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2007/03/31

逃げてもいいんだ

逃げてもいいんだ

プロフェッショナル日記

2007年3月31日

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/professional/

3月 31, 2007 at 10:46 午前 | | コメント (1) | トラックバック (1)

世界一受けたい授業 

日本テレビ

世界一受けたい授業

2007年3月31日  19時00分〜21時48分

http://tv.yahoo.co.jp/bin/search?id=74574392&area=tokyo

3月 31, 2007 at 09:47 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

私はどうやら

あれは、田森佳秀と理化学研究所で
同僚だった頃の話。

 ある学会で、田森と喋っていて、
ある人の理論はダメである、意味が
ないとしきりにくさしていた。

 田森はにやにや笑いながら、私の
相手をしてくれていた。

 ひとしきり喋って、「お昼に行くか」と
立ち上がった時、
 近くにいる知り合いに「一緒にいきませんか」
と声をかけた。

 田森が大声で笑った。
 その人は、それまで口をきわめて
非難していた、まさに当該人物だったからである。

 何が起きていたかと言えば、
実は声をかけた時にはその人だという
ことを忘れていた。

 理論のことにあまりに夢中になっていて、
「目の前の人はまさにその当人だ」
という単純なる事実に気付かなかったのである。

 「忘れること」の大事さを
考えていて、何となくそのエピソードを
思い出した。

 人間というものは、生きている
うちに様々な体験をして、「澱」
のようなものがたまっていく。

 その「澱」にとらわれてしまうと、
純白なる生きる力が失われる。
 過去にがんじがらめにとらわれて
しまって、
 時に自己嫌悪に陥ったり、撞着したり、
ただひらすらに前進するモメンタムが
失われる。

 だから、「忘れる」力が大事である。

 忘れるといっても、本当に消えてしまう
わけではない。
 心配しなくても、脳の中にはちゃんと
痕跡が残っている。
 過去に何があろうと、「今この
瞬間から」と前に進めばいいんだ。
 
 本当は痕跡は残っていても、
それとは関係なく「空白」をつくり出す
能力。
 
 そのような能力を、私たちは持った
方がいい。

 一週間、あまりにも多くのことが
あって、呆然とするが、
 とりあえず忘れることにした。

 私はどうやら今朝生まれたばかり
のようらしい。

 世界がすべてキラキラと新鮮に見える
のである。

3月 31, 2007 at 09:19 午前 | | コメント (12) | トラックバック (3)

2007/03/30

キプロス島出身の兄弟がやっている

『プロフェッショナル 仕事の流儀』
の収録のゲストが、ロンドンで活躍
されてきたバレリーナの吉田都さん
だったので、お話しているうちに
 いろいろとロンドンのことを思い出した。

 ボクが最後に髪の毛を切ってもらった
床屋さんは、キプロス島出身の
兄弟がやっている店で、
 ロンドンにあった。

 一時間、ずっといろいろなことを
喋りまくって楽しかったのだが、
 次に髪の毛が伸びたとき、
どこの床屋に行くにせよ、
 またあんな風にべらべら
喋っちまうんだろうなあと
思ったら、何だかちょっと面倒
になって、
 悪いことをしていると思いながら
 下宿でジョギジョギ切ってしまった
のが禁断の木の実を食べたきっかけである。

 あそこをあのように歩いて・・・
とストリートのつながりをありありと
思い浮かべることのできる街。

 ロンドンのことを考えると、
心が楽しくなってくる。

3月 30, 2007 at 07:50 午前 | | コメント (10) | トラックバック (2)

2007/03/29

『感動する脳』 重版

茂木健一郎
『感動する脳』
(PHP研究所)
は増刷(2刷、累計13000部)
となりました。
ご愛読に感謝いたします。

amazon 


3月 29, 2007 at 07:49 午前 | | コメント (2) | トラックバック (1)

『天才論』重版

茂木健一郎
『天才論—ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣』
(朝日新聞社出版局)は増刷(2刷、累計12000部)
となりました。ご愛読に感謝いたします。

amazon


3月 29, 2007 at 07:19 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

寒い朝の温かい粥

松永澄夫さん、それに島田雅彦と
「哲学の現在」について話し合う。

 その時島田が言っていたことでなるほど
と思ったのが、現代における
lingua francaは英語であるという視点。

 当たり前のことのようだが、価値中立的に、
いわばパッケージとして全てを包み込む
メディアとして英語が機能しており、
それ以上内容に棹さした共通言語は
 もはや立てにくくなっている。

 物理学帝国主義ははるか遠くに去り、
全ての人間の活動を経済事象と見ても、
言語以外の何ものもないと嘯いて
みても、現代の複雑怪奇な事象が
そのような言説を裏切る。

 むなしい。

 ちょうど、インターネット上で
ブログやグーグルやユーチューブが
lingua francaを担保しているように、
 特定の価値の文脈から離れて
 流通を保証するのが
現代的共通言語なんだろう。

 松永さんとは初対面だったが、
感情のことを強調して話されていて、
 パトスの人だなと思った。
 
 島田と別れてから、
しまった、「お前、東京のなんとかという
映画に主演しているだろう!」と言うのを
忘れたと思い出した。

 やつは、「今度狩に行こう。その前に
焼き畑農業を経験しよう」など言って
いたようだが。

 波頭亮さんとお話する。
 最初は「プロフェッショナル」の話を
する予定だったのだが、
 どんどんずれて文化論になった。

 日本の社会の、
ちょっと変わった人がいると平均値に
引きずり下ろそうとする「ピア・プレッシャー」
は本当に困るという話をして、それから、
 ケンブリッジ大学の時に、
部屋中にオウムの
写真をベタベタ貼っている技官の人がいたなあ、
という話をした。

 あの「パロット・マン」どうしている
かしら。
 本当に懐かしい。

 そうしたら、波頭さんが、
 「どうせ個性とか言うんだったら、そこまで
いかないとダメだよ」
と言う。

 「日本人は、大した個性でもないくせに、
これが個性なんて言ってしまうから、ダメなんだよ。
 つまり、社会と向き合った上で、自分の個性を
鍛錬するということをしていないんだな」
と波頭さん。

 大量の文章を書かなくてはならなくて、
移動しながら必死に書いた。
 
 そうしたら、さすがに朝からずっと喋り詰め、
書き詰めだったんでアタマというものが
疲れた。

 ビールを一杯飲んだら、ちょっとほっとした。

 今朝になって何となく思い出したことがある。
 あれは小学校に上がるか上がらないかくらいの
時だったか、
 野草で「ノビル」というものがあって、
食べられるんだと聞いて、近所を探していたら
空き地にそれがあった。

 家にもって帰って、母親に見せたら、
油炒めにしてくれた。

 おいしいねと言いながら、何だか手柄でも
立てたような気持になって、
 何回もおかわりした。

 つまりあの時のようなほっとして
充実した感覚を求めているんだなあと
 私は思う。

 今読んでいる渡辺京二さんの本に、
人生の要諦とは寒い朝の温かい粥のような
ものだと書いてあるが、
 さすが私の尊敬する大学者である。

 忙しくても、「寒い朝の温かい粥」
があれば何とかやっていける。
 
 それは、
 今朝の私にとっては
ノビルのイメージだった。

3月 29, 2007 at 06:59 午前 | | コメント (8) | トラックバック (3)

2007/03/28

『脳と仮想』 新潮文庫版

茂木健一郎 『脳と仮想』  新潮文庫版

2007年3月28日発売

文庫版あとがき

解説 中沢新一

amazon 

3月 28, 2007 at 07:52 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

白昼夢のようなものである

 時間がない!

 コマはくるくる回っているし、
地球もそうであるが、
 なぜに私もくるくる回らなければ
ならないのか。

 いろいろ仕事をした
一日の最後は、
 NHKの社会情報番組の部屋で
 新装なった『プロフェッショナル』
の記念すべき放送をみんなで見た。

 終わった後、「50回記念」
ということでスタッフで飲みにいった。

 有吉伸人さん以下、デスクやディレクターの
濃い会話の中に身を置く。
 この人たちもくるくる回っている。

 くるくるくると回りながら、
このまま虚空に向かって飛んでいくことは
できないものかな。

 現実が過酷だというのは、白昼夢を
見るためには良い条件である。

 意識を持っているということ自体が
白昼夢のようなものだから、
 実際主義と夢想主義は実は同じことである。
 
 そんな時、「現実感」がこの地上に
私をとどめるアンカーとなる。

 仕事、締め切り、夢、論理、
スケジュール、向かい合い、すれ違い。

 渋谷駅からNHKに向かう時、
ファーストフードの店をいろいろ通り過ぎるの
だけれども、
 つい吉野屋に入ってしまった後で、
私の大好きなカツ丼を出している立ち食い
ソバ屋や、ラーメン屋があって「しまった」
と悔しかった。

 ラーメンはいつでも食べたい。
 カツ丼には大抵のものはかなわない。

 食べることができなかったから、
ラーメンもカツ丼も白昼夢のようなものである。

 生きることができなかったもう一つの
人生もまた同じことであろう。

3月 28, 2007 at 07:41 午前 | | コメント (10) | トラックバック (1)

2007/03/27

プロフェッショナル 仕事の流儀 宮崎 駿

プロフェッショナル 仕事の流儀 スペシャル

映画を創る 〜宮崎 駿・創作の秘密〜

アニメーション映画の巨匠・宮崎駿監督(66)の仕事を掘り下げる1時間スペシャル。「ハウルの動く城」以来となる長編映画「崖の上のポニョ」の制作に挑む宮崎監督に密着し、その創作の秘密に迫る。
NHKは、去年の春、新作映画の準備に入る宮崎監督に取材を申し込み、「ディレクター1人が小型カメラで撮影すること」を条件に取材を許された。若手ディレクターが、去年4月から7月までの3か月半、アトリエに通い、密着取材を敢行した。
作業の中心は、「イメージボード」と呼ばれる絵を描くこと。鍵となるシーンやキャラクター設定などを描く、映画作りの根幹ともいえる作業だ。こうした、映画の「核」を生み出す創造の現場に、カメラが立ち入るのは初めてのことである。
老境に達した宮崎監督が自らの限界と向き合い、もがきながら、映画と真正面から向き合う姿。不安にさいなまれながら、自身が「映画の本質」と語った1枚を描き上げる場面。・・・カメラは新しい映画が生まれる瞬間に立ち会う。また、長男・吾朗氏が監督を務めた「ゲド戦記」の試写会や、海辺の町に出かける1人旅にも同行。人間・宮崎駿のありのままの姿を丹念に見つめる。
66歳にして、創作を続けるエネルギーはどこからあふれてくるのか。天才の頭脳と素顔に徹底的に迫る。





NHK総合
2006年3月27日(火)22:00〜23:00

(放送時間が、火曜日夜10時に変更になります)

http://www.nhk.or.jp/professional/

3月 27, 2007 at 07:47 午前 | | コメント (6) | トラックバック (14)

CLUBKING DELUXE 
at super deluxe 六本木

CLUBKING DELUXE 
at super deluxe 六本木

2007年3月30日(金)午後9時〜

六本木 Super Deluxe

http://www.clubking.com/news/2007/03/clubking_deluxe330.php/

3月 27, 2007 at 07:46 午前 | | コメント (6) | トラックバック (0)

過去があるから可能になる未来を予想することの大切さ

ヨミウリ・ウィークリー
2007年4月8日号

(2007年3月27日発売)

茂木健一郎  脳から始まる 第48回

過去があるから可能になる未来を予想することの大切さ

抜粋

 人間は、頭の中で自分があたかも現在とは異なる時間にいるように想像し、その時の様子を思い浮かべる「タイム・トラベル」をすることができる。自分が幼稚園の頃のことを思い出してあたかもその時に戻ったかのように考えを巡らせたり、これから起こることを思い描いたりして、いきいきとその仮想を体験することができる。
 人間以外の動物は、果たして人間のような「タイム・トラベル」をすることができるのだろうか? 何しろ言葉を喋らないので、聞いてみるわけにも行かない。結局、客観的な行動を観察して、あたかも未来を予想しているかのように振る舞っているかどうか確かめてみることしかできない。

全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/


3月 27, 2007 at 07:39 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

きっと迷妄なんだよ

数年前から、
学士入学で法学部に行ったという
話をする時に、時々ふと
思いついて「今思えば仏文にでも行って
おけば良かった。その方が今の生活に
役に立っただろうに」
などと付け加えることがある。

