えない限りそのままでいる。

 つまり、そこに現出しているのは
「死」そのもの。
 画家は、生身の肉体として
息づきながら死に向かい合っている。

うーん。なるほど。そのとおりだなと読んで思いました。
そうですね。よく考えると、絵は死なんですね。
すごく面白い着眼点だと思いました。

投稿: サイン(koichi1983) | 2007/03/20 13:15:35

ダビンチは科学者でもあったのでしょう?茂木さんからすれば、科学者と呼べないかもしれませんが・・。理学的に世を見定める遥かな見地を持たれて、筆に込められたもの・・。その瞬間から正しく風化していく風化の線上で息を噴上げ続け、さらに昇華し続ける秘められたもの。
そのものの前に、今を生きている私たちの魂は、鍛えられ、震えることを余儀なくされる。
完成した受胎告知は、完結でなく移りゆく時代に見る側のインスピレーションの波を渡らせて、今のここまで伝わりくるのでしょうか。
この系譜の法則は現代アートにはあてはまるのでしょうか?
大地に芽吹いている植物への捕らえかたにもより深いまなざしを感じています。原点はそこにあるような気さえしています。
茂木さんがゆっくり出会われた時、吸われた空気感をみんなにもフリワケテ・ホシイな!

投稿: 井上良子 | 2007/03/20 11:36:55

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