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2007/02/17

無根拠性にこそ

エマニュエル・カントの大学での
授業は、学生たちに大変な人気で、
講義が始まる一時間前、
朝6時から教室に並ばなければ
聴けなかったという。

カントの講義スタイルは、その問題を
あたかも初めて考えたかのように
提起して、
いろいろなアイデアをその場で生みだし、
様々な角度から検討し、多角的に眺め、
講義が終わった時には、聴講生は
単に知識を得るだけではなく、
そもそも思考というものはどのような
方法論で進めるべきなのか、
その技術をも体得したとされる。

カントにあやかったわけでは
ないが、私は、何か話す時に、
できるだけ、まるで生涯で
初めてそのことを考えたかのように、
新鮮な気持ちになって、その場で表出される
ものをつかもうと努力する。

青松寺。
般若心経についてお話した。
「色即是空」がいかに現代の認知科学の
見地からみて妥当な思想であるか
ということを説明した。

末尾に置かれている

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶

という「呪文」ないしは「真言」。

意味がわからないままに、その音を
とらえたこの部分こそが、教典の
核心部分であり、
この世の真実というものは簡単には了解
できないものとして立ち現れること、
そもそも、母国語でさえもまた、
生まれたばかりのおさなごにとっては
一つの「真言」と立ち現れる、
そんなことを話した。

それから、欲望ということの無根拠
性について話した。
見かけにとらわれてはいけない。
目に見えない、ものごとの本質を
とらえなければいけない。

そんなこんなを話しているうちに、
「色即是空」は、感覚や世界認識
のみならず、
むしろ行為においてこそ準拠
されるべき倫理規則だということ
に気付いた。

目的や原因をかたくとらえてはいけない。
それでは、生命の跳躍が失われる。
行為の無根拠性をこそ自覚し、
とにかく飛び込め。

「色即是空」を能動性において
つかむこと。

盛田英粮さんにお目にかかる。
高校はイギリス、大学はアメリカの国際人。
そもそもの出発から地球規模でものを
考えていらっしゃる。

西日本新聞の、伊藤若冲についての取材。
生きとしいけるものへの愛を語った。

母校から「駒場活性化委員会」の方々が
来る。
全員一年生。
時は流れても、悩むこと、夢見ることは同じだ。

中村清彦研究室の澤繁実くんの博士論文の
予備審査をかねて、ゼミでお話いただく。

澤くんは声が大きい。堂々としていて
立派な発表だった。

朝日カルチャーセンター講座。

人間と芸術の関係。
そして、魚における社会的順序の知覚
に関する実験。

一日を振り返る。
呆然とする。
慈しむ。
そして、漂う。

生きていることに、根拠などない。
真空から物質が生まれ、
無から全ての価値が生まれる。

無根拠性にこそ、この世界の豊饒の
泉がある。

2月 17, 2007 at 11:56 午前 |

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コメント


色即是空


講義で完全にノックアウトされました。
とにかくものすごく驚いたのです。

色即是空ということばを
知らなかったわけではないのですが
理解しているとはこういうことなのかと
ただただ思い知らされたのです。

そうか、これが差なんだ。
改めまして
お会いできて光栄です。


五蘊皆空

色即是空
空即是色

愛にも
優しさにも
仕事にも
そして芸術。

方法から
感覚の模索
何度も
色々と
導かれる精神の豊饒の泉


スーザン・ソンタグの反解釈を
ふと思い出しながら
私のどこか受動的なアジア志向が
欧米的な能動性と合わさって
くるくると巡る。


カントのように
先生はいつも誘導的に
思考行程を記してくれますが

でも私は色即是空を知っていたし
材料を用意されて
導かれる行程を楽しもうにも
無理。
直感と材料の選別こそ
もう本質の差。
これが差なんだ。


今週はただ呆然と漂うことにします。

投稿: へっぽこ仕事人 | 2007/02/19 13:23:40

物事を、初めて考えたかのようにお話になられることも思考の中では大切な事でなのですね。
考える事は、こころの階段を昇ること?降りる事?で?同じ階に戻る事も意味を持つって事?
瞬間、初めて出あった時みたいに、すべての物に出会いを求めたいと願う。
若冲のお墓を何年か前に訪れました。素朴な境内の上の青い空に柿の実がくっきりときれいだった。か細い秋桜が揺れていました。お参りしたその先の小春日和の藪の中に、若冲の羅漢さまが何体も佇んでいらっしゃいました。影と光が揺れあって極上の時間でした。春は初めてなので、出会ってこよう。あの椿が咲いているかもしれない。
西日本新聞の記事が読みたい。