 仏文の方が法律よりも圧倒的に
「役に立たない」というのが世間の
常識というものだから、
 今の私の生活はきっと何らかの意味で
尋常ではないのだろう。

 もっとも、勝手にそんなことを
やっているわけだから、仕方がない。
 オペラの上演で、感動して、
スタンディング・オベーションを
自分がやったからと言って、
 他の観客にも「お前も立てよ」
と強制するような気持は私にはない。

 帰りたい人は、とっとと立ち上がって
帰れば良い。
 きっと、電車の時間があるとか、
早くビールが飲みたいとか、そのような
実際的な必要があるだろう。

 自分のような酔狂なことを考えている
人が社会の構成員の多数を占めるように
なってしまったら、きっと世の中は立ちゆかなく
なると思う。

 体育館のようなところで、ある人が
仏文を専攻したと聞いて、
 「よくそんなに役に立たないことを
専攻しましたなあ。はははははは」
と豪快に笑う自分の声にびっくりして
目が覚めた。

 今となっては、なぜあんなに
豪快な気持になったのか、とんと
思い出せない。

 もっとも、自分にとってエッセンシャル
だと信じる問題について考える時に、
 時代との距離をたくさんとらなくては
ならないと感じていることは事実だから、
 そんな状況が心理的に作用したのだろう。

 長い進化の過程や、一生をかけた
学びのプロセスにおいては、
 何か実質的な変化があったり、
無から有が「創発」する余地があるように
思えるかもしれない。

 しかし、一個の受精卵が卵割して
多細胞生物になるその発生の過程
においては、何かが実質的に
付け加わるということはないだろう。
 
 だから、基本的にその変化は実は
恒常性(ホメオスタシス)の表れ
と言うしかあるまい。

 生命と非生命、意識と無意識の間に
絶対的な差異を見いだそうとするのは
おそらく迷妄である。

 「動く」ということの不思議さを、
現代物理学は後付けでしか整理できないが、
万物が動くということの中に、生命
の基礎があることは疑いない。

 一見動いていない石ころだって、
中を見れば電子雲がにょろにょろ動いて
そして収縮している。

 意識は特別なようだが、「私」
という免疫作用もまた、間断なき動きの
中に更新されていく運命にある。

 その後生大事な「私」が死によって
解き解れていってしまうことは
確かに哀しいことではあるが、
 実体として見れば一連の終わりなき
動きが続いて行くというだけの
ことに過ぎない。

 だから、意識と無意識の区別、
生命と非生命の区別は、きっと迷妄なんだよ。

 意識や生命といった、人類に
とっての謎にかかわる問題を
考える時には、
 今世間で流通している価値観、
概念セットから思い切り離れて
考えなければ、何事もなしえない。

 少なくとも、自分の書いたものが
200年後、300年後も真剣に
読まれることを志向するならば、
 今のベタな世界に付き合い過ぎては
だめである。

 こんな精神運動がうごめきだす
きっかけになったのは、レオナルド・
ダ・ヴィンチの『受胎告知』という
一枚の絵なんだから、 
 つくづく芸術というものは
恐ろしい。

 石ころでも空でも空き缶でも、
とにかく万物は生きているということを
 描くことができれば、きっとそれは
名画になるであろう。

3月 27, 2007 at 07:23 午前 | | コメント (12) | トラックバック (1)

2007/03/26

動物の系譜

地震があったのが私の畏友田森佳秀の
住んでいる金沢の近くだったから、
 心配になって何回か電話したら、
夕方になってつながった。

 「おい、地震、大丈夫か?」
 「うん?」
 「地震だよ、地震」
 「ああ、そういえば、すごく揺れたな。
あれは大きかったね。」
 「家具とか、倒れたりしなかったか?」
 「大丈夫だよ。地震対策してあるから。
ボルトとかで、何でも留めてあるから。」

 田森のことを知らない人には
わからないと思うのだけれども、
 この「ボルトとかで何でも留めてあるから」
というのがいかにも田森らしく、
 ボクはほっとするとともに
笑ってしまった。

 生涯で出会う人々のうちで、
 忘れがたい印象を残す人は
いるもので、田森はその一人である。

 「家族とか、元気か?」
 「うん、元気だと思う。しかし、オレは
このところ研究所に寝泊まりしているので、
よくわからない。」

 やはり、言うことが一つひとつ田森である。

 「地震」と「ボルト」と「田森」が奇妙に
ブレンドされて、印象深い日曜日の夕方
になった。

 以前、「マタイ受難曲」を聞き終えた
時の感動は、動物たちが暗く長い夜を
終えて朝日を迎えた時の感動と基本的に
同質なんじゃないかという問題を
考えたことがある。

 サバンナを行く草食獣にとっての不安は、人間の一見複雑な脈絡のついた社会的不安とさほど変わるわけではあるまい。バッハの『マタイ受難曲』を聴き終えた時の感動が、寒くて暗い夜を堪え忍んだシマウマが朝日を見た時の感動と質的に同じである、と仮定した時に見えてくるものを大切にしたい。
 野生動物にとっての不安とは、すなわち、生存の可否を巡ってのそれである。文明を打ち立て、自然を征服した現代人は、生存自体の不安はさほど感じなくても済むようになった。それでも、生きていく上での不安の総量が変わったわけではない。自然の不安を外に追いやったかわりに、人間は、胸のうちに文明化された不安を抱えることになった。それは、牛と生死をかけて戦う闘牛士ほど、明瞭な姿をしているわけではないが、確かにそこにある。
 文脈に絡め取られ、そこに安住するのが俗物であり、反抗し、独立しようと志向するのが純粋なる者であるとすれば、この世界には完全なる俗物も、完全に純粋なる者も存在しない。代助と父、兄との対立は、純粋なる者と俗物のそれではない。むしろ、俗物性と純粋性の間の往復運動のダイナミズムにこそ、魂の危機であり、創発であるところの「真実の瞬間」が立ち現れる現場がある。代助と三千代とて、永遠に恋愛の彫刻でいられるわけではない。代助は、すぐにも生活の心配を始めなければならなかった。
 自分が見つめている漢字の形が突如として分からなくなる「ゲシュタルト崩壊」のごとく、社会的文脈の揺らぎ、あるいはそこからの一時的逸脱が、私たちの精神を剥き出しにさせ、不安にさせる。しかし、その不安なくして、文学もあり得ないし、人生も成り立たない。

茂木健一郎 『クオリア降臨』 (文藝春秋)より

 人間の精神の最も崇高な契機が、
動物性と結びついているという
インスピレーションは大切に育みたい。

 人間が他の人間をいいなあと思う
のは、つまりは動物として良いと
思うのではないかと思う。

 理化学研究所での同僚時代、
食堂でそばを食べた後で歩き始めた時、
田森が突然走り出して、
研究棟の中に消えていった。

 どうしたんだろうと、研究室に戻って
から聞くと、
 突然気持ち悪くなったから
トイレに行って吐いたんだと言う。

 それまで普通に喋っていたのに、
突然走り出して、
 研究室に戻ったら、「ああ、びっくりしたなあ」
という感じでケロリとそんなことを言う
感じが、動物として好きだなあと思った。

 人間の好悪は、案外、動物としての
レベルで決まっているんだと思う。

 自分が一体どんな動物か、一人ひとり
振り返ってみるのが面白いのではないか。

 春の風の中をのっしのっしと歩いていると、
自分が縄文からさらに古代に通じる
動物の系譜に連なっていることがはっきりと
自覚される。

 しかしながら、むき出しの獣性というものは
耐え難いものである。

 非常に高度なプラトニックなコントロール
とけだものの力動が一つの生命体のうちに
共存しているというパラドックスの中にこそ、
最も魅力的な事態があるのだと思う。

 春風と戯れる素敵な動物になれたらいい。

3月 26, 2007 at 06:42 午前 | | コメント (10) | トラックバック (6)

2007/03/25

フューチャリスト宣言

梅田望夫、茂木健一郎

『フューチャリスト宣言』
(ちくま新書)

2007年5月8日発売予定

予約受付中

アマゾン 

3月 25, 2007 at 03:34 午後 | | コメント (0) | トラックバック (1)

土曜日の収録

土曜日の収録

プロフェッショナル日記

2007年3月25日

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/professional/

3月 25, 2007 at 09:44 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

0=無限大

やることがあって、
ずっとそれをしていることの
弊害の一つは、「空白」の悔恨と
甘美な希望を味わえなくなって
しまうことではないか?

 ここのところ、本当に時間の隙間が
なくずっと走り回っているが、
 ほんの一瞬、「もうまあいいや」
と放棄して精神の空白をつくると、
実に甘美な胸の揺動が感じられることも
いきいきと蘇り、時々そのことを思い出してみる。

 疾風怒濤の思春期、ロマンティック・
アイロニーの中に無為な時間を
過ごした後で、
 「そうだ、オレはこんなことを
やっている人間じゃないんだ。これから
疾風怒濤の大活動をするんだ。その
中では何でも可能なんだ。世界には
terra incognita
が無限に広がっている。
 その中を、オレは、蒼き狼のごとく
走っていくのだ!」
という熱き思いにとらわれたものだった。

 心理的には、「0=無限大」である。
 生まれたばかりの赤子には、
何でも可能であるように思えるではないか!
 この人生の機微には、薬理作用もあれば、
中毒作用もある。

若者で、「0=無限大」のトラップにはまって
しまって、いつまでも自分の生の固有の
制約から抜けきれずにもがいているのは
端から見ていてもつらいものであるが、
その一方で、あまりにも目白押しに
活動が詰まってしまって、「0=無限大」
の心理的甘美を味わえないのも
哀しいことである。
 だから、私は、時々真空地帯をつくって、
その虚無の底知れない恐ろしさにうち震え、
それでも内側から沁みだしてくる希望に
満ちたものの気配に耳を傾けようと思う。

 早い話が、ぼんやりと春の風の中を
歩いたり、
 ソファでうとうとしていれば
良いのさ。

 自分が何事もなさないという事態の
恐ろしさと希望に、身を堕として
魂を震わせよ。

 そんな時間を、少なくとも時々は持つように
しよう。

 希望的観測としてはね。

3月 25, 2007 at 08:26 午前 | | コメント (6) | トラックバック (2)

2007/03/24

「脳」整理法 12刷

ちくま新書 「脳」整理法 は
増刷(12刷、累計97000部)
が決定いたしました。

ご愛読に感謝いたします。

3月 24, 2007 at 08:21 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

感動する脳

茂木健一郎
『感動する脳』
PHP研究所

amazon

3月 24, 2007 at 08:17 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

自分が持って生まれた天分などというものは

昨日に続いて、新潮社から今度発売
される小林秀雄の講演テープに心を
動かされたから、そのことを書く。

 ジャン=ジャック・ルソーは、
『社会契約論』や『エミール』などにおいて、
個人と社会の関係をいわばパブリックな
視点から論じた後に、最後に『告白』
を書いて自分がいかにダメな人間か、
情けないやつであるかを赤裸々に
語って、死んでしまった。

 そんなことを話した後で、
小林さんは、ゴッホの書簡集が
いかにすぐれた告白文学であるかという
ことを論ずる。

 弟へ宛てた手紙が、弟がゴッホを
尊敬していたので、紙切れ一枚に
至るまですべて丁寧に
保存されていて、そのおかげで
ゴッホという一人の類い希なる
資質をもった人間の魂の成長の過程を、
丹念にたどることができる。

 その手紙から見えてくるゴッホの
生涯は、つまり自分の「個性」という
ものとの壮絶なる闘いであると
小林さんは言う。

 自分が持って生まれた天分などと
いうものは、いわば偶然の産物であって、
普遍などとは関係ない。
 いかに自分の個性を克服し、
普遍に至るかということが、
芸術家としての本懐であると。

 その過程でゴッホは三十数枚の
自画像を描き、耳をそぎ落とした。

 普遍に至る道とは、自分の個性との
壮絶なる闘いであるという
峻烈な思想が、私の心にずしんと
突き刺さった。

 世の中に、個性が痛々しいほど出て
しまって、その「クセ」のようなものが
鼻についてなかなか普遍に至れない
人というものは多いものである。

 それを心やさしく「その人らしさだから」
と言いくるめることはもちろんできるが、
芸術とは確かにもっと厳しいものである。
 これは自分の個性だからなどと
開き直っていては、とても大成できる
ものではない。

 小林さんの「批評とは無私を得る道である」
という有名な命題も、そのような峻烈な
自覚があって初めて生まれて来たのであろう。
 
 ゼミの後で話している時に、野澤真一に
上の話をして「お前はどう思う?」
と聞いたら、曖昧な顔をしていた。

 野澤は修士1年だし、まだまだ
これからであるが、彼が「サンドバック」
的な資質を持っていることは得難い
傾向だし
うまくすれば伸びると思う。

 そこにぼうと立っていると、
何となく何か言いたくなる。
 そんな資質は、賢くまとまっているように
見えるよりも得である。

 最初から賢くまとまってしまうと、
のびしろが少ない。

 ゴッホも小林さんも、きっと、
のびしろたっぷりの、ゆえに時々
ばかなこともやる巨きな人たちだったに
違いない。

3月 24, 2007 at 08:06 午前 | | コメント (5) | トラックバック (1)

2007/03/23

Creativity and the Brain.

