« An Ode to the Potentially Infinite | トップページ | Japanese New Year »

2007/01/01

長き静かな準備の期間

考えてみると、年の始まりというのは
四季のうちいつでもよい。

 太陽の周囲を地球が公転している
軌道の任意の点を開始点としても
よいはずだ。

 それを、北半球で発達した文明が
年の始まりを
冬の真ん中にしたというのは、
生理的そして心理的理由があるのだろう。

 春は、生命の始まりにいかにもふさわしい。
 だから、もう少し遅い時季を一年の
始まりにするという手もあったはずだ。
 
 もし、蠢動が高まり、
春の息吹がいよいよたけなわになり始めた頃を
「新年」にしていたらどうなるか?

 終わりと始まりが、スリリングに交錯する。
 「麦秋」という言葉があるように、
それは一つのアンビヴァレントな情緒を
醸し出すことになっただろう。

 真冬に年の初めがあると、
ピュアで厳かな気分になる。

 年が改まり、生命の活動が始まるまでに
助走期間がある。
 だが、その長き潜在する蠢きの時間にこそ、
本質がある。

 考えてみれば、ビッグバンで宇宙が
開闢してから、生命が誕生するまでの
間にも、長い助走期間があった。

 そのような静かな準備の時間の中で、
生命はすでに蠢動していた。

 その間に起こったこと。たとえば、
恒星の内部で
次第に重い元素がつくられ、ビッグバンで
さらに新しい元素が創成される。
 そのような元素の化学的反応の長くて重層的な
積み重ねが、
 生命を支える上で欠かせないインフラストラクチャー
になった。

 生命は総合的なものであり、
様々な要素がロイヤル・ストレート・フラッシュの
ようにそろわないと成立しない。
 生命学が、すなわち複雑系の科学になる
ゆえんである。
 
 人間の知性もまた同じで、ある明示的に
表現できる目的を達成するためには、
 さまざまな「助走」が必要である。

 個人的に達成したい目的があるが、
そのための準備も随分いろいろあるなあと
思う。
 それが今年の念頭の所感。

 「私」という「意識」の「今、ここ」
のありようも、また、
 過去に起こった様々なことの
積み重ねの上に成り立っている。
 クオリアの一つひとつは、進化の過程で
環境の中にあふれる様々な偶有性の中から
一つの本質抽出の結果として「今、ここ」
に残ってきた。

 厳冬期に新年を
迎えるのは「長き静かな準備の期間」への
思いをはせるという意味において
 いかにもふさわしいのではないかと
思う。

1月 1, 2007 at 09:27 午前 |

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 長き静かな準備の期間:

» 後は春を待つばかりなり トラックバック へなChoこ
茂木健一郎 クオリア日記 2007/01/01 長き静かな準備の期間 より。 [続きを読む]

受信: 2007/01/02 10:17:37

コメント

はじめてコメント投稿いたします。中年エンジニアの、いりた、と申します。

準備、助走、の大切さ。また、それは静けさの中で充分におこなわれ熟成させるものであること。
現代の情報化社会で、忘れらてしまっているもののように思えます。
昨今は、「急成長」だの「一発当てようぜ!」といった言説が多いなか、とても新鮮に感じました。

新年を厳冬期においた古代の人々には、素晴らしい智慧があったのだなあと思います。

してみると、いにしえの人達のクオリアは、その質的な面において我々現代人のクオリアよりも、むしろ豊かであったのではなかろうかとすら想像します。

私もこのところ、いわゆる「成果」が認められず悩んでもいるのですが、今一度充分な準備と助走をおこなおうと心静かに決意しています。

投稿: いりた | 2007/01/02 2:22:28

           泥中の貝のように

長き静かな準備の期間   黙々

  初詣 有料駐車場すべて満車  第五無料駐車場も静に並んで
参道までも 黙々と歩く 階段 黙々 やしろ前  黙々  参拝

      独り言いう 熟年とすれちがった   類

沈黙の限度  脳科学的には ? 独り言の発生 ?

                 

投稿: 一光 | 2007/01/01 19:57:34

新年明けましておめでとう御座います。
今年も、大活躍を期待しております。

過労には要注意ですね。

投稿: 長谷邦夫 | 2007/01/01 13:59:02

一年の始まりを迎えました。
爽やかな元日ですね。
昨年の3月に茂木先生の本と出会って以来、色々な言葉の意味を考える勉強をさせていただきました。

昨年末の日記にあった
収束と拡散とは・・自分の密度を濃くすることによって、高エネルギーとなり、それは拡散してゆく、という意味だと私は捉えました。

畏友の池上さんの言葉「何もない」は
茂木先生には、邪な心が何もない、ということかしら? とも思い
しがみつくものが何もない、と言う意味かしら? とも。

しかし、何もない、と言う言葉は、価値あるダイヤモンドも見る人によって、価値あるものにも、価値のないものにも見えるわけですし、求める人にとっては、何かがあるけれど、求めない人にとっては、何もない、ということかしら、と考えていました。

でも、もしかしら、もっと深い意味があるのかもしれないですね。

ともあれ、私たちは、留まっているように見えても、地球が太陽の周りを回っているのだから、意識していなくても動いているのですよね。
今年も宜しくお願い致します。

投稿: tachimoto | 2007/01/01 12:23:06

明けましておめでとう御座います。

旧年度は有難う御座いました。

本年度もまたこの「日記」におじゃまさせていただきます。
何卒宜しくお願い申し上げます。

気の遠くなるような長い準備期間を経て、生命の蠢動が始まる。
しかも様々な条件が
ロイヤル・ストレート・フラッシュのように揃わないと、
生命は発生し得ない。

その条件が奇跡的に揃ったが故に、
呼吸し、物を食べ、行動し、考える「生命体」が発生したのが、
我等人類を含めて様々な生物の住まう、この地球である。

生命の誕生した星であるがゆえに、地球はあらゆる多様性・複雑性の存在する、太陽系でただ一つ、銀河系でも指折りの、豊穣の星となった。

新春が1月ではなく若し4月であったなら、
北半球のこの一角では桜爛漫の中でお花見をしながら新年を寿ぐ、
そんな風習ができ上がったと思う。

終わりと始まりの、言って見れば“ドタバタ”でスリリングな交錯の中で、もっと落ちつかない、派手派手な新年の幕開けになったと思う。

生命の蠢く日、たとえば桜の蕾の開く日まで、長い準備の期間があり、それは次なる活動のために力を蓄える為の期間なのだ。

その期間たる真冬の期間に新年を迎えることは、
気分がピシリと引き締まり、落ちついた心持になる。
そして内面で希望という光がまたたくのを感じるのだ。

それにしても今年最初の夜明けは、とても穏やかだ。
2007年が茂木先生に取りましても、我々にとっても
有意義でしかも無事安穏、希望に満ちた一年でありますことを
衷心よりお祈り申し上げます。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/01/01 12:01:54

コメントを書く