とてつもなく個性的な蝶々
一卵性双生児を見ればそっくりな
ことでもわかるように、
すがたかたちはほぼ遺伝子で決まる。
知性や創造性などの「才能」も、また、
脳の神経回路のパターンで決まるという
点において、
広い意味での「すがたかたち」である。
才能に上下はない。ただ、個性が
あるだけである。
美醜も上下の問題ではなく、
本来は個性の問題であること、
その基準は、時代とともに変化するもので
あることは、
2万年以上の前の作とされる
Venus of Willendorf
を見ればわかるだろう。
外見もまた才能であり、
才能を条件付ける文脈は
変遷する。
佐藤江梨子さんと対論する
機会があり、
佐藤さんがタレントになった過程が
おもしろかった。
なろうと思ってなるのではなく、
「発見される」
中学生の頃から、周囲の男たちが
うるさくて仕方がなかったという。
ある女優はデビュー前に原宿の周囲を歩いている
間に10回スカウトされたと聞く。
ステージママがむりにプッシュして
なる道もあるのだろうが、
自然に発見されるということもあるのだろう。
ボクは、一度、電車の中で、ほれぼれと
するようなおじいさんを見かけ、
自分がスカウトだったら絶対に
声をかけたいと思ったことがある。
上品な白髪といい、雰囲気といい、
素晴らしかった。
あの人は電車に乗ってそのまま
どこにいってしまったのだろう。
自分が悪いのだが、やることが
とてつもなくあって、
死にそうな一日だった。
脳に過負荷をかけるのが快楽原理だと
言っているわけだから、
それを実践するしかない。
自律分散システムのシンポジウム。
オーディエンスが変わると、
話す内容も更新される。
embodimentや、intuitionといった
見果てぬ夢を追うromantic scienceもまた、
世界の全ての情報を検索し尽くそうとする
good old-fashined A.I.の脅威の前で、
再定義され、構築されなおさなければ
ならない。
embodiment 2.0とは何かということに
ついて、
脳の抽象的な抽象構造を追う
neuroeconomics的な文脈の中で
考え直す必要があるだろう。
その時に、romantic scienceはregenerateされる。
そんなことをお話した。
養老先生との対談などを収録した
「天才脳の育て方」(アスコム)の
打ち上げ。
アスコムの柳さんから、蝶の
標本をいただいた。
ボクはお酒を飲みながら、
マジマジと試すがえす見とれてしまった。
蝶のすがたかたち、色、斑紋は、
天敵による補食、性淘汰などの
文脈の中で、それぞれユニークに進化
してきている。
ボクたち人間は、すべて同じ種類の
動物だと思いこんでいるが、
本当はめくるめく異なる様相が、
一人ひとりの中にあるのではないか。
ボクたちの一人ひとりの中に
とてつもなく個性的な蝶々がいる。
現代の文脈において「美しい」
と思われるものを追うだけでなく、
醜いもの、だらしないものの
中にも可能性を見いだすのが
本来の生命哲学なのであろう。
『ファウスト』第二部の
古代ヴァルプルギスの夜を書いた時の
ゲーテは、それがはっきりとわかっていた。
1月 30, 2007 at 07:15 午前 | Permalink
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受信: 2007/02/01 0:39:55
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コメント
こちらのブログ始めてきました
茂木健一郎さんの文章すてきです。
また、読ませてもらいます。
投稿: PV TUBE | 2007/01/31 20:38:06
個性…教育活動に関わる私にとっては大きな問題です。
美醜に関わらず、やはり物にはその物なりの味がありま
す。それをどのような形で見出すか…教師として必要な
ことだと考えています。
ただ茂木先生のように、ものの形や色、シナプス回路…
さまざまなものに個性を見出すところに、先生の人間性
と温かさを感じました。というのも、葉の形状もフラク
タルで表されるなど、あらゆる形状のパターン化が進み、
事物への新鮮さを失いつつあります。事物を1つの形状
パターンとして扱っていくと、そこにはただスキームを
認識することしか考えなくなり、感性が失われてしまう
ように思うんです。
常に形状にも変化があり、その変化を楽しむ…そんな感覚
を持ち続けたいものですね。
投稿: コロン | 2007/01/31 6:07:47
「僕たちひとりひとりのなかに、個性的な蝶々がいる」…何と素敵な言葉なのだろう。
私達はその蝶々を一生大事にしていきたいものだ。
投稿: 銀鏡反応 | 2007/01/31 5:46:48
「才能に上下はない。ただ、個性があるだけである。
美醜も上下の問題ではなく、本来は個性の問題である
こと、その基準は時代とともに変化するものである。」
「ボクたちの一人ひとりの中にとてつもなく個性的な
蝶々がいる。現代の文脈において「美しい」と思われ
るものを追うだけでなく、醜いもの、だらしないもの
の中にも可能性を見いだすのが本来の生命哲学なので
あろう。」
まったく、その通りだと思います。
それにしても、ヴィレンドルフのヴィーナスが亀
ヶ岡遺跡出土の土偶(しゃこちゃん)と余りにも
似ているのには驚きました。
当時の人々の豊穣な精神性が窺えます。
投稿: hashimoto | 2007/01/31 3:34:20
この世の「美しいもの」だけ追ってばかりでは、生命の実相は見ることは出来ない。
「醜いもの、だらしのないものの中にも可能性を見出すのが本来の生命哲学であろう」
そうだ、すべての生きとし生けるものには、可能無限が秘められている。それを見極めようとしたのは、仏教者たちだった。
世間でいう「美の基準」なんて、時代時代で変化するものだ。
平安~安土桃山時代には美人の基準は「おたふく」型の下膨れだった。文明開化で近代化が始まった明治のころは、丸ぽちゃで太い眉の顔が美人とされた。
それがいまでは、スレンダーで細面が美人とされる。しかし、また時代が変われば、今度はひょっとしたらまた、明治の時のようにフト眉・丸ぽちゃタイプが美人とされるのかもしれない。
本来は個性の問題であり、仮令醜くても、魅力的な個性の持ち主であれば、その人はまわりから注目され、愛される。
またはそこまでいかなくても、そこそこ注目される存在となる。
だから、個性を輝かせることが大事なのだな、とつらつら思う。
フラワーピッグこと茂木さんは、
メドゥサのような黒髪にがっしりしたからだ、童顔でふっくらしているが、余人を持って換え難いくらい、鋭利なる知とユニークで好感のもてる個性の持ち主であられる。しかも時代がいくら変わっても、茂木さんの評価は不動だと思う。
そういう人がこの島国にいること自体、なぜか奇跡のように思える。
投稿: 銀鏡反応 | 2007/01/30 18:05:10
今日の茂木さんの日記は、僕の感性にとってもぴったり合ってて、思わず手帳に内容を写してしまいました。茂木さんの「才能」のとらえ方に、自分自身を信じて努力を続け、喜びをもって脳に過負荷を与えていきます。生きとし生けるもの、人間も含み、とっても不思議な存在です。全てから学ばせてもらおうという気持ちに、さらになりました。
投稿: 信 | 2007/01/30 9:00:35