Creativity and the Brain.

Mario Tokoro and Ken Mogi eds.

(World Scientific)

Contents

A Genius Within (A Snyder)
A Story of Brain Clocks (E Poeppel)
In Search of Achilles's Heel (H Kitano)
Do Infants Dream of Baby Sheep? (P Rochat)
Baby Talk (N Masatoka)
Dr Jekyl, Mr Hyde and Qualia (K Mogi)
Computer and Creativity (L Steels)
Dialog by Editors

amazon

http://www.worldscibooks.com/popsci/6233.html

3月 23, 2007 at 01:56 午後 | | コメント (1) | トラックバック (0)

つまらないからこそおもしろい

生理学会の「若手の会」主催
シンポジウムで、栗本慎一郎さん、
丸山篤史さんと
ご一緒する。

丸山さんをはじめとする生理学会の
若手の会のひとびとは、「気合い」
が入っていて好きだ。

「気合い」さえあればそれでいいという
わけではないけれども、活気ある人生を送るための
必要条件ではある。

丸山さんがまだ高校生の時に、
栗本慎一郎さんの『意味と生命』
を読んで、ポランニーの暗黙知
理論とそれを受けて展開される栗本さんの
思考に触発されて、生命科学者を志した。

時が流れて、その思いが
今回の「若手の会」のシンポジウムに
結実したわけで、そういう話は
私はとてもとても好きである。

シンポジウムの前、会場近くの
食堂で味噌ラーメンを食べた。

いかにも大阪らしい店で、惣菜が
並んでいて、セルフサービスになっている。

食べ終わって出る頃になって、龍の
刺繍の付いた派手なトレーナーを着た
おじさんとその友人が入ってきた。

なんだか、気持がふわっとふくらんだ。
土地の風を受けるとは、こういうことか。

栗本さんのお話を初めて身近で伺ったが、
言葉に力のある人だなと思った。

一つひとつの発話に込められる生命力の
ようなものは偽装することが不可能で、
そこにその人の持つ磁力のようなものが
顕れるのだが、
意味以前のそのような人格の放つ感化力に
結局世界は動かされるのではないかと思う。

新潮社から送っていただいた小林秀雄の
講演の録音は、『白鳥の世界』
『小説について/ゴッホの手紙』であり、
私は解説を書かせていただく。

なんだかうれしくて、わざわざ遠い駅で
降りて夜の街を講演を聞きながら歩いた。

小林秀雄の新しい講演テープの出現は、
かけがえのない宝物が見つかったような
もので、
どんなものだろうとわくわくしながら
聞いたが、やはり圧倒的に面白く、
ボクはこの人がとても好きだなあと思った。

正宗白鳥について、白鳥の生まれ故郷の
岡山で語っているテープは、
いっしょに座談会に出て、酔っぱらって
車で帰る時に、目的地に着いて
いるのに小林秀雄が白鳥にまだあらこれと
喋っていて、運転手が困って待っている
様子や、小林が電車に間違って乗って
沼津まで行ってしまって
鎌倉まで帰る様子、
座談会のゲラが上がってきて、
その表紙に白鳥が「内容浅薄なり」
と書いてあって、読んでみると
確かに内容浅薄なので、
編集者に、「こんなもんは出さない方が
良かろう」と言って困らせる下りなどが
ユーモアたっぷりに語られていて、
聴衆が爆笑し、まるで本当に
志ん生の落語のようであった。

ある人をいいなあ、と思うのは、知識や
教養ももちろんのことだけれども、
その人の大きさのようなものに惹かれる
んじゃないか。
その時に、ものを知っていないと
大きくはなれないということはもちろん
あるけれども、志の大きさや、遠くを見つめる目、
それでいて、自分が卑小な、弱々しい、
いつ死んじまうかわからない存在であることを
わかっていることとか、
とにかくそのような総合的な何ものかとして
人間の魅力はある。

小林秀雄という人は、そのような意味でとてつ
もなく魅力的で、得難い人だったのだと
改めて思う。

正宗白鳥が、自分よりも若いのに生意気な小林
秀雄のことを、「つまらんやつだが、つまらない
やつはつまらないところがおもしろい」
と許容してくれていたのではないかと、
本人が謙遜して言う。

世の中のやつはたいていつまらないものだが、
そのつまらない点にその人だけがもつ
おもしろさがある。
つまらないからこそおもしろい。

そんなことを語る小林秀雄の口調と、
その背後にある正宗白鳥との交流に、
ぼくは実に久しぶりに温かくて大きい
人間の心のようなものを感じた。

一足先に、心の中の桜の花が咲いた。

3月 23, 2007 at 07:56 午前 | | コメント (4) | トラックバック (1)

2007/03/22

初めてであるはずだから

 赤瀬川源平さんにお目にかかる。

 「初めて会ったのに、初めて会ったとは
思えない」方。

 赤瀬川さんは、「ハイ・レッド・センター」
のような前衛芸術からそのキャリアを
始められたが、当時の自分たちの活動が
もはや伝説と化し、歴史的研究の対象に
なっていることにある時気付いて愕然と
したと言う。

 赤瀬川さんの言われていたことで
印象的だったのは、「言葉になってしまっては
もうおしまい。あとは「営業」の領域に入る」
ということだった。

 赤瀬川さんは、何かの本質がわかったと
思うと、もうそこで興味を失って、
 次の活動に移ってしまう。
 わかった後でも続けるのは、
「営業」に過ぎないからである。

 赤瀬川さんは
 「老人力」という言葉を流行らせたが、
世間ではネガティヴにとらえられている
概念が、ポジティヴな文脈でとらえられる、
その最初の一撃は面白いにしても、
二回目からは「営業活動」になってしまう。

 「まあ、世の中には営業活動の方が
向いている人もいるし、それは生きるためには
必要なことですからね」と赤瀬川さん。

 何しろ、「最初」「はじめて」というのが
良いといのである。

 初めての時に、よろよろふらふら
みっともない。
 そのような脆弱さの中にこそ、生命の
本質は顕れるのであろう。

 脈絡なく思い出したこと。

 学生の頃、死の苦痛のつらさと、
死後自分が存在しなくなってしまうという
無の恐怖と、どちらが恐ろしいかという
議論をしていた。

 その頃の私は、そりゃあ絶対
不存在の方が恐怖だと答えていた。

 しかし、最近になってつらつら
考えるに、死ぬ前に痛いのはやはりイヤ
だなあと思う。

 美しいものや、やさしきものも
感じられる一方で、苦しいこと、
恐ろしいことも認識できる。 
 「意識」というシステムは、なぜそのような
トラップを用意しているのか。

 歩きながら考えていたら、ああそうか、
私たち一人ひとりが、キリストなのだと
気がついた。

 人類の罪を全て背負って、大変な苦痛の
中で死んでいったキリストと同じ苦難を、
私たち一人ひとりは経験する。

 輪廻転生でも信じていない限り、
生きるのも初めて、
 死ぬのも初めてであるはずだから、
そりゃあよろよろ、ふらふらもするさ。

 しかし、それが地上にささやかな
生を受けた私たちの価値というもんだろう。

 脈絡なくそんなことを考える
私は、きっとバカであるが、
 桜の季節、生命の気配が横溢する時には、
案外そんな連想が浮かぶんじゃないか。

 新潮社から今度小林秀雄さんの講演の
新しい音声記録が出るが、
 それを聴きながら歩いていたので
そんなことになったのかもしれない。

3月 22, 2007 at 07:04 午前 | | コメント (8) | トラックバック (2)

2007/03/21

『意識とはなにか』10刷

茂木健一郎
『意識とはなにか』
(ちくま新書)
は、増刷(10刷、累計44000部)
となりました。

ご愛読に感謝いたします。

amazon 


3月 21, 2007 at 08:51 午前 | | コメント (3) | トラックバック (0)

『クオリア入門』5刷

茂木健一郎
『クオリア入門——心が脳を感じるとき』
(ちくま学芸文庫)
は増刷(5刷、累計22500部)となりました。

ご愛読に感謝いたします。

amazon 


3月 21, 2007 at 08:45 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

レディ・メイド作品 募集

ココログのインタビュー

前編

後編

に掲載されている
「プレゼント」のお題は、「レディ・メイド」
です。

レディ・メイドの概念については、

http://ja.wikipedia.org/wiki/レディ・メイド

http://en.wikipedia.org/wiki/Found_art

をご参照ください。

「レディ・メイド」は、
二十世紀最大の影響を与えた芸術作品と
されるデュシャンの「泉」によって
提唱されました。
男性用の便器に「R.Mutt」という
サインをしたこの作品は、
従来のアートの概念を変えました。


デュシャンの「泉」

「すでにあるものをそのまま作品にする」
と言っても、
「レディ・メイド」は、決して、
気楽なものではありません。

たとえば、「ある一つのコップであなたを
表現してください」というお題が
出たらどうでしょうか?

あなたは、きっと、世界中をそのコップを
探して歩き回り、
一生かかっても、その一個のコップを
手に入れることができないかもしれないの
ではないでしょうか?

 河原の石ころを何万個もひっくり返しても、
「これが私の石だ!」と思えるものに
出会うことは大変なのではないでしょうか?

 考えてみれば、人生のパートナー
に出会うことも、「レディ・メイド」
です。

 かのバーナード・ショウの戯曲
『ピグマリオン』のように、自分の理想の
女性を自らつくるわけにはいかないのです。

 あなたの「レディ・メイド」を探し、
その写真をブログに掲載して、この
記事にトラック・バックしてください。

 締め切りは、明日(22日)の24時
とさせていただきます。

 ちなみに、私の今までの最高の
「レディ・メイド」は、新宿の紀伊国屋の
化石売り場で見つけた「ヤゴ」です。

http://www.qualia-manifesto.com/yago.html 

 まるで力こぶを作っているように
見えるでしょう。 

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ご安心ください。

3月 21, 2007 at 07:56 午前 | | コメント (20) | トラックバック (35)

雪が空からの贈り物であるように

 大手町の
 日経サイエンス編集部で、
国立科学博物館の篠田謙一先生と
お話する。
 
 篠田先生のご専門は、分子人類学で、
ミトコンドリアDNA、とりわけ変異が
大きいd-loop領域の分子配列を手がかりに
人類の進化、日本人の起源に迫られている。

 ミトコンドリアDNAは環状で、
16000bp程度である。
 最近は、縄文や弥生時代の骨からも
PCR法によってDNAが抽出できるように
なった。

 だいたい、一つのサンプルから200bp
程度のシークエンスを回収できるという。

 ミトコンドリアは母親の卵子由来なので、
「母系」の系譜がわかるということになる。

 人類の起源については、長らく、多地域で
並列的な進化が行われてきたと考えられて
いたが、
 DNAの配列の変異が思ったよりも
少ないことなどを手がかりに、
 イブという一人の女性を源とする
アフリカの単一起源説が有力視されるに
至った。

 イブと7人の娘たちから始まった
現生人類は、さまざまなルートで世界中に
広がっていく。

 その際、海沿いのルートは、食料を得るための
方法が同じなので、有力かつ安定している
のだという。
 陸路だと、狩りの対象になる動物の
種類や個体数が増減して、不安定になる。

 国立科学博物館の新宿百人町にある
施設は上野のいわば「バックヤード」
で、標本を収集し、調査、研究する
さまざまな活動を行っている。

 昆虫類についても、大変な
数のストックがあるらしい。

 大量の標本に囲まれた生活というのは、
幼い頃から、私の夢が織りなされている
大切な糸の一つである。

 篠田先生に、「ぜひ伺います!」
と再会を約した。

 東京の街をパスモを手に疾走しながら、
「メメント・モリ」の問題を考えていた。

 長い間大切に受け継がれていく
「クラッシック」は、つまり、「メメント・モリ」
の精神によって作られるのではないか。

 生というものは猥雑で、豊饒で、
さまざまな紆余曲折に満ちている。
 そのいきいきとした消息の中に
私たちは毎日暮らしているし、
 そのような浮き沈みがなければ、
私たちの生命も存在しない。

