統計的有意差がないということは
恩蔵絢子、柳川透、小俣圭の
博士論文の公聴会。
最終試験は先にあるし、
投稿論文の帰趨にも依存するので、
晴れて「博士」になれるか
どうかはわからない。
だが、ベストを尽くしたと思う。
三人の発表を聞いていて、
修士で入ってきた時に比べて
随分成長したなあ
と思った。
(センセイの方と言えば、最近はもっぱら
横に成長しているゾ。
だから、腕立て腹筋発作的ランニングなどを
しているのでアル。)
その一方で、審査員の先生方との
質疑応答の時などに
ちょっとしたミスもあり、
見守っている方がドキドキした。
一人だけ「代表選手」として
この日記に出てもらうと、
小俣圭くんが、質疑応答の
時に、Right Ear Advantageの有無に
ついての宮下英三先生の「統計的
有意差がないということは、visualの刺激が
dominantなんじゃないか」という
質問に対して、
「いや、あるんです」
と答えたのがまずかった。
グラフを見れば、小俣だって、
combination pairの時には有意差が
ないということは簡単に了解
できるはずなのに、
小俣の頭の中にはデータの方で
なくて、
その背後にある神経回路のメカニズムがあり、
そちらを含めて考えれば、
「このグラフに示されているデータ
だけでなく、それに付随するメカニズムを
考えると、やはりREAが重要なのです」
ということを言いたくなってしまったのだと
推定する。
そのような、主観的な思いに
ついついとらわれてしまうということは、
よくあることです。
かくなる私めも、博士論文の審査の頃には、
まだまだ、科学において(そして
生きる上での思考全般において)大切な
ディタッチメント(認知的距離)の感覚を
つかんでいなかったように
思うのである。
若者には主張があるものである。
ボクだって、博士号を取るころは、
酵素の共役反応のメカニズムについて、
熱力学の第二法則について、
知性の熱力学的基礎について、
世間に対していろいろと訴えかけたい
「主張」というものがあった。
博士の公聴会と言えば、自分が
長い間考えてきたことに対して、
先賢たち(審査の先生方と、
いちおう、この私めのことであるぞ。
指導教官だし、主査であるからな。
おっほん)に訴えかける良い機会であるから、
ついつい主張が先鋭的になるのは
わかる。
しかし、そこをぐっとこらえて、
ディタッチメントの神様に自分の魂を
捧げてほしい。
私めの書いた文章から、
「ディタッチメント」に関する部分を、
博士候補者三人への、そしてついつい
熱い思いにとらわれて空回りしがちな
全ての若者たちへのはなむけの言葉として
引用いたします。
科学的世界観とは、理想的には、あたかも「神の視点」に立ったかのように、自らの立場を離れて世界を見ることによって成り立っています。そのことを、科学者たちは、「ディタッチメント」(detachment)をもって対象を観察する、と表現します。「ディタッチメント」は、もともとイギリスの経験主義科学を特徴付ける言葉であり、日本語に直せば、「認知的距離」とでも訳せるでしょうか。
ある理論を巡って議論する時にも、その理論が誰によって提出されたか、どのような学派によってサポートされたかということには関係なく、客観的に見ることができる。そのようなディタッチメントの態度を取ることができることを、科学者たちは誇りに思っているのです。
私は、1995年から二年間、イギリスに留学していました。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのハイテーブルや、生理学研究所のティールームで交わされる議論は、まさにディタッチメントの気配に満ちていて、時に感動的ですらありました。
もちろん、科学者とて人間ですから、自分の提唱している説や理論がかわいくないはずがありません。ノーベル賞学者が、自説を批判され、顔を真っ赤にして反論している様子も目撃しましたし、他人の発表したデータのうちに、自説に有利なものを恣意的に選択するような、そのようなゆゆしき振る舞いもしばしば見られました。
しかし、そのようなしばしば猥雑で醜い現実と、「科学はこうあるべきだ」という理想とは違います。たとえ自説について議論する際にも、ディタッチメントを持って、それが自分によって提出されたということを忘れたかのように、公平、かつ客観的に論ずるべきだという態度は、多くの科学者によって共有されているように見えました。
「この理論は、あそこは長所だけど、ここはまだ弱いね。この部分は実験データによってサポートされているけれども、あの主張はまだ裏付けがないね」
あたかも、自分の目の前の机の上に置かれたオブジェを眺めながら、皆で「ここはちょっと出っ張っている。ここは引っ込んでいる」と議論しているかのような、ある意味では狂気とさえ言えるような静かなディタッチメントの雰囲気がありました。その点こそに、少なくともイギリスの経験主義における科学の最良の伝統があるということを、私は思い知らされたのです。
茂木健一郎 『「脳」整理法』(ちくま新書)
1月 6, 2007 at 09:41 午前 | Permalink
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コメント
「ディタッチメント」(detachment)の概念に関して、茂木先生のブログを読んでいると、福田恒存が”日本人の生き方には、立体感、距離感、分離感が喪失している”ということを著書『日本を思ふ』で触れていたことを思い出しました。
キリスト教など神の目で自分を客観的に見ることが日常的にできる文化の根付いていない日本人には、どうしても自分の置かれている状況を冷静に分析することは苦手だと思います。ただだからこそいいというわけでもない…。
現在私は高校で数学を教えていますが、数学はその”神の視点”を経験させる上で大切な教科だと認識しています。また、その視点が欠落した授業はただの知識の授受でしかないでしょう。その意味で、数学教育に携わる者としての責任は大きいと思いますし、自戒の念をもって今後の教育活動に励んでいければと思います。
投稿: コロン | 2007/01/06 17:54:54
論文執筆にベストを尽くされた学生の皆さんのお姿と、その成長ぶりに、目を細められる茂木さんの姿が目に浮かぶようであります。
是非全員の方が博士号を獲得されることを願ってやみません。
若いときはやっぱりディタッチメント(認知的距離)をおくことよりも、まず自分の主張をしたくなるものなのだろうな。
若い日は、それほど熱い思いをもてあましているんだもんな。
もっとも、私めは、こんな年齢(42歳)になっても、
うだうだと自分の主張ばかりして、
ディタッチメントをおくことができずにいます(苦笑)。
ディタッチメントって、科学だけではなく、人生全般でも、ものごとを俯瞰する為に必要なのに、なぜか身に付いた試しがない。
嗚呼何たる未熟者。フラワーピッグがうらやましい・・・。
でも何時の日か、多少なりとも認知的距離をおく思考の訓練をして、身につけてみたい。
投稿: 銀鏡反応 | 2007/01/06 12:15:37