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2007/01/14

「バカの壁」の中に立てこもれ

クリエィティヴになるということは、
つまりはバカになるということである。

 特に、批評的センスの鋭い人は、
 その自分を外から見る目が時に
生命の躍動に託すことの邪魔になる。

 批評眼は「オレサマ」に堕さないためにも
どうしても必要だが、
 一方でそれをうまく外してやらなければ
ならない。
バカにでもなってみないと創造に必要な
「暴走」が得られない。

 かつて、読売新聞の読書委員会の後の飲み会で、
川上弘美さんが「作家というのはバカですからね」
と言われたことがあった。
 確かに、私の知り合いの作家には、
「オバカ」としかいいようのない
傾向がある。

 漱石もかなりのバカである。
 火鉢の横においてあった硬貨を、
お前が置いたのだろうと幼子をたたく。
 イギリスに留学していた時に、
下宿の主人が皮肉るために
わざと硬貨を置いたのだろうと
誤解する。
 
 明治を代表する知識人であると
同時に、
 時には赤シャツやクシャミになる
バカな没入を兼ね備えていたからこそ、
 漱石は偉大なクリエーターになることが
できたのだろう。

 この日記を読んでくださっている
賢き方々よ、
 時にはおもいきりバカになってみるのも
良いものです。

 『科学大好き土よう塾』の
収録。
 科学のことをわかりやすく伝えるという
のはもちろんのことだが、
 いかに没入するかが大切である。

 没入が激しくなければ、面白いことには
ならない。

 塾長の室山哲也さんと立ち話をする。

 「茂木さん、最初にいらした時、
すぐにブログを書いていらしましたよね。
 中山エミリちゃんが、カメラが回り始める
瞬間にぱっと明かりがついて「中山エミリ」
になるのを目撃して、驚いた、
と書いていましたね。」
 
 エミリさんのようなプロフェッショナルは、
瞬間的に脱抑制ができるようになる。

 収録終了後、打ち上げがあり、
 室山哲也さん、中山エミリさん、
 今回のディレクターの煙草谷有希子さん
などなどが参加した。
 とても楽しかった。

 二次会でカラオケに行った。
 エミリさんが歌えというので
『15の夜』を歌った。

 思えば、尾崎豊を歌っている時など、
私は完全にバカになっているのだろう。
 
 (帰宅後、
 オザキのDVDを一枚も持っていないことに
気がついて、ボクはアマゾンで注文した。)
 
 新しく土曜塾の担当になられた植木豊さんも、
良い意味で没入系の方だった。
 打ち上げが始まってすぐに、
「ビージュゥなんとか」
と言いながら入って来られた。

 中国語である。(らしい)

 一方、エミリさんはドイツ語講座に出ている。 

 ボクは英語はnative化計画だが、
もう一つくらい外国語が欲しいと思っていて、
 いろいろ探っている。

 植木さんの中国語の歌をいくつか聴いた。
 「北国の春」や「クリスマス・イヴ」
が中国語で流れる。

 思えば、表記においてはこれほどの
影響を受けながら、「音」としてはほとんど
感化を受けていないというのは
注目すべきことではないか。
 
 中国語の音素は、感覚で言えば
日本の音素の配列のちょうど二倍くらいの
密度で詰まっている感じである。

 植木さんに触発されて、
「桜坂」を即興で英語に直して歌った。

 近藤浩正さんに養老孟司先生の近況を聞く。

 最近では、走査型電子顕微鏡を買って、
それで昆虫の体を見ているのだと
言う。

 私も修士の時に電子顕微鏡を使った
研究をしたことがあるので、
 いかに大変かを知っている。
 近藤さんも大学時代デンケンを使って
いたということで、しばらく談義に花が咲いた。