 その命の潮流を、ある限られた
対象の中に、あるったけの思いを込めて
注ぎ込む。
 そのことによって、超越した
ものの姿が見え始める。

 ムダやうろうろやアチャーが
なければ、人生は空しいけれども、
 その一方で、メメント・モリの
精神で、 
 自分の手を離れて流通していっても
一つの確固とした姿をとって人々の
心を動かし続けるような、
 そんな静止した何かに力を
注ぎ続けたい。

 空から降る雪の結晶は、上なる
世界における空気や水分や結晶の
核たちの大変動の結果として成長する
「メメント・モリ」。

 雪が空からの贈り物であるように、
私たちの生命の躍動から生み出される
「メメント・モリ」は、
 世界に対しての掛けがえのない
捧げものになるはずだ。

 死の結晶化原理に正面から
向き合って生きる時、
 私たちはこの地上の生を
その潜在的可能性のありったけにおいて
輝かせることができるのだろう。

3月 21, 2007 at 07:25 午前 | | コメント (6) | トラックバック (1)

2007/03/20

つまり、そこに現出しているのは

機械学会のオープンフォーラムに
参加するために、東工大の大岡山キャンパス
に行った。

 照り焼きマックバーガーとコーヒーを
買って、
 学生掲示板の前でぼんやりと
張り紙の数々を眺めながら食べた。

 ぽかぽかと太陽が差している。
朝から疾走して、やっとひといき
ついている私にとって、何よりのご馳走。

 トランペットを練習している
学生がいる。
 そうだ、大学というのは、このような
ゆったりとした時間が流れている場所だった
んだと思い出した。

 まずは小泉英明さんのお話をうかがう。
 小泉さんの強調される、「俯瞰的」
ということは、脳科学を含めた
諸学の将来を考える上で最も
重要なポイントであろう。

 私の話で強調したのは、神経経済学における
多くの問題は、「学習」という命題と
関連づけなければ扱えないということ。
 ニューロマーケティングは、すなわち、
消費者の学習の問題でもある。

 その際に、オープンエンド性や、
偶有性が重要な概念となる。

 俯瞰的な視点は、脳科学内部で
すでに必要とされている。

 フォーラムには、私の研究室の学生たちも
何人か参加していた。
 彼らは、懇親会で小泉さんとお話ししていろいろ
教えていただいていた。

 小泉さんのところに連れていって、
「こいつはナニナニをやっているナンて
やつです」
と紹介するところまでが、指導教官の
役割。

 ひとりの人間から学べることは、
いかに多く、深いことか。

 感化力はこの世で一番強い力の
一つである。

 土曜日に『受胎告知』を見て以来、
ずっと「メメント・モリ」のことを
考えている。
 
 絵というものは、筆で色をの
載せた瞬間に、そのまま止まっているもの
であり、
 その後は、画家あるいは他の人間が
何か手を加えない限りそのままでいる。

 つまり、そこに現出しているのは
「死」そのもの。
 画家は、生身の肉体として
息づきながら死に向かい合っている。

 一方、例えば人形浄瑠璃の太夫の芸術は
違う。
 自分の身体をもって、何ものかを表出
させる。
 音楽も違う。ディオニソス的な
噴出が、時間という不可思議なメディアの
中でのたうち回り続ける。

 レオナルド・ダ・ヴィンチの芸術が人を
惹き付け続けるのは、
 命を描いていながら、一方で
死に捧げられているからであろう。

 走る時間がないので、移動中に走っている。

 パスモの登場で、走りの動線が
スムーズになった。

3月 20, 2007 at 08:14 午前 | | コメント (8) | トラックバック (5)

2007/03/19

天才論

茂木健一郎

『天才論—ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣』

朝日新聞社出版局

2007年3月発売

amazon


3月 19, 2007 at 09:19 午前 | | コメント (3) | トラックバック (3)

(本日)日本機械学会公開フォーラム

日本機械学会公開フォーラム

2007年3月19日(月)13時30分〜17時

東京工業大学 

大岡山キャンパス 西9号館2階デジタル多目的ホール

佐藤太一、小泉英明、茂木健一郎、高橋宏、岡田亮二

http://www.jsme.or.jp/0703190m.htm

3月 19, 2007 at 09:13 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

宮崎駿に学ぶ子どもであることの価値

ヨミウリ・ウィークリー

2006年4月1日号

(2006年3月19日発売)

茂木健一郎  脳から始まる 第47回

宮崎駿に学ぶ子どもであることの価値

抜粋

 「宮崎さんは、ちょっとへそ曲がりの所があるのではないですか」
 収録中、私は思わずそう言ってしまった。宮崎さんは笑いながら、「ははは、きっとそうですよ」と言われた。
 大人はものわかりが良い。そうでなければ、社会の中でうまくやっていけない。自分たちがそうだからと、子どもたちにもついつい同じことを求めてしまうが、それでは子どもを「小さな大人」にしてしまう。
 子どもは、大人の言うことなど簡単には聞いてくれない。容易に社会化され、取り込まれてしまわれないからこそ子どもたち個性は輝く。その光を、宮崎さんはしっかりと見つめている。

全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

3月 19, 2007 at 09:08 午前 | | コメント (1) | トラックバック (3)

『走れメロス』じゃあるまいし

合宿の間、
 手元に仕事を持っていったが、
学生たちの前で開く気になれなかった。

 出て行くものたちもいれば、入って
くるものたちもいる。

 あとからふりかえればきっとかけがえの
ない時間だから、手ぶらで「魂ぶらり」が
ふさわしい。

 三ツ石海岸で星野英一を待っていると、
崖の道をだーっと降りてきて、
満ち潮の海をためらわずに三ツ石まで
走っていこうとした。

 真鶴からタクシーで来いと言ったのに、
星野は駅から走ってきたらしい。
 『走れメロス』じゃあるまいし、困ったやつだ。

 移動の電車の中で、
関根崇泰と目が合った。
 
 私は今まで知らなかったのだが、
 関根の舌は耳や指とつながっている
らしく、
 関根が指で耳をつかんでくるくる
動かすと、舌も一緒に動いた。

 どんな仕掛けになっているのだろう。
解明したいと思って、動画で記録した。

http://www.youtube.com/watch?v=9GmuhmVJADk

Sekine's amazing tongue

 世の中には不思議なことがたくさん
あるものである。

 海を見ていると、全てのものが
「動く」と宿命付けられているからこそ
 生命もあり、意識もあるという
昨日の直観が、ますますきっと
そうなのだと
思えるようになってくる。

 何年経っても変化しないような
石やブロック塀といった「剛体」の
前で、
 「そんなものは動いても生きてもいない」
などと私たちはついつい油断してしまいがち
だが、一見変化のないように見える表面の
裏で、電子はぎゅわんぎゅわんと動き、
衝突し、素粒子は生成消滅している。

 凄まじいばかりの大混乱と「融和」と「別れ」と
「混迷」がそこにはある。

 波動関数の収縮をはじめとする
量子力学の概念装置は、結局は
 「万物が動く」という事態を
制度的に支えるために必要なのだろう。

 湯河原の
街を、ぽかぽかとした日差しに
照らされながら歩き、
 途中で見つけた店でその場で
コロッケを揚げてもらって
食べる。

 コロッケの温かさと太陽の
熱が私の中でうまく混ざって、
なんだかほっとした気分になった。

 無理もない。ここのところ、
次から次へと、目の前の仕事を
こなすということに追われてきたんだから、
 こういう無為で無策な時間を
過ごすこと自体が贅沢だ。

 波のうねりを見ていると、
海は、「万物は生きており、動いている」
という認識を確認するための最良の
鑑であることが了解される。

 大海原に向かい合っていると、
その分、人間社会に対して背を向けている
ようで、
 まあ、普段あれだけ付き合っている
んだから、少しくらい背を向けても
良いのではないかと思った。

 今朝になったら、背を向けて
いたはずの世間が追いついてきて
先回りをしており、
 海と太陽とコロッケの気分は
あっという間にふっとぶ。

 しかし、「その時」は確実にあったのだ。

朝露がやがて消えてしまうからといって
そのつややかな表面に映った世界までもが
その顔色を失うわけではあるまい。

3月 19, 2007 at 08:51 午前 | | コメント (8) | トラックバック (4)

2007/03/18

地球はぶぶんぶぶんと

 金曜日。
 ゼミで、野澤真一が統合失調症と絡めて、
ドーパミン系の働きについてレビューする。

 野澤は、一貫して「うつ状態」の問題に
関心を持っていて、しかしそれはなかなか
リサーチとして立ち上げにくいからと、
随意運動の問題へと「着地」したはず
であったが、
 金曜日のレビューはまたもや「先祖返り」
したようにやっかいな精神性のことを
扱かおうとしていた。

 私は、困ったなあと思いながら野澤に言った。

 君がやろうとしていることは、普通の
修士論文のプロジェクトとしては重い。
 普通の10倍くらいの文献を読まなければ
ならないんじゃないか。

 君は「自発性」というけれども、
それが何であるか、きちんと記述しようと
思ったら、関連したことを言って
きた人たちはたくさんいるわけであるし、
一度それらの流れを押さえなければね。
 
 それと、どこかの時点で、精神科の
人と話した方がよいんじゃないか。
 野澤が興味を持っているモルキュラーな
アプローチからpositive symptomとか
negative symptomの問題に取り組んでいる
人は誰なんだろう?
 そういう人と、一度discussionして、
野澤が今考えているようなことが
的が外れてないか、ヘンなクセが
ついていないかどうか、チェックして
もらった方がいいんじゃないか。

 そんなことを言いました。
 野澤クン、がんばってください。

 土曜日。
 NHKの仕事で、東京国立博物館
にてレオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』
を見る。

 以前フィレンツェで見たことがある
はずなのだが、その時はあまりじっくり
観照できなかった。

 遠くの山を包む白い光の空気感。

 天使ガブリエルの足下の花々は、
日がかろうじて差す水の中をたゆらう海草
のように揺れる。

 しばらく『受胎告知』を見てから、
まわりの様子を見たら、
 壁も、自分の服も、リュックも、
すべては生きて、うち震えている
ように思えた。

 ふだんは「ああ、モノか」と通り
過ぎているものたちも、
 ゆったりと真剣に向き合えば、
本来の潜在的な力動をあきらかにする。

 松本和也アナウンサー、渡辺満里奈
さんとお話する。
 仕事を離れて楽しかった。

 朝日新聞の赤岩さんにお目にかかって、
昼食をご一緒する。

 研究室の合宿へ。
 三石海岸で、さまざまなことを
話してから、湯河原の宿に入った。

 4月からオリエンタルランドで働くことに
なった東京芸術大学の植田工も合宿に参加。

 植田は、
 いろいろと不安だと言う。
 新しいことにチャレンジする時は
誰でもそうだ。
 でもね、そのいたたまれなさの中に
未知のものへの胎動があるんだよ。
 『受胎告知』に描かれているように。

 朝、温泉に入ってお湯の表面のあぶくを
見ていたら、
 結局意識も生命もこの宇宙の万物が
「動く」という神秘に基づいている
んじゃないかと思った。

 だったら、すべてのものが「生きている」
のは当たり前だ。

 物理学は後づけの「世界線」としての
万有のあり方を記述するが、
 「動く」ということの本質は未だ
とらえ得ていない。
 
 水が動き、空気が動き、地球はぶぶんぶぶんと
宇宙空間を動いている。

 だからこそ、私の生命も、意識もある。

 ささやかな「湯河原の悟り」である。

3月 18, 2007 at 09:37 午前 | | コメント (9) | トラックバック (3)

2007/03/16

『ひらめき脳』18刷

新潮新書 『ひらめき脳』は増刷(18刷、累計90000部)
となりました。

ご愛読に感謝いたします。


3月 16, 2007 at 10:20 午前 | | コメント (4) | トラックバック (2)

負ける人生

負ける人生

プロフェッショナル日記

2007年3月16日

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/professional/

3月 16, 2007 at 08:18 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

(本日)朝日カルチャーセンター 「脳と芸術」

朝日カルチャーセンター講座

脳とこころを考える 脳と芸術 第4回

2007年3月16日 18時30分〜20時30分

朝日カルチャーセンター 新宿

http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0701koza/A0301.html#

http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0701koza/A0301_html/A030101.html

3月 16, 2007 at 07:45 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

居心地の悪い場所

NHKのスタジオ102横で、
The Japan TimesのEric Prideauxさんと
お話した。

エリックは来日12年目。
日本語はとてもうまくて、最初は
日本語でやろうとしたが、
どうせ記事は英語で書くんだからと、途中
から英語で喋ることにした。

NHKのプロフェッショナルの話や、
脳科学の話、
そして、自分の人生の話などをした。

後半になって、エリックが、
「あなたのクオリアに対する関心は、
Zenと関係しているんじゃないか」
と聞いた。

 このような質問に対しては、
できるだけ正確に答えるのが良いと
思って、次のように言った。

 私は仏教をゆるやかに継承している家に
生まれたが、私は仏教を能動的に
実践しているわけではない。

 福井の永平寺には何回か行って、
感銘を受けたが、本格的に座禅したり、
瞑想したこともない。

 複数の人に、クオリアは「唯識」に
関係しているのではないかと言われたことも
あるが、華厳経をきちんと勉強したことも
ない。

 あなたが先ほど指摘したように、私は
青春時代はカントやニーチェ、ベルクソン
など、ヨーロッパの思想家を中心に読んでいた。

 しかし、日本という国に生まれ、この社会で
育ってきたわけだから、自分が気付かないうちに、
無意識のうちに伝統や文化からさまざまな
影響を受けていて、その中にはあなたの
言う「禅」も入っているかもしれない。

 だから、そのような無意識の影響を
意識化していくことが、きっと
大切なのでしょう。

 日本近代の知識人が、
「あなたの言っていることは禅と関係してい
のか?」
と西洋人に聞かれた時のある種の居心地の
悪さをどのように着地させるか?
 
