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2007/01/08

キノコの時間

とにかく、脳と手足の動きとしては、
「次はこれ、次はこれ」
と畳みかけるように様々なことを
やり続けていた休日の一日。

 階段を下りている時に、
ふと、「キノコの時間」という
メタファーが脈絡なく浮かんだ。
「これだよ、これ!」
と至福感のようなものがじわーっと
広がっていった。

 発想というものは本当に不思議なもので、
瞬間的にどこからともなく現れ、
 そしてその直後にはそれが良きものであるという
確信がすでに成立している。

 もちろん、「どこからともなく」
と言っても、
 実際には自然の中のものは全て連続しているから、
無意識の過程を含めれば必ず因果的な
連鎖の中にあるわけであるが、
 その一部分しか表象しない意識から
見ると、あたかも不連続、あるいは
無から有が生まれたかごとくに
見える。

 目が覚めた
あともしばらく布団の中でぬくぬくと
しているような時。
 目の前にある綿毛をしげしげと
見て、
 それが巨大な構造物であるかのように
想像してみたり。

 あるいは、飛行機の中で、本を読むでも
なく、ノートを記すでもなく、
 パソコンも広げず、
 ただ目を閉じて想念の海に浮かんでいる
ような状態。

 そのような時間が、階段で稲妻のごとく
ひらめいた「キノコの時間」であった。

 「キノコの時間」とは何か? 
つまり、それは、「分解する」時間である。

 生産者、消費者に対して、分解者
が存在するということを昔学校の授業で
習った記憶があろう。

 キノコは、他の生物が創り出した
物質を分解して、また土に返して
いく上で重要な働きをする。
 またそのことで、自分の生命活動を
支えている。

 人間の生活の中にも、「生産」する現場も、
「消費」する現場もあるが、同時に
 「分解」するというプロセスも大事である。

 体験したこと、
感じたこと、思ったことを反芻し、
 解きほぐし、尖ったところがあれば
覆い、結びつけ、ちりちりと刺す要素を
丸め込み、硬いものをやわらかくし、
 やがて無意識の海へと沈めていくような
プロセス。

 昼間のうちに何かエキサイティングな
ことがあり、その記憶でわくわくしているような
時に、
 寝転がってしずかに反芻する。
 そのような時間が「キノコの時間」である。

 キノコは動かない。何もしない。だけれども、
背後では一生懸命分解している。
 そのような時間のしみじみとした滋味、
豊かさに
 忙しく立ち働いているうちに思い至り、
 私は恍惚となったのである。

 時にはキノコになろうと思う。

 大学生の頃、「光合成」というメタファーも
好きだった。

 何もせず、光を受けて、「光合成をしている」
という感覚が好きだった。

 手を広げて、「今光合成をしているの」
というような時間の流れ。

 光合成からキノコまで。そう考えると
随分存在のヴァイヴが広がっていく。

 人間の中に静かに目に見えない作用があると
すれば、その植物的な部分は案外本質を
担っているように思われる。

 人がひとを好きになる時には、
目に見える動きではなく、その植物的作用に
感応するようにも思うのである。

1月 8, 2007 at 05:50 午前 |

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» キノコの時間 トラックバック Plain Living and High Thinking
さて、2007年はどういう基本姿勢で過ごしていこうかな、と思っていた所、 茂木健一郎さんの「キノコの時間」の記事が参考になりました。 収穫の話ではありません(笑) 2004年~2006年は興味のある事に、手当たり次第挑戦したような感じでした。 これからの2~3年は、それらを深めていく感じだな~と思っています。 最初、それを「熟成」のイメージとして考えたのですが、いまいちしっくりしませんでした。 茂木さんのブログに書かれていた「分解」という言葉にピンときました! 下記一部引用... [続きを読む]

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本郷中央教会の朝礼拝。あの会堂は実に美しい。 クラシックコンサートをやったりもす [続きを読む]

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コメント

今日のようなクオリア日記を読むと、すごく『ドキドキ』するのは
何故でしょう?
この文面に入りこみたいと、思う感覚はどうしてでしょう?
  
