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2007/02/26

つかず離れず

 国立劇場で、文楽を観賞する。
 演目は『奥州安達原』。

 いくら武士としての対面、倫理が
あるとは言え、
 不義の子を宿し、行方不明に
なった娘との再会に、
 冷淡に「失せろ」と言い放つ
父。

 現代から見れば、あり得ないと思える
ほど、「不条理」な筋だが、
 その過酷な運命の中で必死に
生きる人(形)の姿に接すると、
むしろ根源的な生のエネルギーを
受け取ることができるような気がする。

 久しぶりの人形浄瑠璃の後、
太棹三味線の鶴澤清治さんと
お話した。

 資生堂で文化事業にたずさわって
いらっしゃる
 若林則夫さんのご紹介。

 ユネスコの世界無形文化遺産に
指定されるなど、
 「ハイカルチャー」との印象が
強い文楽だが、もともとは大阪の
町人文化から生まれた。

 鶴澤さんによると、東京と大阪では
文楽の客席の様子が違うという。

 東京は、「勉強に来ている」
という感が強いのに対して、
 大阪はもっと気楽に見ていて、
反応もストレートだという。

 落語の「どうらん幸助」は、浄瑠璃の
「桂川連理柵」を稽古しているのを
耳にした幸助さんが本当の嫁いじめと
勘違いしてわざわざ京都まで仲裁に
行く話だが、それくらい上方では
浄瑠璃が庶民の中に芸として
浸透していたのだろう。

 あとで鶴澤さんと対談するのだからと、
いつも以上に太夫と三味線の方を注視
していると、
 二人とも人形が遣われている舞台の方を
ほとんど見ない。

 そのことを鶴澤さんに伺うと、
「そうなんです。人形に合わせてはいけない
ことになっているんです」とのお答え。

 義太夫と三味線は、自分たちの美意識を
貫くべきなのであって、人形の所作に合わせる
ような感覚が生まれると、芸が乱れる
というのである。

 「市川猿之助さんにお誘いを受けて歌舞伎座で
三味線を弾かせていただいた時も、猿之助
さんはわかっていらっしゃるから、
舞台は気にせずに、思う存分語ってください、
とおっしゃった。」
とのこと。

 太夫と三味線の関係は、「つかず離れず」
が良いのだという。
 完全なる機械的シンクロを目指すのでは
ない。
 離れてしまうようで、しかし最後には
ぴたっと合う。
 そんな「闘い合う」関係が
理想的だと鶴澤さんは言われる。

 「若い時、大先輩の太夫に三味線をつける時は、
どうしてもぴったりとついていってしまう
んですが、そうすると、お前気持悪い、
そんなについてくるな、と叱られるん
んですよ。」

 つかず離れず、独立しているようで、不思議な
絡み合いの中にやがて何ものかの姿が
見えてくる。
 これは、文楽に限らず全ての人間関係に
おける基本であろう。

 「難しいのは、あまりうまく弾きすぎては
いけないということです。込み入った戦慄を
速く完璧に弾いても、お客さんを感動
させることはできない。あぶなっかしく、
やっと弾いていると見えて、実は見事に
弾き終えるというような時に、聞いている
者の心が動くんですわ。」
 
 スキーを完璧なフォームで
すいすいと滑ってしまう人が
案外つまらなく見え、
 むしろよろよろうろうろと
転びながら降りてくる人の
方が好ましく見えるという
自分自身の心の傾向を思い出した。

 鶴澤清治さんの「芸談」は、
一つの見事な生命哲学に貫かれている
ように思えた。

2007年5月7日には、「芸の神髄シリーズ」
第一回が行われ、
鶴澤さんが主演される。

http://www.nhk-ep.co.jp/geinoshinzui/explanation.html#series 

2月 26, 2007 at 09:39 午前 |

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コメント

       浄瑠璃なんて見たこと無いけれど

         武士の父 「失せろ」 には

      目前 娘の無事 確かめた 上での 「失せろ」の

         事実である事には 間違いない

      【 武士の背 】 されど  父のせなか ・・・

         一瞬の確認 ・・・ 本物の愛 。。。 ☆

投稿: 一光 | 2007/02/27 7:02:25

太夫と三味線の理想形はまさに対称性の論理が貫かれた理想の
世界ですね…。それぞれの動きと旋律を限定する規則など存在
しない…。その理想形を追求するからこそ、芸術には私たちに
強烈なインパクトと惹きつける魅力、そして癒しがあるんです
ね…。

投稿: コロン | 2007/02/27 5:52:52

最近、このブログを知りました。

つかず離れず。離れてしまうようで、しかし、最後にはピタッと合う。
双方に通っている一本の芯となるものが同じだから、最後には合うんでしょうか。お互いに闘いあいながらも、それ自体がよいものになっていく。これって、根本にお互いに対しての信頼がないとできないことかなぁと。
こういうのは、何だかいいですね。

投稿: 俊 | 2007/02/26 21:04:42

文楽に描かれた物語のように、
人間が、苛酷な状況の中に必死で生きる時、
そこに根源的な生のエネルギーが力強く放たれる。

厳しいシチュエーションにいればいるほど、
人間というのはより強く、生のエネルギーを発揮して、
力強く生き抜くことが出来るのだ。

文楽が、茂木さんにそれを伝えてくれたのに違いない。

ところで、義太夫の太夫と三味線は
「つかず離れず」との関係とかや。

おお、これは我にとりて新たな知見なりや。

三味線に限らず、全ての人間関係も、
つかず離れずの不思議なる絡み合いの中に、
何かがたち現われてくる…。

器用に上手に、すいすい生きている人より、
危なっかしく、蟻語知(ぎごち)なく、
よたよたしながらも必死に、
懸命に生きている人のほうが、本当は人として輝いているのだ。

文楽の世界だけでなく、人生も、機械的シンクロとは無関係なのだ。

離れていくようで、最後にはピッタリあうのが人生の妙味であろう。

そういや、人間は一生「未完成」なものだとよくいわれる。

「完成」的なシンクロ人生よりも、
蟻語知ないよたよたな「つかず離れず」人生のほうがよい
と、きょうのエントリーを読んで、つくづく思う午後。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/02/26 18:05:55

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