 この問題は、私が最近考えているいくつかの
ことと関連している。

 居心地の悪いこと、とまどうこと、
どうしたら良いかわからないこと。
 そのようなやっかいな領域の中にこそ、
考え抜くべき真の課題があると思う。

 だから、人は、時々自分を居心地の
悪い場所に置く必要があるのだ。

3月 16, 2007 at 07:41 午前 | | コメント (12) | トラックバック (7)

2007/03/15

意識をめぐる問題の現状と課題

Lecture Records

茂木健一郎 『意識をめぐる問題の現状と課題』

2007年3月14日

早稲田大学 理論生物学シンポジウム

早稲田大学理工学部新大久保キャンパス

池上高志、塩谷賢、郡司ペギオ幸夫、相澤洋二氏
他による議論あり。

音声ファイル(MP3, 65.9MB, 71分)

3月 15, 2007 at 09:41 午前 | | コメント (1) | トラックバック (1)

脳と宇宙

第一回ヨミウリ・ウィークリートークスペシャル
「脳と宇宙 ひらめき力をきたえる」
中川人司、茂木健一郎

2007年4月8日(日)14時〜15時30分

三省堂書店 神田本店

http://sanseido-eventhonten.hontsuna.net/article/1846571.html

3月 15, 2007 at 09:18 午前 | | コメント (3) | トラックバック (0)

プロフェッショナル 仕事の流儀 トークスペシャル

プロフェッショナル 仕事の流儀 

トークスペシャル Part2

〜指揮者・大野和士、漫画家・浦沢直樹〜

脳科学者・茂木健一郎と、プロフェッショナルたちの丁々発止のトークの中から、放送されなかった未公開シーンばかりを集めた「トークスペシャル」。今回はその第二弾。 登場するのは、「YAWARA!」「MONSTER」「20世紀少年」などで絶大な人気を誇る漫画家・浦沢直樹と、ヨーロッパを拠点に活躍する指揮者・大野和士。独創的な発想や人を感動させる表現はどうやって生まれてくるのか。脳の専門家、茂木健一郎ならではの鋭い質問に、日本を代表する2人のクリエイターが「創造の秘密」を熱く語る。

NHK総合
2006年3月15日(木)22:00〜22:44

http://www.nhk.or.jp/professional/

3月 15, 2007 at 08:37 午前 | | コメント (1) | トラックバック (3)

コンセプトワーク

甲野善紀さんや、日比野克彦さんに久しぶりに
お目にかかる。

 その他、新鮮な切り口への出会いもあった。

 早稲田の理論生物学シンポジウムは、
朝一で私が喋る番だった。

 ボクは、honestでありたいと思った。
 心脳問題は、剃刀でこまごまとした細工を
するというよりは、
 ナタで大まかなかたちをつくるという
段階にある。

 表面的には精緻でもっともらしく見える
モデルの多くは、実は重大なるごまかしを
している。

 どこをどうごまかしているのか、
現状における問題点は何か、そのあたりを
概観した。

 塩谷賢、郡司ペギオ幸夫、池上
高志や、相澤洋二先生と忌憚ない意見の
交換ができた。

 意識問題について今必要なことは、コンセプト
ワークである。

 量子力学においては、波動関数の
数理の詳細を知らない段階でも、
 コンセプトレベルでその本質をつかむ
ことはできる。

 たとえば、粒子と波動の二重性。

「ダブルスリット」の実験に
おいて、電子を現す波動関数が
両方のスリットを通り、それがスクリーン上で
干渉して、複素振幅のノルムが
粒子としての電子がそこで発見される
確率になる。

 そのような形で、詳細を計算しなくても、
理論的枠組みを理解することができる。

 意識の問題については、そのような
形での「理論の概略」がない。

 たとえ、あるモデルで記述される
対象があったとしても、その対象が
一切の意識的表象が随伴しない「哲学的ゾンビ」
であるという可能性はどうして排除
されるのか?

 この、「哲学的ゾンビ問題」について、
答えられるモデルは現時点ではない。

 全速力で間違った方向に走っているよりも、
たとえ少しずつでも、正しい方向に
歩んだ方が良いと思う今日この頃。

 ベームの指揮するウィーンフィルの
ブラームス第一番を聴いていて、心が
高揚した。

 誰もが言うことだが宇宙的な広がりの
ある音楽。

 自分がもし今月面に立っていたら
 我が身を焦がす
地球上の細々とした悩みは、一体どのように
見えることだろう。

3月 15, 2007 at 08:26 午前 | | コメント (6) | トラックバック (1)

2007/03/14

ヤケクソになって裸で走り回っているうちに

早稲田大学で、相澤洋二さんと三輪敬之
さんが主催する「理論生物学」の
シンポジウムがあった。

 第一日目の最初は、郡司ペギオ幸夫が
しゃべった。

 私はすこし遅れて座って、
池上高志はさらに10分くらい遅れて研究室の
学生たちとやってきた。

 池上は、私の後ろの席に座ると、
論文の校正の内職を始めながら、郡司の
話を聞いていた。

 しばらく立って、後ろの池上が、
「相変わらずぜんぜんわからないなあ」
とつぶやいた。

 オレは後ろを振り向いて、
「お前、内職するなよ〜」
と言った。そうしたら、池上は、
 「しょうがないだろ〜 いそがしいんだよ」
と言った。

 郡司は、「底が抜けたfunctor」の
話をしていた。

 郡司の話は、いつも誰にもよくわからない
のだが、それでも、「お昼にラーメンを
食べるか、それとも天丼を食べるかと迷って
いた男が、やっぱりどっちも食べないで帰って
寝ちまおうと思う」といった、自然言語に
よる発話だけはわかるのが通例であった。

 ところが、昨日に限って、自然言語の
ところも何を言っているのかよくわからない。

 私の友人で、そういうひとは二人いる。
つまり、郡司ペギオ幸夫と、塩谷賢である。

 質疑応答の時間になった。

 池上が、郡司のモデルが、特にセル・
オートマトンのシミュレーションになった
時に、定常状態しか扱い得ず、系の様子が
変わる進化のような問題を扱えないという
ことを問うた。

 私も、郡司のシミュレーションは、それが
どのような存在論的/認識論的な立ち位置に
あるのかということをいつも聞いている。
 そのあたりは、先に『現代思想』に
出た私と郡司と池上の鼎談にある通り。

 しかし、今回は何となく郡司を擁護
したい気持になって、
 「卵割などを見ると、実質的に新しい
秩序が生まれる余地はないから、むしろ
見えない秩序が顕在的な秩序へと変わる、
そんなホメオスタシスを考えざるを
えないのではないか、そのような
視点から、郡司のシミュレーションを新たな
光の下で見ることができるんじゃないか」
というようなことを言った。 

 休憩時間になって、池上と外に出た。

 池上が口を切る。

 「おまえ、なんで仕事しなかったんだよ。」
 「いやあ、郡司の話を聞きながら仕事を
するようになってしまったら、もうおしまいだと
思って。」
 「おまえ、偉いなあ。それにしても、同じ
研究会にオレと茂木と郡司を一緒に呼ぶって、
イミがないだろ〜(笑)。誰か一人を呼んで
うんぬん、というんだったら、わかるけどさ〜」
 
 池上が言いたかったことは、つまり、
「濃すぎる」ということであろう。

 「それにしても、オレとお前の考える
ことはなんでシンクロするんだよ〜
オレも、最近homeostasisとadaptabilityの
関係を考えていたんだ。」

 確かに、池上の手元の論文には、
homestasisうんぬんかんぬんとあった。
 
 「オレはこれからのセッションでは仕事を
するからな。後ろに行くからな」
と言うと、池上は、
 「お前、後ろいくなよ〜」
と言ったが、私は後ろに行った。

 ところが、話を聞きながらあれこれ
考えるのが面白く、パソコンは開かず
ずっと聞いていた。
 お陰で、さまざまな仕事が遅れました。
関係者の方々、ごめんなさい。

 郡司のあとは、早稲田大学の学生や先生を
中心とした
「まともな」科学の話で、私が大学院の
時にやっていた生体運動のモデルや、粘菌の
走電性など、本当に面白かった。

 その一方で、いわゆるconventionalな
科学の内包している、深刻な方法論的限界
も感じざるを得なかった。

 認識の本質、生命の本質をとらえるという
意味では、やはり余りにも狭すぎる。

 セッションが終わり、池上と歩きながら
また話した。
 
 「後半の話を聞くと、郡司の話の必然性も
またわかってくるよな」
 「そうだな。」
 「かといって、底が抜けたfunctorでいいか
というと、そんなこともないしなあ。」

 「困ったなあ」と二人で豪快に笑った。
 それはすこしヒステリックな笑いだった
かもしれない。

 引き留めたのだが、池上は仕事が忙しい
というので先に帰り、私も右に同じだったが、
エイとヤケクソで懇親会に行った。

 郡司や、三宅美博さんや、相澤さん、高野さん、
それに早稲田の学生さんなどと話して
いながら、「Aでもないし、かといって
Bでもないしなあ」という池上との会話の寂しい
気分を、ずっと引きずっていた。

 現代の学問のいけないところは、
ヤケクソのバカエネルギーが足りないことで
はないだろうか。
 荒削りでも何でもいいから、一見結びつかない
ようなものどうしをえいやっと関係付けること
以外に、先に進む道はないように思う。

 ヤケクソになって裸で走り回っているうちに、
きっとなんとかなるだろう。

3月 14, 2007 at 07:03 午前 | | コメント (10) | トラックバック (0)

2007/03/13

何もなくても遊びは工夫できる

ヨミウリ・ウィークリー

2006年3月25日号
(2006年3月13日発売)

茂木健一郎  脳から始まる 第46回

何もなくても遊びは工夫できる

抜粋

 私自身、缶蹴りについては今思い出してもわくわくするような体験がある。仲間たちと示し合わせて、着ている服を交換して、塀の陰からそこだけ出すというのはよくやった。鬼が騙されて、「なんとか君!」と言うと、「なんとか君じゃないよ、服を換えたんだよ!」と飛び出してからかう。
 数人で、一斉に物陰から飛び出すというのも時々やった。鬼があわてて名前を全部言おうとするが、間に合わない。
 言い終える前に、スコーン! と蹴ってしまうあの爽快感と、ほんのちょっぴりの罪悪感がたまらなかった。
 傑作だったのは、服を頭の方にめくりかえし、一列になって前の人の腰に手をあてて、芋虫のように歩いていった時である。鬼が名前を言おうとすると、「顔が見えていないのにどうしてわかるんだ」と抗議して、とうとう芋虫のままもそもそと歩いていって蹴ってしまった。

全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/


3月 13, 2007 at 07:32 午前 | | コメント (3) | トラックバック (1)