投稿: 井上良子 | 2007/02/18 18:30:13

文化遺産の授受をどのような形で生徒に伝えていくのか…教育現場
にいるものとして常に心の中に迷いがあります。

私は高校で数学を教えているのですが、現在の学習指導要領に準拠
した形で(これまでの中学内容が入ってきて、膨大となっておりま
す…)、また限られた授業時間数の中で、どれたけ効率的解法に終始
しない内容にできるのか、まさに試行錯誤です。

公式の証明をしっかりと伝えることで、その裏にある数学的本質を
生徒に見せていくのは当然のことと思います。ただ、それが生まれ
てきた歴史的背景などの数学史的要素や日常生活にどれだけ即した形
で伝えられるか…など様々な課題があります。

少し茂木先生のお話から横道にそれた感もしますが…そのような知
の授受において、対話法から1つの結論を導き出し共有していくの
は一斉授業の可能性の1つです。ただカントのように、1つの結論
を出す過程をさまざまな視点からアイデアを出し、思考の過程をも
見せていく講義形式も今の限られた時数の中で行うことが可能なよ
うな気がしました。

どのような形で演出できるか分かりませんが、一度チャレンジして
みたいと思います。

投稿: コロン | 2007/02/18 4:42:10

カントの授業を、ブレインストーミング・議論(アイディア)百出と考えるなら、無根拠性が出発点でゴールになりますが(トートロジーを指摘したいのではありません)、受講生はともかく、カント自身は彼なりの色即是空への自覚があったか否か知りたいところですね。

芸術家の創作活動や科学者の研究作業が、無根拠性に起因しエランヴィタールへ直結しているのは周知の通りですが、一般人が空の空なるを日常のパッションへ意識的に転化できたとしても、「普遍を経由していない人間が、情緒で物事を判断する」シーンに直面すると、やはり人間の動力の一つとして怒りが確実に座を占めており、その怒りを制御するには理性に頼んだマインド・コントロールが必要だと思わざるをえず、暗澹たる気持ちになります。

人類が、たとえば知識や経験で頭の中を真っ黒にして、真っ黒なキャンバスを作り上げて色即是空に到る時は、果たしてやってくるのでしょうか…。

投稿: 比留間尚希 | 2007/02/18 3:16:49

          根拠 ・ 無根拠

           根拠=証明

    宇宙の真理は        未開開未

             故に

        無根拠性の中にこそ豊饒の泉

  聴く耳を持とう  見る目を養おう  健全で居よう

 時に不健全 ・・・ 実験・試み・確認・も 芳情の湖 <表裏の知>

投稿: 一光 | 2007/02/17 21:54:29

虚しさでなく、あきらめでなく、静かな湖のような
無からでありたい。

投稿: 平太 | 2007/02/17 15:59:03

そもそも、宇宙それ自体も発生当初は真空のみだった。真空からはやがて物質が生まれ、その物質が複雑に絡み合って、生命が誕生した。

生命誕生に至るプロセスには、目的とか根拠性などというものはなかった筈だ。ある一定のリズムと、それに伴って生まれてくるパワーが、めくるめくような回転を続けながら万物は生まれてきたに違いない。

見かけにとらわれ、目には見えない物事の本質をとらえることなくして、どうして、生命哲学を語ることが出来よう。

人は幸せになるために生きている、という人がいるが、その、幸せになる、というのは実は生きることに常にともなう「欲望」であり、「目的」なのではない。

ともあれ、生きること自体に何の根拠もない。そして幸せになりたいという欲望にも根拠はまったくない。この世の生きとし生けるものは何の根拠もなしにこの世に誕生し、生き、そして死んでゆくのである。

しかしそうであるならば、この世に生きるときに持って生まれた「運命」「宿命」と対峙し、それを凌駕するつもりで、必死に生きなければ、本当に生きるということにはならないのではないか。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/02/17 13:46:31

えっ!
どうしてですか?
どこからどのようにして?
「真言」
私も急がねば!

投稿: 河村隆夫 | 2007/02/17 12:47:24

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