 「真空を引く時が大変なんだよなあ」

 「油圧ポンプ、負荷をかけすぎると
加熱して匂いがしてきたりするんですよね」

 「Oリングをはめる時に、髪の毛が挟まって
いたりしないか、指でなぞってチェック
するんだよな」

 「それで、ワセリンを塗って。」

 近藤さんの話によると、随分小型、
簡便になって500万円くらいで
個人用のが買えるようになったのだと言う。

 うらやましいと同時に、養老先生の没入が
うれしかった。

 ダーウィンも、後年、ダウンハウスに籠もって
ミミズや植物の研究をした。

 没入こそがよきバカとそして創造性を
醸成する。

 こざかしい世間など、放っておけば良い。
 脱抑制と没入によってつくられる
「バカの壁」の中に立てこもれ。

 新聞をとりに行きながらLyall Watsonの
文体に接したら、
 なんだか心の奥の一番湿ったところを
探り当てて、ふわっと浮いたような気がした。

1月 14, 2007 at 08:41 午前 |

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» 「バカの壁」の中に立てこもれ! トラックバック Tanigox Produce
茂木さんの意見に激しく同意! クリエィティヴになるということは、 つまりはバカになるということである。バカの壁に立てこもって、好きなことをトコトン突き詰めて、 ぶっ飛んだ創造性を発揮したい! ... [続きを読む]

受信: 2007/01/14 9:56:30

» 「知る」と「死ぬ」・・・ トラックバック なんでもあり! です 私の日記!! 
   ちょうど3年前の今頃、    養老孟司氏の「バカの壁」と「逆さメガネ」を読んでいました。    どうしてハッキリ覚えているかというと、    その少し後、「最近読んだ印象に残る本」について    質問を受けたことがあり    それで鮮明に記憶をしているのです。    *    「バカの壁」の中に、『「知る」と「死ぬ」』という節があります。    つまり…    知ることは、自分がガラッと変わることで    それは昨日と殆ど同じものでも、見... [続きを読む]

受信: 2007/01/14 22:47:24

コメント

何処の国の言葉であれ、言葉のやりとりで相手に投げかけ、投げかけられるのですよね。
けど、言葉はウソを付いたり、誤魔化したり、傷つけたりするので、言葉だけが信頼できるものでもないし。
昨年から、中国の人達と関わることが多かったのですが、心が通い合うまで、感激したり、疑心暗鬼になったり、激怒したりしました。
けれど、こちらが、正直で誠実であれば、相手も応えてくれる。
人間って、きっと、何処の国の人も基本的には、同じゃないかなぁ~、と思います。

私は、中国の人が結構好きになりました。中国語は、歌うようなイントネーションで面白く、人々は大声でケンカしているようにしゃべります。バスの中でも、病院の中でもケイタイ電話で大声でしゃべります。ただ、あちらに住むのは遠慮したいです。随分鋪装されて道路も奇麗になったのですが、空気が埃っぽくて、気管支をやれれてしましそうなんですよ。

今年は本気で中国語と英語を勉強しなければと思っています。
中国は13億の人々がいて、土地も広大なので、方言もひどいようです。
ちなみに、中国の女性は非常に尽くしてくれますが、実のところ、とても気が強いので~す。ちょっとウソも付きます。

5年くらい前に、日本に来ていた留学生(大学生の女の子)に、パーティーで「一人っ子政策には困っていませんか?」と聞いたのですが、「あの制度は昨年でもう終わりました」と彼女は言いました。それはウソでした。まだ、一人っ子政策は終わっていません。

言葉よりも、きっと、音楽のほうが言葉を越えて伝わるのかも知れないですね。今年、香港に行った時、町でスマップの「世界に一つだけの花」が日本語で流れていました。

昨年は、そうそう、前にも書いたけど、安徽省で「プロフェショナル」をやっていて茂木先生が出ていたのでビックリしたが。
中国では、ちびまるこちゃんが大人気だったり、何しろ、ウルトラマンが男の子の心を捉えてはなさないですよ。