おひさまを浴びて

今週は完全にスケジュールが破綻
している。

 アポイントメントの合間に、
ちくま書房の福田恭子さんにゲラを渡した。

 代々木の国立オリンピック記念青少年総合センター
の時計の前に歩いていくと、
 向こうからニコニコと笑いながら増田健史が
やってきた。

 福田さんがベンチに座ってゲラを
読んでいる間に、
 増田健史と立ち話をした。

 太陽が当たり、ぽかぽかと暖かくて、
ボクは思わず
 うーん
と手足を伸ばしてカカシの恰好になった。
 
 そうだ、カカシの恰好は、実は
太陽の光をいっぱいに浴びようという
姿勢だったのだ。

 ひなたぼっこをするなどということは、
本当に久しぶりで、
 人は単純なことでうれしくなるのだなあと
思った。

 あまりにも気持が良いので、
しばらくそうやって日に当たって
いたら、
 シンポジウムの主催者が
心配して迎えにきた。

 銀座の画廊で伊東乾さんに
おめにかかる。

 英国大使館でのレセプション。 
 David WilliamsとMatt Lucasは
「笑っていいとも」に出演したので、
その話をする。

 MattのパートナーのKevinも
やってきて、しばらく話をした。

 BBC主催のディナー。
 DavidとMattの間に座った。

 桑原茂一さんが日本でコメディを
やると、なかなかに苦労する。

 イギリスのコメディのように、
provocativeであることが一つの
価値である、というような状況には
どうすればなれるのだろう。

 うんうんと押しても動かない
社会が、別の脈絡からだとあっさり
開くということはよくある。

 脈絡をよく考えるべきなのだろう。

 それにしても、あのぽかぽかの
20分間は、本当に幸せだった。

 たけちゃんとの他愛のない会話の言葉が、
おひさまを浴びて踊っていた。

3月 13, 2007 at 07:23 午前 | | コメント (6) | トラックバック (0)

2007/03/12

我慢強くステディな

 宮本亜門さんにお目にかかる。

 宮本さんは、中学から高校にかけて
引きこもりだった。
 ブレークした後、すべての仕事を
やめたいと思った。
 社会と自分との関係において、
密につながるフェーズと、切って閉じたい
というフェーズの間を行ったり来たり
するのだという。

 日本という社会においてある種の
「付き合い」をする
ということと、自分の本格的な志向を
どのように両立させるか。

 それは結局、社会との距離の取り方、
接合の仕方に依存するのであろう。
 べったりでもいけない。
 完全に閉じこもってしまうのでもいけない。

 宮本さんと、沖縄でゆっくり飲みたい!

 イギリスで大変な現象となっている
コメディ、Little Britainの台本を書き、
主演し、演出しているMatt Lucasと
David Williamsが来日して、親しく話す
機会があった。

 大変たくさんのことを学んだが、
Davidが、「自分は英国紳士としての
行動スタイルを大切にしたい。大邸宅に住む
とか、そのような見かけの生活様式ではなく、
行動における紳士らしさを身につけたいと
思っている」
と言った後で、
 Little Britain中の有名なスケッチ、
Lou and AndyのLouこそがイギリス風
紳士の典型であると言ったことがとても心に残った。

 車椅子のアンディと、その世話をするルー。
 アンディは本当は立って歩くことが
できるのだけれども、ルーの前では
歩けないふりをしている。

 アンディが繰り出す無理難題に、
ルーは辛抱強く応えている。
 その姿こそがイギリス紳士なのである。
とDavidは言う。
 
 なるほど。そういう紳士にだったら、
ボクもなりたい。


Lou and Andy

http://www.bbc.co.uk/comedy/littlebritain/characters/louandy.shtml

MattとDavidのすごいところは、キャラクター
によってまったく印象が変わってしまう
こと。

なぜあんなトランスフォーメーションが起こる
演技ができるのか、と聞くと、
「自分たちで台本を書いているから、キャラクター
が最初からconvincingなのだ」と言う。

「他の人が書いたキャラクターだと、なぜ
こんな行動をとるのかとか、何回も聞かなくては
ならないからね。」

 ご一緒した桑原茂一さんがぽつりと言われた。

 「彼らの演技は、ちょっとあり得ない
くらいすごい。日本の俳優だと、その人が
出てきた瞬間に、ああその人だ、とわかっちゃう
でしょ。向こうの人は、本当にこの人があの
キャラクターを演じているの、と不思議に思う
ほど、全くわからないからね。きっと、
アクティングということの基礎が違うんで
しょうね。」

 いろいろな仕事のスケジュールが山積して、
雪崩れ状態。
 ぐずぐず言わずに、大人しく前に進む
しかない。

 Davidの定義によるEnglish gentlemanのように、
我慢強くステディな善意の人でありたい。

 見かけは関係ないんだよ。

Lou & Andyの代表的なスケッチ

3月 12, 2007 at 09:17 午前 | | コメント (9) | トラックバック (0)

2007/03/11

芽をぴょこんと出す草のように

ぼんやりとシャワーを浴びて
髪の毛を洗っていたら、
なんだかアタマのあたりが痛い
気がする。

 おかしいなあと思って触って
みると、やはり痛い場所がある。

 それでやっと思い出した。前の晩に
米本さんの打ち上げの飲み屋で梁にごつんと
やったのだった。

 これも一つの「アハ体験」ではあるが、
忘れていたことが情けない。

 渡部昇一さんに初めてお目にかかった
時、one shot learningの話をしたら、
渡部さんは、即座に「ああ、それは、ゲシュタルト
心理学で言うAha-Erlebnisじゃないですか」
と言われた。

 あの世代の人たちは教養が違う。

 日本テレビの「世界一受けたい授業」
の収録のために汐留に。

 竹下美佐さんに、一目見るなり
「先生、前髪がヘンですよ」
と言われた。

 「それはですね、きっと、昨日
ゴツンとやったからです」
 と説明した。
 しかし、いかにたんこぶがあると
言いながら、それほど髪型が変わる
わけがない。

 「あと、シャワーを浴びたのが、
約50分前だ、ということも関係
しているんじゃないでしょうか」

 竹下さんがヘアメイクの人を
呼ぼうとしたので、あわてて、
いいです、いいですと言って
トイレに行って鏡で自分で直した。

 髪の毛を気にして鏡の前で直したのは、
過去5年、10年記憶のないことである。

 小学校の頃、髪の毛を夜洗うと、
次の日必ず春になって芽をぴょこんと
出す草のように、あちらからもこちらからも
飛び出してそれはさすがにまずいと
押さえつけてもまたぴょこんと戻った。

 髪の毛は朝以降に洗うものであるという
方法論は、あの苦い経験から生まれた。

 もっとも、小学校の時はお風呂に入っても
本を読んでカラスの行水で、髪の毛を
洗わずに出てくることも多かった。

 一週間くらいは洗わなかったことも
あったように思うけれども、今思うと
なぜそれで済んでいたのか、不思議だ。

 真冬の体育集会で、半袖半ズボンで
校舎の陰で寒風に吹かれてぶるぶる震えて
いたのも、今考えると不思議だ。

 時間が経過すると、常識は変わる。
 今当たり前だと思っていることも、
そのうちとんでもない非常識と相成る
のだろう。

 新潮社の金寿煥さんと歩きながら
話した。

 「ボクは、知的な成果というものを、
説明的な散文としてではなく、何か
もっと直裁的な形で感性に訴えかける
ように表現できないかと思っているんですよ」
と言ったら、金さんは、
 「南直哉さんもまさに同じことをおっしゃって
いました」と言った。

 金さんは南さんの『老子と少年』の
編集を担当した。

 南さんと恐山で話したことは大切な思い出
としてある。
 
 表現における常識を非常識にしてみたい。

3月 11, 2007 at 10:02 午前 | | コメント (8) | トラックバック (1)

2007/03/10

生気論の歴史と理論

Lecture Records

米本昌平 × 茂木健一郎

『生気論の歴史と理論』

池袋 ジュンク堂書店
2007年3月9日(金)

音声ファイル(MP3, 70.7MB, 77分)

amazon

3月 10, 2007 at 11:49 午前 | | コメント (3) | トラックバック (3)

Homeostasis

Homeostasis

The Qualia Journal

10th March 2007

http://qualiajournal.blogspot.com/ 

3月 10, 2007 at 10:51 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

(本日) 椎名林檎 お宝ショウ

椎名林檎 お宝ショウ内

対談 椎名林檎 × 茂木健一郎

NHK総合 2007年3月10日(土)
24時25分〜25時14分

http://www.toshiba-emi.co.jp/vmc/artist/domestic/ringo/

3月 10, 2007 at 10:27 午前 | | コメント (4) | トラックバック (2)

ドリフのコントのようなこと

米本昌平さんとの対談を終えて、
ジュンク堂近くの店で懇談していた。

 その店は奇妙な作りになっていて、
平土間からさらに階段で上がったところに
席がある。

 梁が飛び出していて、かがまなければ
くぐれないことは認知していたが、
 トイレに立つ時についつい忘れて
頭をゴツンとぶつけた。

 いてて。

 情けなくも腹が立つ。
  
 ぶつける人が多いのだろう。
梁には、ソフトな梱包材の仕立てがしてあった。

 それで、中学校の時の部活を思い出した。

 私は中学一年がテニス部、中二が卓球部、
中三が水泳部という朝令暮改ぶりだったが、
テニス部の時、中庭で往復ダッシュを
やっている時にその一件は起こった。

 三方をコンクリート壁に囲まれた
その狭い場所で、ダッシュして方向転換
してまたダッシュするという往復運動を
しているうちに、勢い余って頭を
壁にぶつけてしまった。

 自分でもびっくりするくらい
血が出た。

 職員室に行って、先生が驚いて
車で医者に連れていってくれた。
 
 結局、十何針縫った。血が出た
ことに比べれば、縫う痛みは何でも
なかった。

 その頃、アブドーラ・ザ・ブッチャー
という流血レスラーがいて、よく額から
血を出していたが、
 噂を聞きつけた仲間たちからブッチャー
だとからかわれた。

 まいったのは、一ヶ月くらいネットを
頭に巻いていなければならなかった
ことである。

 その頃から髪の毛が乱れていたので、
ネットを付けてちょうど良い、という
説もあったが。。。

 頭を打ったら、そんなことを思い出した。

 ドラマの設定などでよくそんな筋があるが、
私の方はそんな民間心理学とは関係なく、
 本物の連想記憶だった。

 席に戻り、落ち着きを取り戻し、
 内心の動揺を抑えてからお酒をいただいた。

 ドリフのコントのようなことを
やらかした後のお酒はしみじみと情けなく
おいしかった。

 頭を打っても、米本さんと喋ったことは
ちゃんと覚えている。

 外に出ると、金曜の夜でたくさんの人が
歩いていて、みんなもう花見をしているかの
ような勢いだった。

3月 10, 2007 at 10:24 午前 | | コメント (1) | トラックバック (2)

2007/03/09

(本日)米本昌平 × 茂木健一郎 『21世紀の生命論』

ジュンク堂池袋本店 トークセッション

米本昌平(科学技術文明研究所所長)、茂木健一郎
『21世紀の生命論』 
2007年3月9日(金) 19時〜

http://www.junkudo.co.jp/event2.html

3月 9, 2007 at 07:37 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

子どもであることの価値

子どもであることの価値

プロフェッショナル日記

2007年3月9日

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/professional/

3月 9, 2007 at 07:35 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

気合い

 何だか一種不思議な感慨の中にいる。

 先日朝日カルチャーセンターで
竹内薫と話した時、
 竹内が、「学生の時、茂木がしきりに
ニーチェとかワーグナーとか言っていたけれども、
それから丸くなって、社会と適合して、
でもまた今日ニーチェとかワーグナーとか
言うようになって、何だか昔に戻った
みたいで安心したよ」
などと竹内に言われたが、
 確かに、自分でも精神年齢、
というか参照する心の時季がどんどん前に
さかのぼっているような気がする。

 手元は朝起きてから夜眠るまで一部の
隙もないほど仕事で埋まっているが、シャワーを
浴びたり、歩いたり、ふと空を見上げたり
する時に自分の中からわき上がってくる
思念が、ここのところ
思春期からずっと考えてきたことに
連なっている。
 
 それとともに、現代社会で起こっている
様々なことが、まるで影絵のように少し
遠くにあるように見え、
そのようなものと直接関係をもたない
内なるダイナミクスのリアリティを痛い
ほど感じる。

 自分にとって大切なことは何か、
という基準は、世間で大手を振って歩いている
巨大概念とは明らかに違う。

 その違いについて、うろうろごたごた
するのではなく、
 ずれてもいいや、知ったことか、
 オレは内なる力動を大切にする
という覚悟のようなものができて
きたのだろう。

