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2007/02/20

それが「真実」だとすれば

九州大学のリベラル・アーツ講座の
際にも質問があったが、 
 創造性において大事な「起源に
さかのぼる」ということは、
 必ずしも、その過去の時点において
その起源が意識されているという
意味ではない。

 創造は、多くの場合、巧みなる
隠蔽である。
 何か直視できないものが
ある時に、
 それをダイレクトに見なくても済むように
「ねつ造」が行われる。

 しかし、その「ねつ造」は
創造者本人によって意識されている
わけでは必ずしもなく、
 むしろ、創造者本人にとっては
多くの場合
無意識の衝動の下に行われること
であり、
 しかしだからこそ
生の現場において力を持つ。

 だから、過去は「発見」
されなければならないのだ。

 昨日、風邪を引きそうだったので
薬を買って飲むとき、
 錠剤にするか、それとも
顆粒にするかと考えた。

 苦そうだったから顆粒はやめたが、
それで、子どもの時錠剤が
飲み込めなくて苦労したことを
思い出した。

 親に、「この薬が飲めなかったら
死んでしまうとしたらどうするんだ」
と言われても、
 どうしても喉の奥から外に
出てきてしまって、飲み下す
ことができなかった。

 だから、ボクのもらう薬は
いつも苦かった。

 小学校の高学年になって
初めて飲み下すことができた時に、
人生の通過儀礼をこなした
気持ちになった。

 その思い出が、思春期に
読んだニーチェの
 「ツァラトゥストラ」に
重なったのは昨日のことである。

 「ツァラトゥストラはかく語りき」
の中に、男が喉の奥をヘビによって
噛まれ、横たわっているシーンがある。
 
 男は、ヘビをかみ切って立ち上がり、
そして輝くように笑う。

 生の永劫回帰を引き受け、肯定する
重大な場面だったと記憶しているが、
 そのことと、子どもの時の
錠剤の飲み下しを結びつけて
考えたことはなかった。

 その結合が昨日成立したから、
ボクの過去は変わった。

 それが「真実」だとすれば、
本当のことは長い年月にわたって
隠蔽されていた。

 九州大学ユーザーサイエンス機構の
坂口光一さん、目黒実さん、田村馨さん
と旧交をあたためる。

 博多は町人、福岡は武士の街
だというが、
 その区別がついたのは、
つい一年前のことである。

 子どもの頃から母の実家の
小倉に何度も帰り、博多にも来ていたが、
そんなことはとんと知らなかった。

2月 20, 2007 at 07:54 午前 |

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コメント

お体の具合は大丈夫でしょうか?
…という私も今は早く歩けないのでスタッカートの足音が
ちょっとスラー気味です。。。(笑)
錠剤を飲むのは、何故かとても得意なので
苦手なヒトがいると「代わりに飲んであげたい!」と思うほど。
「これは、なにかの幼虫のサナギなのでは?」
というほど大きな錠剤もスルッと飲めます。
でも、なんの自慢にもならないのがちょっとクヤシイ。

今朝、今まですっかり忘れていたことを突然思い出しました。
『赤毛のアン』のマシューおじさん。
とても内気で人付き合いも不器用な姿が、私の
「兄であって兄でない人」の姿に重なり、
いたたまれない気持ちになっていたこと。
マシューとマリラ、兄妹ふたりだけの生活は
将来の自分の姿のようで怖かったこと。
マシューの死という悲しい場面で感じた、
見えない枷がはずされたような安堵感。。。

「うわー、思い出しちゃった!しまったー!」
と、出勤前から軽いパニックに(笑)。

生ニンニク自動皮むき兼すりおろし機があるといいですね。
風邪のときには「えいっ!」とニンニクを機械に投げ込んで
…でも、あまり需要はないですね?

投稿: | 2007/02/23 1:32:40

●茂木先生,先日は素晴らしいご講義を拝聴させて頂き,誠にありがとうございました.これからもご指導・ご鞭撻のほど,よろしくお願い致します.m(_ _)m

投稿: | 2007/02/21 5:24:15

知識、体験の断片が”無意識”によって統合される…、そうで
すよね。それを視覚的なものとして記憶するのか、言語として
体系化しておくのか、その方法論は問わず常に”無意識”が作
用しているのは経験的に分かりますね…。

ところで、茂木先生のお母さんの実家が小倉なんて…実は私も
生まれが北九州市なんですよ。奇遇ですね…。

投稿: コロン | 2007/02/21 4:55:12

 私は、ニーチェを10粒ほど呑みました。これはニガウリのような味ですね。青くデコボコの石ころの青春の書という感じ。
 私は、青春時代に哲学書は読みませんでしたが、自分自身が人間とは何か、ということを考える方が楽しいと思うな~。正直、ニーチェは疲れます(笑)私には、ショーペンハウアーの方がすんなりきます。と言うことは、私の中に青春が消えてしまったのかも知れません。

茂木先生は、いつまでも少年のような風貌と心を持っていて、ブログのお写真も小学校の晴れ舞台の時のぎこちない緊張感が漂って、内部には
いつも子供が存在しているのだなぁ、と感じます。
それでいて、知を拡散しているのだから凄いですね。
ちょっと若き日の、巻き貝を手にもって正面を見たお写真の帯が出てきました。なんか、あの初々しいお顔が大好きなのです。
今も勿論好きですが・・。
 

投稿: | 2007/02/20 22:26:11

薬が苦くて飲みづらかった記憶…私もアリマス。

私の場合は「水薬」でした。当時かかりつけだった病院からもらった水薬は、赤と白の2色ありました。

私は「白い」水薬が苦くて、当時如何しても飲めませんでした。ので、甘い味がついている「赤い」水薬ばかり飲んでいた記憶が御座います。

ご幼少の時代に飲めなかった苦い薬が、小学校高学年になって初めて飲み下せたという「人生の通過儀礼」と「ツァラトゥストラは斯く語りき」の男が咽喉にかみついた蛇を噛み切り笑うシーンが、茂木さんの脳中で繋がったということは、その「通過儀礼」と、生の永劫回帰の肯定とは、互いに通底する何かがあるのかもしれない。

そういえば、私が「人生の通過儀礼」を果たした日は、いくつのときだったろうか。

創造、という名の「捏造」は許される「捏造」であり、直視できない何かをダイレクトに見なくても済むような、人間の、高等な「智恵」なのかもしれない。

その「智恵」は、人類史の中で、長い時間をかけて練り上げられたものに違いない。

…それはそうと、茂木さん!風邪をあまりこじらせないよう、お気をつけ下さいませ。それでは、これで。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/02/20 19:14:52

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