イギリスでは、ウルトラマンもちびまるこちゃんもやってはいないでしょうが。


投稿: tachimoto | 2007/01/16 1:53:51

バカと天才は紙一重…と言いますものね(笑)

それはさておき、日常生活の中で、恣意的に「こんな
ことはどうでもいい…」と情報を遮断してしまうこと
がありますよね。そこには、「こんなこと、分かりき
っている」という知への傲慢な態度が見え隠れします。

”バカ”になることで、そのような自らが作る障壁を
無くし、知の欲求にすべて身を委ね、吸収することに
没入することができる…、結局、”バカ”というのは
知への謙虚さなんでしょうね。

また”バカ”になることは自分を開放し、自由にするこ
とでもある。世間体など自らが気にすることで、自己の
潜在的能力を抑制する方向にもつながる…。

”バカ”になること…ほんと大切ですね。

投稿: コロン | 2007/01/15 3:47:19

バカになる。私も大切なことだと思います。中途半端は危険ですが,徹底的に一つのことにバカになることは新しい発見をするために必要なことだと考えます。仏陀だって不幸を徹底的に考えた末新たな考え方を想像したし,ソクラテスも知性を徹底的に考え知らないことを知る境地になる。創造的な人は誰もそのことにバカに成りきり全く新しい考え方を創り出すのだと思います。
私は小さい頃マンガが好きで勉強そっちのけでマンガやアニメばかり見ていました。中学,高校と進に連れマンガは読書へと進展しますが,文学よりも,哲学や宗教,科学も特定ではなく様々な科学への興味へと発展していきました。哲学や宗教という形而上学的な人間が脳内に創り出す世界観,科学という現実的な効用関数を探求する形而下学的活動。どちらも共通するのは「問題解決」だと思います。知識はそうした問題に対する答えの数々がキリスト教的には精霊であったり,仏教的には菩薩だったり,科学的には法則だったりするのだと思います。
何れの問題解決もある状況下,条件下では正しいのですが,一歩その枠組みを外れると過ちになる。全てに万能な方法とは唯一「考える」と言うことだと思います。
現代文明は高度な科学技術の発展によりより効率的て快適な生活環境を提案していますが,それによって人間の幸福が増大したかというと,私は懐疑的な思いを抱きます。
進化が複雑化と多様化というより高度なものへと変化しますが,その複雑さ,多様さが逆に混乱をもたらすのだと考えます。知性の本質は好奇心や問題認識に基づく未知への欲求,問題解決だと思いますが,問題解決は問題に対する多くの情報を処理し,事象全体の法則性の発見,という帰納法的プロセスを必要とします。人類が文字を発明して3前年ほどの文字情報の蓄積があるわけですが,その情報量は爆発的に増大し,増加の爆発は増殖する一方です。個人が一生涯通して読解可能な情報量は限りがありますから,全体を認識することは不可能です。唯一理解可能なものは心理的なコンフリクトフリーという心境だと考えます。仏陀の方法論は死生観という葛藤からも人間を解放しようとする試みだと考えています。
現代は人間は動物的な存在から人間的知的活動の末にコンフリクトフリーにいたり死んでいく,という成長モデルが基本だと思いますが,どれだけの人が人間的知的活動に移行できのか。人間世界は動物的な怒りや恐怖に充ち満ちているように思えます。怒りや恐怖を制御可能にする知的境涯感,道徳的には中道や中庸,哲学的には実存的感覚を養うために教育はあるのだと考えますが,それが実現する可能性が極めて低いのではないかと思います。教育の現場が知識の墓場化し,知識の刷り込みが主たる活動となり,いかに先人たちが知識という問題解決をやってきたのかが教育されていないのではないかと考えます。
現代日本は民主主義という思想を規範にしますが,私自身民主主義が正しく思えるようになるのに多くの年月を必要としました。そして日々の会話や報道等のコンテキストを自分なりに紐解いたとき,この人は民主主義の原理を無視している,全く理解していないのではないかという疑念を絶えず感じます。
養老さんのバカの壁も心を客体化することにより人間存在がいかに自由であるか,創造的自由の獲得だと思います。
創造的自由は求めれば現れますが,求めないと現れない。一握りの天才には無意識に獲得できるかもしれませんが多くの凡人には棚ぼた的に理解できる観念ではありません。自由を単なる選択の自由から創造的自由へとどの様に伝えるか多くの先人たちも試みその成果は…。
折角天から与えられた命を絶望や狂気にしないために考え続けたいと思っています。