 昔、養老さんに「茂木くんは精神の発達が
遅い」と言われたことがあるが、
 ボクは今やっと二十歳くらいなのかもしれない。

 先日塩谷賢と話していた時に、私が
人を判断する時の基準のひとつは「気合い」
だと思った。

 世間の基準に予定調和にはまってそれ以上
省みない人ではなく、「気合い」の入った
人が好きだ。

 池上高志、郡司ペギオ幸夫、塩谷賢、
田森佳秀、白洲信哉・・・こいつらに共通する
属性は、「気合い」だろう。

 今日は「気合い」の大先輩、米本昌平さんと
お話する機会があって、本当に楽しみである。
 米本さんが今回訳された『生気論の
歴史と理論』はすごい本だなあ。 

 大切なことは、世間から遠く離れたところに、
原石のにぶい輝きを放って密かに隠れているもの
なのだ。

 その徴候を信じられる人だけに、
宇宙の精神運動はその真の姿をさらけだす。

3月 9, 2007 at 06:16 午前 | | コメント (7) | トラックバック (1)

2007/03/08

プロフェッショナル 仕事の流儀 南場智子

プロフェッショナル 仕事の流儀 第44回

仕事こそが、人を育てる
〜ベンチャー企業経営者・南場智子〜

今、若者の間で大人気の携帯サイトがある。仮想の街に集いユーザー同士が交流するというこのサイト、1日のページビューが2億を超えるという携帯でも最大級の化け物サイトである。仕掛人は、社員数200人というベンチャー企業の経営者・南場智子(44)。南場は去年暮れ、ウーマンオブザイヤーにも選ばれた。南場は、とにかく人材を大切にする。離職率の高い業界にもかかわらず南場の会社では、創業時のスタッフが今もほとんど残っている。その信念は、「人は仕事でしか育たない」。常に社員の仕事に目を配り、あえて難しい仕事を任せる。うまくいっている事業でもチームのエースを配置転換し、残りの社員のやる気に火をつける。その度ごと南場は社員と直接話し、説得にあたる。創業8年目の今年、南場は、新規事業の開発に全力を注ぐことを決めた。全社員から企画を募り、新たなチームを編成、躍進をもくろむ。人材にこだわり、新たな地平に挑み続ける経営者・南場の仕事の流儀に迫る。

NHK総合
2007年3月8日(木)22:00〜22:44

http://www.nhk.or.jp/professional/

3月 8, 2007 at 07:24 午前 | | コメント (0) | トラックバック (6)

アカデミズムの最高の結晶

山崎太郎さんとお話しているときに、
ワグナーの作品は、フロイトやユングに
先駆けて無意識の重要性を示していたり、
あるいは近代のエコロジー思想に連なる
要素もあるんじゃないかと言ったら、
山崎さんも同意してくださって、
 幾つかの興味深い指摘をくださった。

 そのことがずっと引っかかっていて、
昨日歩いている時に、インスピレーションが
来た。

 一つの芸術作品が、アカデミズムの
最高の形態であるということはあるのでは
ないか。

 人間とは何か、世界とはどのように
できあがっているか?
 人間はいかに生きるべきか?
 人生の喜びや哀しみは何に
由来するのか?

 そのような問題についての、
ありとあらゆる学問の最先端、
最深を押さえ、引き受け、
それを論文という形で表現するの
ではなく、
 一つの芸術作品として提示する
ということはあり得るのではないか。

 ニーチェの詩的な作品は、
やはりアカデミズムの最高の結晶の
一つなのだろう。

 プラトンの「饗宴」もまた。

 ひとりの人間の生き方の
中に、叡智が結晶するという
こともあるのだろう。

 そう考えることは、生きることの
可能性を大いに広げ、燃え立つような
勇気を与えてくれるように思われた。

 世の中は、きっと最初から
そのようにできていたのである。

3月 8, 2007 at 07:21 午前 | | コメント (4) | トラックバック (2)

2007/03/07

ワーグナー再発見——『タンホイザー』を中心に

Lecture Records

山崎太郎 × 茂木健一郎

ワーグナー再発見——『タンホイザー』を中心に

2007年3月6日

東京文化会館大会議室

音声ファイル(MP3, 114.6 MB, 120分)

3月 7, 2007 at 09:17 午前 | | コメント (3) | トラックバック (0)

人生の軌跡を残すのであれば

人生の軌跡を残すのであれば

プロフェッショナル日記

2007年3月7日

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/professional/

3月 7, 2007 at 08:41 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

のびのびと

本当にせっぱ詰まっている時は、
タクシーで移動しながら仕事を
するけれども、
 電車で移動する余裕があると
無性にうれしい。

 千代田線で当座の仕事とは
直接関係のない英語の本を読みながら
移動していると、この世に
これ以上の贅沢はない!
とふつふつと喜びがこみ上げてきた。

 私は、ひょっとしたら世間様から見ると、
かなりヘンな感覚に
なってきているのだろうか。

 湯島駅で降り、不忍池のほとりを
抜けて東京文化会館まで歩いた。

 学生時代、散々ほっつき歩いた場所。
 やさしい暗がりに包まれていると、
さまざまな仮面がとれて、素の自分に
戻っていけるような気がする。

 あまり現代につきあいすぎるのも
イヤだな、と思う。
 同時代的なあれこれや、浮き沈みや、
揺れ動きは愉しいけれども、
 長い目で見ると、そのような
ことはきっと跡形もなく消えていって
しまう。

 もちろん、自分の生命自体がいつかは
跡形もなく消えていくものだから、
 流れに浮かぶうたかたのような
ものこそが自らに一番近いものでは
あるが、
 長い時間をかけて続いていく
うねりのようなものに接続しなければ、
視野狭窄に陥ってしまう。

 インターネットに象徴される
現代的な偶有性の場と、
古来変わらぬクラッシックな価値。
 この「対角線」的な組み合わせこそを
わが心の友にしようと思ったら、
 何だかいろいろなことが
ふっと楽になった。

 東京文化会館の大会議室は、
昭和的ななつかしい設い。

 山崎太郎さんとワーグナーについて
二時間大いに語り合った。

 ぴかぴかと光る鉱脈を掘り当てた気分に
なった。
 大学時代からの畏友との掛け合いが、
漫才のような
奇妙な面白さに満ちていたのである。

 私は相変わらずふらふらと
余計なことを言いながら散らして散る。

 山崎さんが、しっかりとした歩みで、
いろいろなことを整理していって
くださる。

 スタイルが違う二人がしかし基本的には
同じ方向を幻視し、仮想しているので
やがてぴったりと一致する。

 これは、まさに、先日鶴澤清治師匠が
言われていた、
 文楽における太夫と三味線の理想的な
関係と同じではないか。

 今年は三月の半ばには桜が咲くのでは
ないかと予報されている。
 会場にいらしていた
 電通の佐々木厚さんがそう言った。

 「桜の便り」と、不忍池の
ほとりを歩いていた時に胸の中を
ふっと通り過ぎていった
あたたかいものの感触が重なり、
心が久しぶりにのびのびとした。

 山崎太郎さんとの愉しい語らいが
魂をやさしく解きほぐしてくれていたの
だろう。

3月 7, 2007 at 07:28 午前 | | コメント (5) | トラックバック (3)

2007/03/06

(本日)ワーグナー再発見——『タンホイザー』を中心に

東京オペラの森 2007

トークイベント

ワーグナー再発見——『タンホイザー』を中心に

山崎太郎 × 茂木健一郎

2007年3月6日(火) 19:00〜

東京文化会館 大会議室

http://www.tokyo-opera-nomori.com/program/eventweek.html#talk

3月 6, 2007 at 08:32 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

銀色の弾丸

菅原ますみさんにお目にかかる。
 幼児の発達がご専門で、お茶の水女子大学
で教鞭をとられる菅原さん。

 子どもの成長についての「本当のこと」が、
世間では案外認知されないと嘆かれる。

 どのような方法であれ、それ一つで
発達の問題が解決するというような
「銀色の弾丸」があるはずがない。

 アメリカの認知発達の研究コミュニティ
では、子どもの「可処分時間」を
どのように様々な活動の間で分配するか、
その多様性こそが重視されていると
言う。

 日本では、モノカルチャー的な
議論が受け入れられがちだ。
 百マス計算であれ、フラッシュカード
であれ、
 たった一つの方法で認知発達の
問題が一挙に解決されるはずがない。

 「詰め込み教育」と「総合学習」
どちらが望ましいか?
 答えは、「どちらもやるのが良い」
に決まっている。

 コンピュータか自然の中の生の体験か、
という問いの立て方もしかり。
 AかBかという問いに対しては、
常に、「AもBも」という答えが
正しいに決まっているのである。

 ただ、限られた時間の中で何を
するか、
 その選択と優先順位の付け方に
世界観が現れる。

 菅原さんに、Judith Rich Harrisの
興味深い論文を教えていただいた。

http://www.apa.org/journals/features/rev1023458.pdf 

 Harrisは専門の研究者
ではないが、心理学会で最も権威のある雑誌の一つ
Psychological Reviewに、パーソナリティの
発達に関する論文を発表して、学会賞
(George A. Miller Award)を受けた。 
 
 ハーバード大学の修士課程から
博士課程に進む際に、教授から「追い出された」
というHarrisの長年の探求が結実した
論文。

 このような「アウトサイダー」の事績をきちんと
評価できるコミュニティーは健全である。

 Harrisのレビューは、子どもの発達においては
両親の役割と同じくらい子どもをとりかこむ
同年代の子どもたちのグループの影響が
大きいことを論じたもの。

 「幼い時は母親が家庭にいなければだめだ」
などという俗論がまかり通る日本との
風土の違いを感じる。

 思いこみによる議論は、単に害がある
というだけではない。
 何よりも知的につまらない。

 evidenceに耳を傾けるということの
大切さを思う。

 三枝成彰さんのご紹介で堀紘一さんに
お目にかかる。
 豪快な方だった。

3月 6, 2007 at 08:27 午前 | | コメント (7) | トラックバック (3)

2007/03/05

モナリザ・ライト

モナリザ・ライト

プロフェッショナル日記

2007年3月5日

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/professional/

3月 5, 2007 at 08:39 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

知を輝かせる方法

ヨミウリ・ウィークリー

2006年3月18日号

(2006年3月5日発売)

茂木健一郎  脳から始まる 第45回

知を輝かせる方法

抜粋

 私がかつて留学していた英国ケンブリッジ大学の名門トリニティ・カレッジでは、食事の際に「ハイ・テーブル」に集ったフェローたちが、それぞれの専門など気にもかけずに自由に議論する姿が見受けられた。
 そもそも、自分と同じ分野の学者など、近くには座っていない。数学の専門家がいると思えば、その隣りはイギリス文学、その向こうは政治学、こちらは生化学というように、人類の知という多様で豊かな森のさまざまな活動を代表する研究者たちが、自由に討論し、アイデアを闘わせていた。

全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/


3月 5, 2007 at 08:14 午前 | | コメント (2) | トラックバック (2)

聴くということの価値

ぽかぽかと暖かい陽光の下、
家を出るのも何だか心愉しい。

ユング心理学会に出る前に、
筑波大学附属小学校の露木和男先生、
鷲見辰美先生にお目にかかって
理科教育についていろいろと
お話する。

問いを立てることと、欲望を持つことは
同じことである。
なぜならば、どちらもその中を充足
すべき空白をつくる出すから。

問題は、空白をつくり、それを育むことが
大事であるということが、世間では
あまり認識されていないことだ。

露木先生に、すばらしい方法を伺った。
授業の最後に、問いを立てて、
その答えを与えずに、次の授業の
時にその問いから始めるのだという。

空白を抱きながら時を過ごすことの
豊饒にもっと多くの人が気付けば。

ユング心理学会のプログラムには、
4時間とってあって後は何も書かれて
いなかったが、
本当に特にそれ以上のタイムテーブルは
ないらしく、
そのゆるやかな
アフリカ的時間感覚はすばらしいと
思った。

私がまず最初に90分ほど提題させて
いただき、続いて織田尚生先生、
河合俊雄先生、川戸圓先生が討論なさった。

精神分析は、現代社会の日常からは
隠蔽されていることを扱っている。
川戸先生は青春期に小林秀雄を耽読された
そうで、その「気合い」の入った勢いの
ある語りは耳に心地よかった。
まるでタブーなどないがごとく
ポンポンと普段は隠されているような
事柄に言及される。
そのテンポが
精神分析の本来を示して余りあった。

河合先生は、関係性の重要性から出発
して、しかし、そのすべての有り様を
描くことは不可能であるから、
むしろある印象的な夢など、
単一の事項を徹底的に記述することで、
あたかも朝露の一粒に周囲の世界全体が
映るがごとくに、さまざまな事柄が
明らかになるということを目指されて
いるとされる。
記述の中に自分が入った時に生じる
難しい問題をいかに扱うか。
内部観測は本質的な視点だが、
その核を裏返すのは本当に困難である。