   すみません、こんなおバカなコメントで・・・。

投稿: sae | 2007/01/08 22:40:47

「キノコの時間」・・・いいですね~。

投稿: 田嶋 | 2007/01/08 19:46:42

わたしも昨日たまたま、キノコの時間について考えることがありました。

おきた出来事をひとり反芻することは癖のように、
ときおりしばられそうになるときもありますが。。
分解って、大切なんですね。

すべてのものは、因果的連鎖にある。。
 キノコの時間を、もっと大切にしようと思いました。
 
 >植物的なものは案外本質を担っているように思われる

これは。。まったく共感です。 
人を好きになるとき、その植物的作用に感応している・・・というのも。
 

わたしにはぽんやりとしかわからないことをことばとして、
目に見える形にしてしまう・・
茂木さんて、やはりすごいなあと思いました。

 適度なお休みをとりつつ・・・お仕事がんばってください


投稿: M | 2007/01/08 14:47:22

現代の教育に欠けているのは、この「キノコの時間」なのかもしれないと、この日記を拝読して強く思いました。大人が子供時代の「キノコの時間」体験を奪ってしまっている。
それは、大人が「キノコの時間」の貴重さを忘れて、紋切り型の答えを信じて込んでいる(しかし、本当には納得できていなくてストレスだらけである)ことに原因があるのではないかと思いました。そのようなことから、人間らしさが欠けた、結果にばかり目が行く社会ができてしまっている。
人間も自然の一部であるという自覚を取り戻して、教育も考えて行かねばならないのではないかと考えさせられました。
いつも示唆に富んだご文章を有難うございます。

投稿: ネイチャー | 2007/01/08 12:46:04

キノコになる、ということ・・・、それは、毎日の生活で感じたもろもろを、覆い、丸め、柔らかくして、無意識の海に沈め、自らの「魂の養分」とすることだ、と茂木先生はいう。それは生命の法則からいって、非常に理にかなったことだと、思います。
「生産」=「誕生」、「消費」=「成長」、「分解」=「死」ですから。
「生産」「消費」の次に「分解」がこなければ、次なる生命も誕生し得ない。

きょうの日記でもあるように、人間社会でも「生産」「消費」ばかりでなく「分解」も大切なのは言うまでもないことだ。

きょう一日でわくわくした時のことを静かに反芻するとき、そういう時間はとっても豊かで深い味わいがあるのだ、と、きょうのエントリーを読んで思う。

私は人間の中には必ず、目に動きとしてとらえられない、植物的な「静かな作用」があると確信している。

そしてその中には必ず、本質の姿が見え隠れしているものだと思う。

とまれ、光合成から分解までのプロセスという、生命の法則の一分にして大切な作用は人間の中にもあると感じている。

ところで、フラワーピッグは、キノコになることも必要と書いているが、私はバクテリアになりたいと思っている。

バクテリアのほうが、キノコよりも、諸々のものをより細かく分解できるからだ。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/01/08 12:00:05

「人がひとを好きになる時には、目に見える動きではなく、その植物的作用に感応するようにも思うのである」という「きのこの時間」問答を受けて想念を展開してみる。
 そういうことは一瞬にして起こるのでしょうね。まったくその人と関係などないと思っていた表面の意識を裏切って、一瞬にある関係が結ばれる。その結合は天然度が高いときほど自然に生まれる。そのようにある人が向こうからふいと私にやってくる時が人生にある。いままでたんなる他者だと思っていた人が気がつくと自分のかたわらにいる。のっぴきならない存在であることがどのように形成されたのか、それはきのこに聞いてみる以外ない。きのこ的行為による分解と結合、それははかりしれないところに存在を連れて行ってしまう。たまにはその時間に身を委ねて見たいですねえ。

投稿: 五十嵐茂 | 2007/01/08 11:14:43

この方法で、生まれ変わるというか違う生き物になれるのか・・。
それが一瞬でも。

違う生命になりきる体験するのもいいことかもしれない。

いっそ土にかえってしまいたいようにも思う。

投稿: 平太 | 2007/01/08 10:08:57

知の醸成…これはほんとに大切なことですよね、真の知識を認知
しようとする欲求や哲学的、理論的に物事を体系化する欲求を満
足させていく上で。

茂木先生の言われる”アハ!体験”もある意味、この知の醸成が
なければ生まれにくいような気がします。確かに、美や調和のと
れた秩序・変化への衝動が”アハ!体験”を底支えしているんだ
と思います。でも、その前提にとして”分かる”ということへの
不断の好奇心が重要だと思うし、その感動は自分の思考を醸成す
る時間に比例しますからね。

科学の発展にも寄与している知を醸成させる時間、ただこのこと
は日常生活の中で埋没する自我を回復させる時間でもあるんでし
ょうね。多忙の中でちょっと足を止めて、小道に咲くタンポポに
目を向けるゆとり…そんな日常に大切なことを改めて教えてもら
ったような気がします。

投稿: コロン | 2007/01/08 7:16:26

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