投稿: suwakawa | 2007/01/15 2:22:52

あのう、先程 「暖簾に腕押し」とすべきところ、「柳に~」と書いてしまいました。 柳腰と混じっちゃって・・・。 消しゴム持ってきたんですけど。  まあ雰囲気似てるから、いいかな?

投稿: やまぼうし | 2007/01/14 22:35:42

川上弘美さん いいですよね。肩の力が抜けていて、柳に腕押し のあの雰囲気。 外国語に翻訳すると、どんな感じになるのでしょう。 今日、東京農大近くの交差点で、馬が調教師(?)さんと信号待ちしているのを見かけました。 すごく不思議な光景なのに、馬が当然といった顔つき(に思えた)で悠然と佇んでいて・・・。 むふっと笑いがこみ上げました。

投稿: やまぼうし | 2007/01/14 19:54:30

批評精神も大事だが、脱抑制と没入も、クリエイティヴに人生を生きるために必要なものかもしれぬ。

徹底的に馬鹿になる時間がなければ、創造の大きな喜びも得られまい。

そういえば最近、何かに没入する時間が減っていることに気がついた。

別にPCの前での、文章書きのことではない。リアル世界でのことである。

子供時代から20代くらいまでは、絵を描くことに没入する瞬間が、自分の人生のなかで結構あった。バカになる瞬間に恵まれていたのだ。

いまはどういうわけか、絵を描くことも少なくなり、こうやってウェブ上で文章を書いたりすることに没入している時が多い。でも、何故か空虚な気配を感じてもいる。

このままでいいのか。いいわけないやん。

バカになる瞬間を取り戻していこう、と、このお返事を書きながら、決意した。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/01/14 16:58:12

要は真に遊べてるか遊べてないかじゃないか。
糞マジメな深刻ぶった人間は、いつも贋物だ。
世間的、態度的には誠実で、まったく遊んでないような人ほど怪しいものはない。そういう人は結局遊んでいる。この遊んでいるというのは本質的に不誠実ということです。
つまり、楽天性もなければ、盲目的な自己展開もなく、自己破壊もない。なぜなら彼らはある思考の型に沿ってしか生きていない。それは完全に今ここにいないということです。

批評能力が高い人は生命力を優先させにくいとあったけど、僕は、単に自意識が優先してしまう人間が多いってことだと思ってます、春樹の小説の主人公のように。第一、批評能力は創造力の大半を占めているし、本当に鋭かったらそんなバカなことはしない。そういう人は、単なる批評家に過ぎないということです。文章化してものを見ているに過ぎない。自身の批評家、創造者になれていない。それに肉体的な格闘があるとき、自意識は優先されないからです。
本物は楽天性があり、主体的です。

投稿: m | 2007/01/14 14:33:50

今朝の日記を読んで、脱抑制できました。祝!ぱちぱちぱち。
たくさん、涙がでましたから。脱抑制の一歩を踏み出せた。

心の中の蛇が何匹か、出て行ってくれました。
残りの蛇も、出て行く準備を始めています。

これで、すっきりとバカとして立てこもることできそうです。
バカとして没入して面白き人生にしたいです。

茂木さんの言葉って、どこまでも温かいです。感謝します。

投稿: 平太 | 2007/01/14 10:33:51

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