織田先生は、精神分析家は
あまり喋ってはいけないのだと言われた。
患者の話に耳を傾ける。
そのことが大切であると。
他人の声に耳を傾けることは、
自分の内なる声に耳を傾けることに
通じている。
精神の変調をきたす人には、自分の内なる
声に耳を傾けることができない人が多い。
聴くということの価値を、現代人は
もう少し見直すべきなのではないか。

その他、ここには書ききれないくらいの論点が
あった。
ユング心理学会の方々とは、もっとも
深いレベルで問題を共有していると
感じる。

ユングが何を考えたかなどということは、
よほど慎重に検討しなければならない問題だ。
世間で流通している手垢の
ついた概念の数々は、近いものだとしても
きっとまだ正鵠を得てなどいない。

孔子の『論語』は、孔子の死後200年
以上後にまとめられたとされる。
ユングの思想についても、私は同じような
イメージを持っている。

あまりコンテンポラリーなものに
囚われすぎてはだめなのである。

とても心豊かな気持で
小川町を後にした。
東京の街を照らす日の光が、やはり
やわらかい。

3月 5, 2007 at 08:03 午前 | | コメント (5) | トラックバック (1)

2007/03/04

カメラマン

カメラマン

プロフェッショナル日記

2007年3月4日

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/professional/

3月 4, 2007 at 10:21 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

(本日) 横井昭裕 × 茂木健一郎 トークショー

NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』第10巻
及び
『プロフェッショナル 仕事の流儀 スペシャル 明日から使える「仕事術」』
発刊記念

横井昭裕 × 茂木健一郎 トークショー

2007年3月4日(日) 18:00〜20:00
青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン青山

http://www.aoyamabc.co.jp/10/10150/#000288

3月 4, 2007 at 09:57 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

(本日)日本ユング心理学会公開シンポジウム

日本ユング心理学会公開シンポジウム

脳と仮想

茂木健一郎、織田尚生、河合俊雄、川戸圓
2007年3月4日(日)
13:00〜17:00
東京総評会館 203会議室

詳細は下記を参照ください。

http://www.qualia-manifesto.com/jungmogi20070304.jpg 

http://www.qualia-manifesto.com/jungmogi20070304map.jpg

3月 4, 2007 at 09:52 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

ひんやりと

時間に追われている日中は仕方が
ないけれども、
 夜眠る前のわずかな時間でも、
現代から離れたものに接すると、
熱を持っていた魂がひんやりと
冷えていくようでほっとする。

 昨日は、外に出でやる
仕事が二件あって、
 それが思いの外時間がかかり、
家に着いた時にはへとへとに
なっていたけれども、
 歯を磨きながらPlatoのSymposiumの
一節を読んだら、一気にイメージが
ふくらんだ。

 ギリシャ人の議論の仕方はある種の経験主義
に基づいている。
 この世で新しいものを生み出す原動力
となっているものは何か?
 生物の世界を見ればわかるように、「愛」
こそが新しい生命をもたらす。
 してみると、精神運動においても、
 新しいものを生み出すのは「愛」なので
はないか。

 ボクは、まったくその通りだなと
思って、
 歯磨き粉をくちゅくちゅと
ゆすぎながら、
 自分が信じる精神的価値を心の
そこから愛しようと思った。 
 そうすれば、きっと創造の神は微笑んで
くれるだろう。

 「愛」を意味するギリシャ語は、erosとphilia
とagepeである。

 精神運動における「愛」の本質とは何か。
 議論し始めれば延々と続く。だからプラトンは
『饗宴』を書いた。

 高校の時、親しい友人とエロスとアガペーの
差について議論した。
 思えば、浮世離れしたティーンエージャーだった。

 時々浮き世を離れてこそ、浮き世をよりよく
愛することができるように思う。

3月 4, 2007 at 09:51 午前 | | コメント (10) | トラックバック (1)

2007/03/03

Rage

Rage

3rd March 2007

http://qualiajournal.blogspot.com/ 

3月 3, 2007 at 02:54 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

雑草ぼうぼうの場所

ボクは、朝から夜まで追い立てられる
という生活に身体が慣れてきて
しまっているのかもしれない。

 走る。読む。書く。話す。考える。

 心を込める。だけど、手応えはきっと
ずっと後になって来る。

 このところ、移動中などに
ぼんやり考えるのは、子どもの頃
やっていたへなちょこな遊びに浸って
みたいなあということ。

 紙と鉛筆。
 十円玉二個。
 原っぱと石ころ。

簡単な準備があれば、工夫して、ずっと熱中する
遊びを考案できる。

 ルールの決まったゲームもいいけれども、
本当の醍醐味は、自分でルールを面白く
していくことだ。
 
 この前、取材か何かでどこかに行った
時のこと。
 空き地に棒が一本落ちていて、
それとちょうどいい感じの枯れ草のかたまりが
あって、
 思わずそれでゲームを始めてしまったのだが、
悟られるとなんともまずい光景だった。

 だいのおとなが、空き地で夢中になって
へんてこ遊びをしているところは、どう
考えても尋常ではない。
  
 だから、アクションとアクションの間に
時間をおいたりして、通行人や、ショッピング
センターに入ってしばらく出てこなかった
同行の編集の人に気付かれないようにした。

 思えば、あの時間は昨年の一番楽しかった
ことの一つだったのかもしれない。

 一日のうちに、とても楽しみなことが二つあった。
 
 一つめは、入来篤史さんが
研究所に来て、みんなの前でトーク
してくださったこと。

 もう一つは、中沢新一さんとの
対談。

 二つの機会とも、ボクに人生の
喜びの源泉について思い出させてくれた。

 入来さんが延長されたボディ・イメージの
先に見ているものは、
 中沢さんが野生の思考の中で感じて
いらっしゃることときっと同じだろう。

 どんなにシリアスな仕事でも、
それが最良の表情を見せるときには、きっと
間違いなく「遊び」へと化している。

 だから、仕事に追い立てられていても、
それは、子どもの頃、夕暮れまで夢中になって
遊んだあの原っぱの風景につながっている
はずであるが、
 その一方で、時には一切の社会的文脈から離れた
雑草ぼうぼうの場所に身を投じてみたいとも
思うのだ。

3月 3, 2007 at 01:43 午後 | | コメント (8) | トラックバック (1)

2007/03/02

Fads

Fads

The Qualia Journal

2nd March 2007

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3月 2, 2007 at 08:28 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

文字通り「カメラ」のための

文字通り「カメラ」のための

プロフェッショナル日記

2007年3月2日

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3月 2, 2007 at 08:10 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

(本日)対論 中沢新一×茂木健一郎

中沢新一×茂木健一郎
対論 「対称性人類学と芸術脳」

2007年3月2日 18時30分〜20時30分

朝日カルチャーセンター 新宿

http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0701koza/A0102_html/A010201.html

3月 2, 2007 at 07:48 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

光合成をこそ

 新幹線に乗って東京に帰ってくる時、
外はとても晴れていて、陽の光にぽかぽかと
照らし出されていて、 
 そんな中で、私はと言えば、
 車内の暗がりに身をひそめて
ひたすら眠ってばかりいたのだった。

 新横浜の手前で目が覚めて、
自分の置かれた境遇に思い至って、
 そして「はて、おれはこんな天気の良い日に
日陰にいるのだなあ」と思った。

 そうしたら、過去何年かの自分の人生が
鮮やかに蘇ってきて、
 何だか切なくなった。
 
 長き時間を、陽光の下で自らをさらして
いたい。
 長い冬に閉じこめられたヨーロッパの人たちは、
同じことを思うのかしらん。
 ぽかぽかと眠りに包まれて、
かえって陽の光の足らないことを知る。

 ボクは子どもの頃、蝶を追いかけて
野山に分け入っていたけれども、本当の恵みは
太陽にこそあったのかもしれない。

 おひさまは、ひらひらと飛ぶ
蝶々も、それを追いかけるボクも、
平等に照らし出していた。
 
 ボクは光合成をこそしなかったけれど、
陽の恵みは、間違いなく受けていたのではないかと
思う。

 その中で何が起ころうと、すべてのものの
等しき源という意味では、
 意識と太陽は似ている。

3月 2, 2007 at 07:39 午前 | | コメント (9) | トラックバック (2)

2007/03/01

プロフェッショナル 仕事の流儀 渡辺誠一郎

プロフェッショナル 仕事の流儀 第43回

シリコンバレー、疾風怒濤(しっぷうどとう)

〜技術者・渡辺誠一郎〜

世界中から超一流のエンジニアが集うハイテク産業の聖地・シリコンバレー。その中で生き抜く日本人技術者・渡辺誠一郎(56)の仕事を追う。
もともと、日本で働いていた渡辺だが、一念発起し46歳のとき、この地にベンチャー企業を立ち上げた。世界初の高速無限連写機能を誇るデジタルカメラの心臓部や、ハードディスク・ムービーカメラのコア技術を生み出すなど、高い評価を得てきた渡辺。現在、ベンチャー企業のCTO(最高技術責任者)として、競争が熾烈(しれつ)な半導体業界の荒海をこぎ続ける。
シリコンバレーでよく使われる言葉は、「ブレイクスルー」ならぬ「マドルスルー」。出口が見えない泥の中をもがき続けながら、解決策を見つけるという意味だ。
今、渡辺は“破壊分子”と呼ぶ個性的な部下たちと、デジタルカメラの新しい楽しみかたを提案した、ある新規機能開発の「マドルスルー」に挑んでいる。
国際見本市までの1か月に密着し、熾烈な技術開発の裏側を描く。

NHK総合
2007年3月1日(木)22:00〜22:44

http://www.nhk.or.jp/professional/

3月 1, 2007 at 10:39 午前 | | コメント (1) | トラックバック (7)

コタンに至る前に

博士課程の 
 関根崇泰が一筆書いてもらいたい
ものがあるというので、
NHK西口で待ち合わせた。

 奨学金関係だった。さらさらさらさら
と書く。
 なにもお菓子の持ち合わせが
なかった。
 ごめん、関根君。

 『プロフェッショナル 仕事の流儀』の
打ち合わせ。

 住吉美紀さんに相談を受ける。

 「茂木さん、MacBook買おうと思うんですけど」
 「うん」
 「種類があるんでしたっけ?」
 「メモリとハードディスクだな」
 「どうすればいいんですか」
 「ボクだったら、とりあえず目一杯
積むよ」
 「目一杯って、どれくらいですか」
 「メモリだったら、2ギガ!
ハードディスクは、200ギガ!」
 「メモリって、速さに関係するんでしたっけ」
 「そうじゃ」
 「ハードディスクの方は?」
 「ファイルがたくさんたまっていくん
だったら、多い方がええ!」

 メモリとHDどれくらいにすれば
良いかと聞かれるのは、難しい質問である。
 「多い方がええ!」という単純思想
の私はそれ以外の答え方を知らない。

 「これくらいで十分だろう」
という見極めが、性格的に出来ない。
 中庸のむずかしさ。

 有楽町で、古川亨さんと、グーグルの
高広伯彦さんと私で鼎談。

 古川さんは大変パワフルな方で、
タテイタにミズであった。
 高広さんはクールな語り口。

 面白くて、いよいよこれから、
という時にタイムオーバーになって
しまった。

 走る走る。新幹線に乗る。

 新大阪から中之島の朝日新聞へ。

 内田樹さんとの対論。

 内田さんもまた、過剰な方である。

 思うに、中庸というのは、放って
おけばそうなるんだから、
 過剰を志向しても良いのではないか。

 「傷だらけのマキロン」
こと牧野彰久さんと、串焼き屋の
ようなところで飲む。

 「いやあ、面白かったね」
 「ボクは、案外本を作っているんですよ、茂木さん」
 「だったら、ボクの本は当分いいか」
 「そういう意味じゃないです。内田
さんとの本、本気で作りましょうよ。」
 「ああ、コレコレ」

 人間、忙しすぎると焦燥が
躁に転じるらしい。
 そう言えば、字面も何となく
似ている。

 帰りの新幹線は、弁当を食べて
しまって眠ってしまいたいなあ
という切ない思い。

 しかし、仕事の神がいやいや
そんなわけにはいかんぜよ、
と命じている。

 一つ過剰に生きて見るか。
 義太夫の三味線は、最初は
力任せに弾くときを経過しないと、
 枯淡の味わいが出ないものだという。

 コタンに至る前に、まだまだ
力任せの早春でありたい。

3月 1, 2007 at 07:49 午前 | | コメント (4) | トラックバック (2)